第2話 医者の依頼

その日は、前日からの雨が上がり抜けるような青い空があった。

病院へ出勤するため、沖場は鉄のドアを開けた。

「おー、晴れている、晴れている」

嬉しそうに言う。

「でも、天気予報じゃあ午後から天気が下り坂って言っていたわ」

そう言って玄関で妻は折り畳みの傘を差し出した。

「ありがとう」

素直に受け取るが、この青空を見ていると雨が降るとは思えない。

「子供たちはどうしている?」

「まだ寝ていますよ………………久々にパパと遊んでもらって嬉しかったみたい」

「そっか……とは言っても、俺がやったのは遊園地に連れて行っただけだけどな」

「それでも、嬉しいものなのよ」

妻から背中をポンッと叩かれた。

「いってらっしゃい」

「いってくる」

沖場も応え、家を出た。


豊原県星ノ宮総合病院。

この病院こそ、沖場秋人が外科医として勤めている病院である。

職員用出入り口から病院に入り、外科用ロッカーで上着を脱いで白衣に着替える。

すれ違う同僚や部下に挨拶や軽い会話をしてカンファレスの行われる会議室に向かう。

夜勤の医師たちから二十四時間以内に入院した患者などの連絡を受け引き継ぐ恒例の会議である。

沖場もメモを出し患者の容態などを書き込む。

「えー、次に実原区一二三(ひふみ)町の竹井源次郎さん。年齢は七十九歳。職業は無職……………」

その時だ。

一人の介護士がドアを開けた。

「大変です!!竹井さんが点滴を抜いて家に帰ろうとしています!!」

「なに!?」

その介護士は肩で息をしながらも続ける。

「い…………………今、先輩方が止めているんですけど蹴るわ殴るわの惨事で………………」

その言葉を聞いて沖場は少し思案した。

周囲を見ればほとんどの者が沖場の顔を見ていた。

普段の口の悪さや過去の武道経験から勝手に『武道派』とキャラ付けされたらしい。

「あー、もー……………分かったら行くよ!」

そう言って沖場は立ち上がった。


部下数人を(嫌がるのを半ば強引に)連れて介護士の後を追う。

その病室の出入り口は既に他の入院患者たちで人だかりになっていた。

「俺は帰る!!」

「ダメです!!まだ、毒素を出していません!!」

「うるさい!!」

若者と老人の怒鳴り合いが聞こえる。

沖場たちは顔を見合わせると、誰ともなく頷き合い黒山の人だかりをかき分ける。

すでに、大部屋には歩ける患者は部屋を抜け、残っているのは寝たきりの老人ばかりだ。

騒いでいるのはカーテンで仕切られた窓際の一角だ。

「帰る!!」

「ダメです!!」

薄いピンクのカーテンを開けるとそこでは老人と看護師数人が半ば取っ組み合いのようになっていた。

若い看護師たちの腕や頬には引っ掻き傷がある。

中には血がにじんでいる者さえいる。

流石に危険物である点滴針などは撤収されている。

老人が、若い看護師の一人に殴ろうとした瞬間だ!

その腕を沖場が背後から取った。

「何だ!?」

殺気じみた老人の目。

だが、沖場も負けてはいなかった。

「黙れ」

その狂気じみた目でさえ押さえつける沖場の気迫にその場にいた誰もが背筋を凍らせた。

ゆっくり腕を離す。

それをチャンスとした看護師たちが腕に点滴針を刺していく。

老人は反撃しない代わりに誰とも目を合わそうとしなかった。

不意に沖場は老人と同じ視線の方向を見た。

あれだけ晴れていた天気に厚く黒い雲がかかってきた。


取りあえず、医局でひっかかれ噛みつけられた介護士たちに沖場は消毒液などで治療していく。

「いっててて………」

若い介護士が顔を歪ませる。

沖場はそんな若者に対して淡々と消毒液をしみ込ませた脱脂綿をピンセットで塗布して塗り薬を付けたガーゼを置いて包帯を巻いた。

他のものも腕白坊主よろしく頬や額に絆創膏を貼られ、傷跡が長いものは包帯が巻かれている。

「あの爺さん、嫌に元気じゃねぇか?」

処置を終えた沖場が介護士に質問をしつつ診察室にある端末からキーボードを出した。

「爺さんの名前は?」

「竹井源次郎さんです」

頬っぺたに漫画のように絆創膏を貼った名札に『南』と書かれた眼鏡の介護士が答えた。

十字に張ったのは単に沖場の遊び心である。

「ああ、カンファレス中に名前が出ていたな……」

そう言いながら沖場はキーボードを叩く。

すぐに画面に電子カルテが映し出された。

「病気や怪我ではなく自殺か……新聞の集金係が見つけ119番をしたんだな………」

所見を手帳に記していく。

「パムなどで応急処置をしました…………」

「そうか……ま、セオリー通りだな。傍には農薬の空容器があったから自殺とみたわけね………」

「ええ、まだ完全に毒の排泄は出来ていませんが、後数日で完了します」

別の看護士がため息交じりに報告する。

「飲んだ農薬は………………………」

そこには如何にも安直な商品名が乗っていた。

インターネットを立ち上げ、検索サイトにコピーした商品名を張り付ける。

マルブズミクス。

その名前を見た時、沖場の様子が一変した。

「あっちゃああああ!!」

思わず頭を抱える。

「どうしたんです?」

何も知らない看護師が声を掛ける。

そろそろ、患者がやってくる時間だ。

だが、そんな声、沖場には届いてない。

「竹井さんの担当医師に連絡を入れてくれ。血液洗浄もしないとダメだぞ」

「そんな大げさな………」

南は苦笑する。

「おめぇらは知らねぇだろうがな、マルブズミクスってのは血液に吸収されたら最後。徐々に血管や呼吸器官の動きを止める毒薬だ」

その言葉に看護師たちも息を飲んだ。

沖場は思案し、溜息と共に思いを吐いた。

「ほら、仕事仕事!!さっさと、散った散った!!」

手を叩きながら沖場は介護士たちを追いだした。


午後になり、沖場は遅めの昼食を食べた。

今日の診察は午前中だけで、午後は書類整理などだ。

故にロビーは誰もいない。

食事を終え、沖場はほぼ無人のロビーを歩く。

いるのは、処方箋と会計を待つ外来患者数名か設置されている巨大テレビのワイドショーを見ている比較的元気な数人の患者たちぐらいだ。

だが、そこに明らかに場違いとも思える男がいた。

全身を皺ひとつもないスーツで包み、足には革靴、腕時計は光にきらめき、眼鏡は知性の高さを印象付け、整髪料を使ったであろうきっちりと整えられた髪………

一応、病院の規定で沖場も革靴にスーツの上着を脱いで白衣をかけているが、革靴もスーツも近所のアピタのセールであった安物ではない。

「あのぅ……製薬会社の方でしょうか?」

沖場が声を掛ける。

時々、飛び込みで製薬会社が自社の製品の宣伝や売り込みに来るのだ。

その場合、対応するのは事務方になるので沖場の出る幕ではない。

「あなたは?」

眼鏡の奥の眼光が光る。

沖場は慌てて懐に入れてある名刺を出した。

「これは失礼しました。私、この病院の外科医をしております沖場秋人と申します」

思わず、猫かぶりの言葉が出てしまう。

スーツの男は差し出された名刺を一瞥する。

そして、ビジネスマナーに乗っ取り両手で受け取ると男も名刺を出した。

その肩書きには星ノ宮を拠点にする大手不動産会社の名前があり、本店の係長だということが分かった。

名刺交換が終わると男が聞いた。

「この病院に竹井源次郎という男がいると聞いたのですか……」

意外な質問だが、沖場はすぐに返した。

「申し訳ありません、関係者の方以外………」

「自分は竹井の息子です」

沖場は一度名刺を見直す。

苗字が違う。

「婿養子になったので……」

息子は憮然とした態度で言った。

「ああ、ご子息様ですが……今、源次郎様は血液を…」

見舞いかと思い、病状を説明しようとした。

だが、息子から出た言葉に思わず言葉を失った。

「あの男は、まだ、生きていたんですか?」

「え?」

竹井の息子は腕時計を見る。

「会議まで時間がないな……死んだら名刺にある番号へ連絡をください。骨だけはもらいますから……」

そう言って背を向けた。

「ちょ……ちょっと待ってください!!」

沖場は思わず叫んだ。

「何か?」

息子は首だけ沖場に向けた。

「お父さんに何か声でもかけてあげないんですか?仮にも、あなたの……」

「あなたは、何も知らないからそんなことが言えるんだ!」

沖場より大きい声で息子は反論した。

「何?」

今度は体ごと沖場の方へ体を向けた。

「あのクソ人間は俺が子供のころから酒を飲んでは母さんや俺に当たっていたんだ!!そのくせ、ろくに仕事はしない!母さんは俺が小学生になる前に過労で死んで俺は親戚中をたらいまわしになったんだ!!ようやっと就職して結婚して縁が切れたと思ったら警察から連絡が来て……」

と、周囲の視線が自分に向けられたのを察したのだろう。

息子は冷静を取り戻し、頭を下げた。

「突然、大声を出してすいません」

「いえ、こちらこそ」

しかし、沖場は息子が次に出した言葉に絶句した。

「面倒なら安楽死させてください。あと、使える臓器があったら使ってくださって結構です」

息子の背を送り、沖場はしばらく呆然と見送った。

いつの間にか雨がぽつりぽつり降り出していた。


数日後。

雨は本降りになっていた。

「やっぱ、安楽死させたほうがいいんじゃないですかねぇ?」

日勤が終わり、沖場と部下の外科医はロッカールームで帰り支度をしていた。

「おいおい……」

ネクタイを締める沖場が部下を咎める。

「簡単に言うじゃないよ……やったら、殺人罪だ。そもそも、日本の法律にゃあ安楽死に対する法律もないぞ」

「わかっていますよ」

部下の外科医、笹倉は慌てて止める。

「でも、家族も看取らないほど冷め切っていて、明瞭な意識があって自殺をした……仮に助かったとしても誰が待っているんですか?」

「うん?そりゃあ………」

沖場は口どもった。

「それに手遅れの癌も見つかったんでしょ?」

竹井源次郎は、その後、精密検査に回され癌が発見された。

それも、すでに体全身に散らばり手の施しようがないほどであった。

「仮に農薬を全部除去できたとしても、癌はどうするんです?」

「うう………ん」

「あと、医事課の人も困っていましたよ。一応、国民健康保険に入っていたけど、沖場先生から聞いた息子さんの様子だと入院費を出してくれるかどうか……」

「じゃあ、笹倉は発見時に見殺しにしろっていうのか?」

「そうとは言いませんよ。でも、結果的に竹井さんにやっていることは俺たちの自己満足じゃないですか?」


そこから、どうして家ではなく平野平家に来たかは覚えてない。

ただ、気がついたら門の前にいた。


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