ファイナルウォーズ

励まし誘拐

 居住区に建つ、一棟のボロアパート。

 今にも崩れ落ちそうなほど古びたそのアパートの二階にある一室の扉の前に、百合子は立っていた。

 百合子の表情は暗い。泣きそうなぐらい目尻を下げ、唇を軽くとはいえ力を込めて閉じている。その手には缶詰や瓶など、食料品の入った麻製バッグを握り締めていた。着ているのは仕事で使う作業着ではなく、お出掛け用の清楚な色合いのチュニックと、膝丈まであるスカート。生地は麻で作られた安物だが、デザインや色合いが工夫されていて、それなりに可愛いと百合子は思う。二十三歳にもなって子供っぽい格好かもと思うが、好きなものは好きだから仕方ない。

 ……百合子は一度、扉の前で深呼吸。暗かった表情を意図的に笑みへと変えたところで、目の前の扉をノックした。


「茜さん、百合子です。ご飯持ってきましたよ」


 そして要件を扉の向こう側……この部屋の住人にして、百合子の親友である茜に向けて呼び掛ける。

 大声、というほど大きな声は出していない。しかしそれなりに強く扉は叩いたし、声だって室内に届く程度には出したつもりだ。

 ところが、部屋の中から返事はない。慌てて動くような物音も聞こえなかった。

 反応がない事に、百合子は小さなため息を吐く。しかしこれは『想定内』だ。こんな有り様だから、百合子は食べ物片手に此処を訪れている。

 百合子はスカートのポケットに手を入れ、そこから一本の鍵を取り出す。鍵を目の前の扉の鍵穴に入れて回せば、カチャリと音を鳴らし、扉が開かれる。

 百合子は扉を通り、室内へと進む。部屋の中は電気も点いていない状態で、薄っすらとだが埃が舞っていたりと、まるで数日間留守にしているかのような状態になっていた。

 笑顔にした顔を顰めながら、百合子は更に奥へと進む。と言っても所詮ボロアパートの一室だ。中にあるのは1Kの小さな部屋であり、扉の直ぐ側にあるキッチンを抜ければ最奥の部屋に辿り着く。

 そして部屋の隅に置かれたベッドの上で膝を抱えている、茜の姿を見た。


「もー、茜さんったら。起きてるならちゃんと返事してくださいよ」


「……ああ、百合子ちゃんか。ごめんね、ボーッとしてて……」


「知ってます。もう何ヶ月通ってると思ってるんですか……あ、これ別に責めてる訳じゃないですからね?」


「うん、大丈夫。ありがとう」


 茜は顔を上げてニコリと微笑む。

 ……昔ならば元気で眩く、色惚けた男の一人二人を軽く悩殺したであろう笑み。しかし目許に隈を作り、やつれた今の顔では、悩殺どころか心配されてしまうだろう。以前は短く切り揃えていた髪は長く伸び、もう少ししたらセミロングになりそうな状態だ。ただし髪質はボロボロで、麗しいとはお世辞にも呼べないが。

 そんな茜の姿から逃げるように百合子は視線を反らし、壁に掛けてあるカレンダーを見遣る。

 カレンダーが示すは、三月。

 しかしこれは嘘だ。百合子が最後に訪れたのが先週で、その時にはもう三月最終週だった。つまりこのカレンダーは本来一枚捲られていないといけない。

 ため息を吐きつつ、百合子は壁にあるカレンダーの下へ。部屋の主である茜の許可を得ずにカレンダーを破り、正しい月である四月に変えた。更に部屋の床に落ちていた赤ペンを手に取り、今日こと第一日曜日の部分に赤丸を付ける。


「もう、大丈夫だって言うならカレンダーぐらい捲ってくださいよ。四月になってから何日経ったと思ってるんですか」


「えへへ……申し訳ねぇ」


「本当に申し訳なく思うなら、月が変わる度に言われないようにしてくださいよ……キッチン借りますね」


 呆れたような口振りで窘めつつ、百合子はキッチンの方へと足を運ぶ。

 そうして茜に背中を向けた状態で、物思いに耽る。

 茜が部屋に閉じこもるようになってから、七ヶ月以上の月日が流れた。

 七ヶ月前に起きた事――――ヤタガラス討伐作戦の失敗、そして親しかった怪獣ユミルが死んだ事は、茜の心に大きな傷を残した。今でも彼女は塞ぎ込んでいて、用事がなければ部屋から出ようともしない。一応食事ぐらいは自分で取っているが、缶詰やら白米のみやらと、兎に角栄養バランスが悪い食べ方ばかり。このままでは半年どころか一月も身体が持たないからと、こうして毎週日曜日に百合子は訪れ、食事や部屋の掃除などの世話をしているのだ。

 とはいえ何時までもこの生活を続ける訳にはいかない。なんらかの事情で百合子が突然来れなくなる可能性はあるし、何より、今の食事は国からの配給と、茜がこれまで貯蓄してきたお金でやり繰りしている。そして七ヶ月間塞ぎ込んだ今の茜は、怪獣狩猟という仕事をしていない。ヤタガラスとの戦いで心が折れて、ヤタガラスどころか怪獣自体を目にすると精神的に不安定になってしまうからだ。

 今の茜は休職中という扱いだ。しかし怪獣達の繁栄により多くの産業が突発的に壊滅した今、失業状態の市民は非常に多い。『休職』で働いていない者がいると知られれば、相当の憎しみを向けられるだろう。無論、その判断を下した職場にも、だ。いくら茜が優秀なハンターで、休職中は給料も出ていないといっても、果たして何時まで職場がこの状況を許してくれるのか……


「(まぁ、生活の先行きが不透明なのは私にも言える話なのですが。あと何年、いや、何ヶ月この生活を続けられますかね)」


 ヤタガラス討伐作戦の失敗は、徐々に日本全体を蝕んでいる。総動員した戦闘機と戦車は破壊され、神の杖も再起不能バラバラ。ユミルという友好的な怪獣さえも喪失した事で、人類は怪獣達の増殖をいよいよ抑えられなくなってきた。

 ヤタガラスの旺盛な食欲も、怪獣個体数抑制の大きな一要素でしかない。人類が減らそうとしていた分がなくなれば、どんどん怪獣の数が増えていくのは明らかだ。実際には怪獣同士の食い合い、餌不足などでそこまで爆発的に増えるものではないが……増加傾向にあるのは間違いない。

 そして何より、人間には戦う力がないので怪獣の襲撃を止められない。ヤタガラスの影響で物資の空輸を使えない日本では鉱山や炭鉱を採算度外視で掘っているが、戦う力がないので怪獣がそこを襲撃すれば放棄するしかない。兵器を作るにも資源がなければ作れず、立て直しも叶わなくなる。

 今は備蓄でやり繰りしているが、いずれ住宅地すら守れなくなるだろう。銃などの狩猟道具はどんどん劣化し、怪獣狩猟が出来なくなって人口を支えられず、人手が減った事でますます生産性が落ちて道具が作れなくなり……

 恐らく、そう遠からぬうちに日本社会は完全に崩壊する。就職難や貧困どころでない、文明の外へと放り出される時が来るのだ。百合子のような心身共に健康な身でも、果たして『貧しい』で住むような暮らしが出来るかどうか。

 そして茜は、心が疲弊している状態で、生きていけるだろうか?


「(……やはり、そろそろ荒療治をしてでも、社会復帰させた方が良さそうです)」


 七年前……怪獣が現れる前であれば、心の傷に荒療治など以ての外だった。十分ではないかも知れないが様々な支援があるし、こう言うのも難だが、二十〜三十代なら仕事なんて選ばなければ少なからずある。ゆっくり、何年も掛けて心を癒やせば良かった。

 だが、今の時代はそれを許さない。仕事は健康な若者にすらなく、支援なんて不十分とすら言えないほどのもの。流石に原始時代ほど苛烈ではないにしても、という程度には劣悪だ。

 その考えには百合子も頷く。いや、頷いた。

 だから『彼女』に荒療治を頼んだ。尤も、彼女の姿は何処にもないが。

 その事に、ふと茜も気付いたらしい。


「あれ? そういえば、今日は真綾も来るんじゃなかったっけ?」


「ああ、そうですね。準備があるから少し遅れてくると、今日連絡がありました」


「準備? ……なんか嫌な予感がするな」


「奇遇ですね、私もです」


 もうすぐ十年になろうという付き合いだ。互いの事はよく知っている。真綾という人間は優秀で、常識的で、真面目であるのだが……どうにも思い切りが良い。いや、決断力が高いのは悪い事ではないが、常人なら躊躇する事でも『合理的』なら躊躇わないタイプなのだ。そんな彼女がわざわざ準備してくる時というのは、何かと大事になりやすい。

 百合子も、真綾が何をするつもりなのか聞いていない。心当たり……茜の心の治療のためだという心当たりはあるが、それ以上の事は百合子も知らなかった。

 そもそも真綾は科学者ではあるが、医者ではない。医療知識は百合子達三人の中で一番豊富だろうが、専門家でない以上所詮は素人だ。ましてや精神的に参っている人の治療、つまりカウンセラーの真似事など出来るのだろうか。

 ……言うまでもなく、カウンセラーがいるならそちらに任せるべきなのだ。しかし怪獣による被害で、『精神』という曖昧なものは社会的に排除されてしまった。或いは気合いと根性、大和魂で乗り切れという精神論が台頭した所為かも知れない。精神病の薬や治療に物資を投じるぐらいなら、気合いと根性で身体を動かして働け。そうすれば心は健康になりつつ物資を生み出せる……こんなのは物資不足を誤魔化すためのものでしかないというのに。

 だからこそ自分達が茜を助けようと、百合子達は考えた。例え素人考えの荒療治になろうとも、だ。真綾も同じ気持ちだろう。


「(まぁ、真綾さんの事ですから、きっと本とか読み漁って専門的知識を得ているでしょう。なら、そんなに心配する事ありませんよね)」


 親友の論理的思考はよく理解している。故に百合子は、自分達がこれから行おうとしている事に大した不安など抱かない。

 それよりも自分なりの方法を試そう、具体的には美味しくて温かな料理を出すというやり方で――――百合子はそう思いながら、とりあえず肉粥(怪獣肉と磨り潰した米を材料にした料理)を作ってやろうと、茜の家のキッチンから小鍋を探そうとした

 そんな時である。

 外からパラパラと、ヘリコプターの飛行音が聞こえてきたのは。


「……ヘリ?」


「別にヘリなんて珍しくもなくない? 最近は特にさ」


 百合子がぽつりと声を漏らしたところ、茜はそのような意見を述べる

 去年までなら大型の怪獣退治に出向く自衛隊ヘリなんて殆どなかった。というのもヘリコプターは確かに航空戦力ではあるのだが、戦闘機ほど速くもなく、高度も取れない。そのため大型怪獣に撃破される恐れがあり、火力や生産性、燃料消費の面でも戦闘機と戦車のチームの方が効果的だったからだ。勿論テッソやコックマー程度には燃費・安全面で有効なため、小型怪獣の退治にはよく使われていたが……大型怪獣相手では無駄死にするだけだと『温存』される事が多かった。

 しかし去年夏のヤタガラス討伐作戦で情勢が変わった。ヤタガラスの手により虎の子の戦闘機と戦車を破壊された事で、今や怪獣退治に使える兵器はヘリぐらいしか残っていないのである。そのため大型怪獣が現れた際には、残されたヘリを総動員して戦うしかない状況。成果については「やらないよりマシ」な程度なのが、なんとも悲しいところだが。

 ともあれそうした事情から、ヘリが飛ぶ事は今やさして珍しくない。珍しくないのだが……どうにも違和感が百合子の胸でざわつく。小鍋を探す手を止めてまでして考えて――――ふと気付く。

 ヘリコプターの飛行音が、どんどん近付いている事に。


「……なんか、さっきから近付いてません? このヘリコプター」


「そういやそうだね。なんだろ、近所に大きなテッソでも出たとか?」


 茜も異常さに気付いたようで、思い付きであろう可能性を述べる。しかし百合子だけでなく、茜自身それはあり得ないと思っている筈だ。住宅地にもテッソやコックマーなどの怪獣はいるが、それらの怪獣は定期的に人間が狩っていて、大きなものは殆どいない。何しろ、人間はわざわざ危険な山や森に怪獣狩りに行くのだ。大体自衛隊の戦闘ヘリが出撃するような怪獣が現れたなら、まずは避難警報が鳴る筈。

 だからこのヘリコプターは住宅地ではない、何処か遠くに向かうのが道理なのだが……どうした事か、音の接近は終わらない。いや、終わらないどころか、茜の部屋の窓がバリバリと音を立てて揺れるほどの風が起きてきたではないか。

 つまり、このアパートのすぐ近くにヘリコプターが着地した事を意味する。補足すると、茜が暮らすこのアパートの傍に軍事施設はない。


「……百合子ちゃん。私、今すっごい嫌な予感してるんだけど」


「奇遇ですね、私もです」


 百合子と茜は互いの顔を見合い、こくりと頷き合う。そして二人揃って部屋の外へと跳び出す。

 外に出たところ、アパートの前にある空き地にヘリコプターが一機止まっていた。ヤタガラス討伐作戦に参加した際、多少兵器について勉強した事もあって、そのヘリコプターが所謂武装ヘリであると分かる……分かるが、何故武装ヘリが近所の空き地に着陸しているのか。確かにその空き地はかなり広いが、周りには住宅が多数あり、こんな場所に降りれば風圧や騒音でそれなりに迷惑だというのに。

 一体これはなんなのか。答えを知るべく百合子と茜はヘリコプターに近付いてみる。

 すると扉が開いて、中から白衣姿の女性――――百合子達の親友・真綾が現れた。


「ん。目の前にいるのが件の子らよ。後はよろしく」


「ラジャー」


 ちなみにヘリコプターには真綾以外にも、鎧のような防弾チョッキを着ている男性が数名居たが。着ているものからして明らかに筋肉質な彼等は、迷いなく百合子達の下にやってくる。

 そしてこれまた迷いなく、百合子達をお姫様抱っこの要領で抱き上げた。あまりにもスムーズな行いに、百合子も茜も抵抗する意欲すら湧かない。

 ただ、ヘリコプターに乗せられそうになれば、流石に疑問ぐらいは抱くもので。


「ちょ、どういう事ですか真綾さん!? なんでこんなヘリとか男の人達とか……」


「何って茜に荒療治を施すためだけど?」


「だからどんな荒療治をするのかって聞いてるんです! 私は精々叱咤激励とかそんなものかと思って……!」


「何言ってんのよ。やるなら本格的にやらなきゃでしょ」


 そういうと真綾は不敵に笑う。

 そして実に堂々とした態度で、こう答えるのだ。


「茜をヤタガラスに合わせる。自分のトラウマがどんな存在なのか知り、理解すれば、恐怖も絶望も挫折も乗り越えられる筈よ」


 体育会系思考と理系思考が見事に合体した、荒療治以上の何かをするのだと……

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