復活の英雄
ヤタガラス討伐作戦が失敗してから、二週間の時が流れた。
四年前に自衛隊が完膚なきまでに負けたと報道されたなら、国民は少なからずパニックになっていただろう。しかし現代の日本国民にとって、怪獣に
最初こそ混乱もあったが、たったの二週間で社会は何時も通りの空気に戻っていた。諦めと達観による結果であっても、社会がスムーズに動くのは良い事だろう。
そうして普段通りに動き始めた社会では、当然仕事がある。ヤタガラス討伐作戦に参加した百合子も特別休暇が終わり、普通の社会人生活に戻った。長期休暇後の仕事というのは何時もより妙に疲れたりするものだが、数日も働けば元の調子を取り戻すだろう。
等と思っていた矢先の事。
「……何故に私はこのような状況に置かれているのでしょうか」
車のアクセルを踏みながら、百合子はぽつりと言葉を漏らす。
百合子は朝の山の中でトラックを走らせていた。それ自体は、まだよくある事だ。百合子の仕事は猟師達が仕留めた怪獣の肉を、町の食品工場まで運ぶ事。この山のように怪獣が棲んでいる地なら、こうしてトラックで入るのはよくある。
「だ、だってぇ……なんか、こう、不安で……」
トラックの荷台に茜が乗っているのも、よくある事だ。尤も普段の彼女は、こんな弱気な物言いはしないのだが。
しかしそれよりも『普段らしからぬ』ところは――――荷台部分にもう一人、自衛隊員の青葉がいる事だろう。
何故青葉が一緒にトラックに乗っているのか? それは百合子達がこれから行おうとしている事が普段の仕事こと怪獣狩りではなく……ユミルにヤタガラス討伐作戦の協力を依頼するためだ。
「山根さん、お手数お掛けして申し訳ありません。ですが北条さんからの要望でして……」
「あ、いえ。そういう訳ではなく……茜さん、どうしたんですか? 私がいてもユミルの説得には、なんの役に立たないと思うのですが」
「それは、そう、かもだけど……」
百合子が尋ねても、茜はどうにも情緒不安定で、答えに覇気が足りない。
とはいえそうなってしまうのも、分からなくもない事だと百合子は思う。
茜はこの四年間、ヤタガラスへの復讐のために様々な努力をしてきた。四年という時間を長いと見るか、短いと見るかは人によって違うだろうが、二十一歳の百合子達にとっては決して短くない時間だろう。本来なら高校や大学での生活に使われていた筈の期間を、復讐に費やしたのだから。
それだけの時間と青春を費やしたのに、いざ本当のヤタガラスと戦ったら完膚なきまでに打ち砕かれた。
一体どれほどの精神的打撃を受けたのか。百合子には想像も付かないが、茜の精神が弱っているのは確かだ。一人でいたくない、友達と一緒にいたいという気持ちになるのも仕方ないだろう。
或いは、ユミルを巻き込む事に罪悪感があるのか。
「……着きました」
考え込んでいても、車を走らせればいずれ目的地に辿り着く。
百合子がトラックを止めたのは山頂部分。木々が疎らになり、視界が開けた場所だ。今日の天気が快晴という事もあって、地平線に並ぶ山々の姿もよく見える。
そして山の麓で一人、腹筋をしている巨人――――ユミルの姿もあった。
「(って、なんで腹筋してるんですか?)」
目許を擦って見直すが、やはり山の麓に居るユミルは腹筋をしていた。一秒一回というかなりの速さで、延々と腹筋をしている。更に彼の眼差しは極めて真剣なもの。どう見ても遊びや暇潰しでしている様子ではない。
こうした真剣な運動は、『トレーニング』と呼ぶものだろう。
人間として考えれば、トレーニングを行う事自体は不思議ではない。腹筋なんかは正に自宅でも出来るトレーニングであり、「毎日百回やってます!」なんていう人もいるぐらいだ。しかし『怪獣』だと思えば、筋トレに励むなんて中々に珍妙な行為。
百合子としては、ユミルの事は人間として見ていたつもりだったのだが……本心では怪獣と思っていたようだ。自分の心の奥底を自覚させられて少し居心地が悪く、百合子は声を詰まらせてしまった。
「……すみません。彼は何をしているのでしょうか?」
唖然としていると、青葉からも質問が飛んできた。よりユミルに詳しい百合子達なら何か知っていると考えたのかも知れない。
とはいえ問われたところで急に何かが閃くという事はない。ユミルの腹筋なんて初めて見たのだから。考え込んだところで答えが出てこないなら、本人に尋ねるのが一番だろう。幸いにして彼は、尋ねればすぐに答えてくれるぐらいには素直で純朴だ。
「えっと、分からないので聞いてみます。おーい、ユミルさーん!」
百合子が大声で叫ぶと、ユミルは腹筋していた動きを止めた。顔をこちらに振り向かせた彼は、颯爽とした動きで山を登り、あっという間に百合子達の下までやってくる。
【オハヨウ! ヒサシブリ!】
百合子の顔を見るや、ユミルは笑いながら挨拶をしてきた。
百合子は驚いた。ただしそれはユミルが急接近してきたからではない。彼の身体が、たった二週間見ていないだけで大きく変化していたからだ。
元々筋肉質だった身体は、更に屈強なものとなっていた。腹筋も胸筋も腹斜筋も、全てが一回り大きくなっている。身長も僅かに伸びているような気がした。写真を持って比較している訳ではないので確かな事は言えないが、感覚的にはかなり成長していると百合子は確信する。
僅か二週間、会わなかったうちに。
【? オマエ、ドウシタ?】
「え。あ、えと、随分身体を鍛えたなぁっと思いまして……」
【ウン! ガンバッタ!】
やってきたユミルが不思議そうに首を傾げて尋ねてきたので、百合子はおどおどしながら思っていた事を伝える。するとユミルは力こぶを作りながら、楽しげに答えた。
成程、頑張ったのですか。
一瞬すんなりと納得しかけて、けれども「そうはならないでしょうよ」と脳内でツッコミ。しかしユミルが嘘を吐くとは思わない。彼は一般的な人間と違い、とても素直な性分だからだ。ユミルとしては本当に『頑張った』だけなのだろう。
ならばこれは、怪獣という存在そのものの特性と考えるべきか。
「えっと、おーい、ユミルー……」
【! アカネ! ミテミテ!】
トラックの荷台から降りてきた茜を見ると、ユミルは大興奮。両腕に力こぶを作り、胸も張って胸筋を見せ付ける。鍛え上げられた肉体を見せ付けられて、茜も少々戸惑い気味だ。
「す、凄いねー……というか腹筋なんて、誰に教わったの?」
思わず、といった様子で、茜はユミルに尋ねる。
【オッサン! コウスルトツヨクナルッテイッタ! オレ、ツヨクナッタ!】
するとユミルは嬉しそうに笑いながら答えてくれる。
オッサンというのは、恐らく茜や百合子と同じ食品工場の従業員だろう。狩りのために偶々立ち寄ったのか、はたまた
それに、新たな疑問も一つ浮かんでくる。
腹筋はユミルが自発的にやっている事。誰かに強制された訳でなければ、やらないと困る事でもない。そしてユミルは腹筋をトレーニング、即ち自分が強くなるための手段とちゃんと理解している。
何故ユミルは、強くなろうとしているのか?
「私からも、一つ質問してもよろしいでしょうか」
その疑問は、茜と共に荷台に乗っていた青葉も抱いたのだろう。
ユミルは始めて見る青葉を不思議そうに見つめた。が、元より人懐っこい彼の事。初対面の人にも物怖じなどしない。
【ナンダ? オレニヨウカ?】
「はじめまして。私は陸上自衛隊所属、穂波青葉です。よろしくお願いします」
【リクジョ、ジエイ……ウゥ、ナマエナガイ】
「……私の名前は本題ではありません。あなたは、何故身体を鍛えているのでしょうか。その鍛えた肉体で、何をしようと考えているのですか」
単刀直入で無遠慮な問い掛け。しかしだからこそ、ユミルにも分かりやすい質問を青葉はぶつける。
無邪気なユミルは、その問いに堂々と答えた。
【アノトリ、ヤッツケル! オレ、モウマケナイ!】
彼の回答に、百合子と茜は身体が強張った。ただしそれは、彼の言いたい事が分からなかったが故の反応ではない。分かったからこそ思わず止まったのだ。
アノトリというのは、きっとヤタガラスの事。もう負けないとは、二度目の勝負をした時には勝つつもりだという事。
人間達が協力を申し出る前に、既にユミルはヤタガラスへのリベンジを誓っているのだ。トレーニングはそのためのもの。彼はまだ、ヤタガラスに敗北してその心が折れていない。それどころか一層闘志を燃やしているように百合子には思えた。
その姿は百合子にとっても眩く見える。純粋な闘争心故の、野性の美しさとでも言うべきだろうか。
ましてや心が折れた者には、その美しさがどれほど綺羅びやかに見えるのか。
「……ユミル。一つ、訊いても良い?」
【? ナンダ? ナニヲキキタイ?】
茜の言葉がよく聞こえるようにするためか、ユミルは身体を乗り出し、耳を傾ける。青葉が後退りする傍で、茜は気持ちを整えるように深呼吸。
「私達がユミルの手伝いを、ユミルのリベンジに協力したいって言ったら……ユミルはどう思う?」
そして話の『本題』を切り出した。
百合子、いや、茜達の目的はユミルに自衛隊と協力してくれるかを尋ねる事。ヤタガラスを倒すために力を貸してくれるかの確認であり、約束を取り交わす事。
少なくとも今のユミルは、ヤタガラスと戦う事そのものは嫌がっていない。だけどもしかしたら、一人でやりたいとは考えているかも知れない。それを無理強いするのは、茜には出来ない事だろう。
だけど、百合子は思う。
ユミルは純粋で無邪気だ。しかし純粋さや無邪気さというのは、公平さとは関係ない。野生のライオンが群れでヌーを仕留める事に罪悪感など抱かないように、チンパンジーが群れのリーダーが手負いでも容赦なくその地位を奪うように、人間が『不公平』や『卑劣』と呼ぶ事など自然界では綺麗事に過ぎない。
そしてユミルは人間であるのと同時に
【ウレシイ! アイツ、イッショニタオス! アカネモイッショ!】
ユミルは協力を受け入れた。なんの迷いもなく、それこそ当然のように。
純粋にヤタガラスを倒したい。負けた事にくよくよしないし、そのために使える手段はなんでも使う。
憎しみも怒りもない、純粋な闘争本能故の決断。それは茜の心にどう響いたのだろうか。そう思い百合子が覗き込んでみたところ……茜は微笑んでいた。前向きに、悔いも恐怖もなく。
そして茜は、握り拳を前へと突き出しながらこう宣言する。
「うしっ! 一緒に、頑張ろうか!」
【ウンッ!】
ユミルも拳を突き出して、優しく二人は拳をぶつけ合う。契約書も明確な言葉もないが、確かにそこで『約束』が交わされた。
きっと、世界で始めて出来た怪獣と人間の『混成討伐チーム』。
青葉は拍手でそれを歓迎し、ユミルと茜は笑いながらそのチームの誕生を喜ぶ。全ての人が喜ぶとは限らないが、これからの新しい時代を切り開く道の一つとして、多くの人々が好意的に受け取るに違いない。そんな歴史的瞬間。
ただ一人百合子だけは、元気になった親友がまた命を賭けるという状況に、複雑な気持ちを抱くのだった。
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