第4話 夜の死神
その読経は干上がった田畑に慈雨が降る様に心を潤すようだった。
言葉の意味こそ無学な自分にはわからない。
しかし、説教臭さも抹香臭さもない。
ひび割れた大地に水が染み込むような言葉と声。
竹井源次郎は薄ら目を開けた。
窓とカーテンを閉め切っても打ち付ける雨の音が聞こえる。
その音と合わせるように、あの声も聞こえる。
やがて、薄暗さにも目が慣れ、窓辺に腰かけた大柄の男の影が見えた。
手は経文を広げている。
黒いハーフコートとズボンを着込んで全身黒づくめだ。
見知らぬ男だった。
なのに、正体はわかった。
知っていた。
自分が、この世界に生れ落ちてからずっと傍にいたもの。
いつ、如何なる時も片時も離れずいた。
「死神……」
その名を呼んだ。
経が止め、経文を閉じ、男はゆっくり竹井を見た。
その眼は波一つない湖面に映る月のように静かに済み切り暗い。
「俺は……死ぬのか?」
「ああ……死ぬ」
驚きもしなかった。
今まで不摂生をしていたのだ。
むしろ、遅すぎる感すらあった。
思わず、大きな溜息を吐いた。
自分が死ぬというのに、長らく両肩に乗っていた重荷が取れたような気がした。
「この病院には、迷惑をかけたな……」
思いが口に出る。
「毎日、誰かがここに来て俺に言葉をかけるんだ……『いい天気ですね』とか『元気になれよ』とか……俺は寝たふりをしているのに……」
目線を天井に移す。
「それに、息子が来ないということはあいつ一人でも生きているんだろう……」
「………今日は、多弁だな………」
「へっ………俺は元々孤児で親にどう育えられたかも知らねぇ。だから、嫁さんが出来ても子供が出来てもどう接していいか分からなかった……弱みを見せられなかった。子供のころから必死に世間にかじりついてきたんだ」
疲れた。
誰も居なくなり、一人になった時。
それまで渇望して自由への喜びはなく、虚しさと孤独が支配した。
気が付いたとき、自分は既に周囲から『孤独老人』として忌み嫌われていた。
それでよかった、と若かったころの自分は思うだろうが、実際は寂しかった。
紛らわすには酒しか知らず、彼は年金のほとんどをつぎ込んだ。
ある日、市が実施しているボランティアの若い医師が家に来て腹を見ると驚いた。
「癌ですよ!!」
そう宣告されても病院に行く気にはなれなかった。
酒が飲めなくなるからだ。
酒が飲めなければ自分に圧倒的な孤独と寂しさの重圧がのしかかる。
その酒ですら徐々に飲めなくなり、彼はなけなしの金で農薬を買い、飲んだ。
そのまま死ねばよかったのに、誰かがお節介を焼いたのだろう。
――もうすぐ、死ねる
目を閉じても分かる。
死神がすぐ近くまで来た。
すっと、胸のあたりを指が撫でる。
と、途中で動きを止めた。
その瞬間、強烈な痛みが胸から走り、思わず目を開けた。
しかし、そこには死神の影も形もなく、ただ、いつもの病室があっただけだ。
雨は止み、少し欠けた月がベットを照らしている。
夢だったのだろうか?
そこに明かりと共に足音が聞こえる。
見回りの看護師だろう。
慌てて竹井は目を閉じた。
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