雨のち晴れのち曇り
隅田 天美
第1話 久々の来客
その日、平野平秋水は昼近くになって窓を叩く小雨の音で目を覚ました。
昨日は、表沙汰に出来ない案件を警視庁から極秘裏に依頼され、その解決に少々暴れた。
ここ、星ノ宮市は太平洋に面しているため様々な違法薬物や人身売買の取引現場になっているのだ。
無論、警察なども黙認するはずもなく水際で食い止めているが、巧妙化・複雑化する中で法律などに寄り限界があるのも事実だ。
故に、本来、民間人である平野平家に依頼することが時々ある。
息子の正行は、学校に行っているらしく家には誰もいない。
冷蔵庫を見ると中には付箋で「親父へ」と書かれたラップに包まれたおにぎり数個と小さい鍋に味噌汁が入っていた。
おにぎりを一個食べながら鍋を火にかけ、温まった味噌汁を椀に入れて居間に行く。
――少し、塩辛いな
そんなことを思いながらもお握りとみそ汁は綺麗に秋水の胃に入った。
暇である。
寝間着から普段着に着替えたが、特に出かける場所もなければ急を要する仕事もない。
そもそも、やる気がしない。
さりとて、正行が帰ってくるのには、まだ十二分の時間がある。
身長二メートル以上、筋肉質で裏社会では知らない者はいないという伝説的傭兵の最大の弱点。
暇。
テレビやネットを見てもきっと内輪もめ同然のくだらない言い争いやゴシップにだらけだろう。
と、椀を洗いながら、あるものを思い出した。
水切り籠に洗った椀を入れ、再び冷蔵庫を開ける。
「あった、あった……」
中から出したのは子持ちシシャモだ。
昨日、正行をおつかいに商店街に行かせたら言ったものの中に、子持ちシシャモが入っていた。
正行曰く『魚屋の前を通ったら、主人に【この子持ちシシャモはお買い得だよぉ】と猛烈プッシュされ買ってしまった』
その時は、息子の優柔不断さに呆れたが、なるほど、改めて見ると目の透明具合や腹の張り具合がいい。
秋水は鍋置き場から古臭いフライパンを出した。
元々は門弟の一人が家で使っていたものだが、荒い使い方をしていたらしくテフロンが所々剥がれている。
そのフライパンにアルミ箔を敷き、傍に置いてあった木のチップを置く。
その上に網を置き、シシャモを並べる。
蓋をして電熱器の上に置き電源を入れる。
しばらくして、フライパンの中のチップが焼ける。
煙がシシャモを覆い蓋の隙間から漏れ出す。
どうやら、成功したようだ。
後は、好みの燻具合になるまでビールを冷蔵庫に入れ冷やし、読書でもして時間をつぶそうと思っている。
秋水は、どんな本を読もうか考えた。
かつては忍者をしていた家系故に暗殺術の他に暗記術なども伝わっている。
見た目に反して元々秋水は暗記が得意であった。
故に、本気になれば、その国の本が一冊あれば一晩で全く知らない他国の言語を日常会話程度なら覚えることも可能だ。
小説なども書店で立ち読みをすれば大体覚えることは出来る。
だが、暗記を目的で読むことと、感動や面白さを求めて読むのは違う。
前者は文字や情報の羅列に過ぎないが、後者は心を揺さぶる。
ジャンルはこだわりが無い。
小説なら時代劇からライトノベル、古典から最新作、中国の故事からアドラー心理学、ユーモアから恐怖の体験談…………
『そういえば、星ノ宮を舞台にしたホラー小説が最近、人気だってネットに出ていたなぁ』
隣の応接間(元々は秋水の父、春平の書斎)の机の下においてある小説を思い出した。
そこに向かおうとしたときだ。
門に人影を見つけた。
「あれ?沖場兄ちゃん」
門にいたのは、傘をさした少し細身の男だ。
沖場秋人。
ざっくりとしたジーパンにTシャツの上に薄手のブルゾン。
あまりお洒落には気を使っていないようだが、その姿がにじみ出る人柄を表しているようで妙にあっている。
外からは分からないが星ノ宮総合病院の外科医である。
そして、秋水の兄貴分でもあった。
普段は、病院内でも気風のいい兄貴肌であったが、今日は妙に大人しい。
「よう」
言葉にも覇気はない。
「珍しいねぇ、ここに来るの何年振り?」
「二十年ぶりだな」
そう言いながら歩いてくる。
「まずは、春平爺さんに線香をあげせさてくれや」
仏壇は居間の隅に鎮座していた。
派手な装飾はないものの年月を感じさせる渋みがある。
また、こまめに掃除などをしてご飯などを上げているのか清潔である。
まず、鈴を鳴らし香炉に火をともした線香を立てる。
沖場は目を閉じ、拝み、手を解いた。
「遺影、ないんだな」
最初に出た言葉だ。
位牌はあっても写真は一枚もない。
「うん、そういうの爺さん好きじゃなかったし、いっぱい思い出はあるから………」
「そうか……………」
こういう沖場は珍しい。
そこでこんな提案をした。
「なあ、兄ちゃん。道場で久々に組手でもしない?」
「組手かぁ……………」
沖場は懐かしそうに呟く。
秋人と沖場が初めて出会ったのも、道場であった。
当時は、まだ、秋水は学校にも上がらず、沖場もまた大病から回復したばかりであった。
沖場の父は、体力を向上させるために親友の道場に通わせることにした。
体が小さく体力もあまりなかった代わりに勝ち気で兄貴肌だった沖場。
身体こそ大人顔負けだったが気弱で怖がりだった秋水(当時の様子を知ったら若い弟子たちは気絶するだろう)。
この二人はお互い足りないところを補い合い、いつしか兄弟のように見られるようになった。
大学に入ってからは、沖場は医学部に進学し、自然と道場へは足が遠くなってしまった。
風の噂では医師として良き師匠や先輩たちに恵まれ各地の病院で『武者修行』をしていたらしい。
最近になり、地元である星ノ宮に戻り病院内で偶然再会した。
「覚えているかなぁ?」
沖場は苦笑する。
「覚えてなきゃ、思い出すまでだよ」
押し入れから自分の空手着と見学者用空手着を渡した。
秋水は手早く着替え、土間に出た。
後ろをちらっと見ると慌てて沖場が出された空手着を着ていた。
流石に覚えているのだろう。
手早かった。
秋水は煙を出している電熱器のスイッチを切った。
ガスコンロのように熱感知がないために、ほっておくと火事になりかねないのだ。
約一時間半後。
全身汗だらけになりながら秋水たちは戻ってきた。
取りあえず、土間の横に隣接した風呂場で汗を流す。
昨日の残り湯だが五右衛門風呂なので保温効果でちょうどいい温度になっている。
「覚えてないなんて言って、結構出来てんじゃん」
「お前が思い出させるまでやらせたんだろう?」
秋水は先に体を洗い、風呂の中に入る。
沖場はまだ洗い場で体を洗う。
「じゃあ、先にでるよ」
「おう」
秋水は台所で手を洗うと、冷蔵庫から白玉粉を出してボールの中にいれた。
少しずつ水を加え程よい固さになった頃を見計らって丸め中央をくぼませ、先に沸騰させておいた鍋の中にいれる。
浮き上がる前に冷水を作る。
白玉が浮き上がったら冷水に入れる。
「風呂出たぞ」
風呂場から沖場の声がした。
「居間でちょっと待っていて!!」
冷蔵庫から常備してある餡子を出した。
短めの可愛い竹ぐしに水気を切った白玉を数個刺して餡子を乗せる。
それを数本ほど作る。
「お待ちどうさま」
居間では沖場がのんびりと外を見ていた。
秋水の声に振り返る。
「これ、兄ちゃんが好きだった串団子」
沖場は意外そうな顔をした。
「よく覚えていたな……………というか、酒を出すと思っていた」
「酒を出したらべろんべろんに酔っぱらって言いたいことを忘れちゃうでしょ?」
しばらく、沖場は沖場の顔を見た。
「分かっていた?」
「そりゃあ、久々だけど子供のころからの長い付き合いだもの。顔色ぐらいわかるよ」
そう言って秋水はコーヒーマシンを出した。
「兄ちゃんは、何でもかんでも全部背負っちゃうから………………」
コーヒーの粉末と水を機械にセットした。
すぐに水が音をたて、セットされたサーバーの底に薄茶色の液体が広がった。
「つい、最近のことなんだが……………」
沖場はある患者の話を始めた。
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