サイカイ
ヤタガラス駆除作戦を行った日から、一週間の時が流れた。
百合子は今、十日間に渡る長い休暇に入っている。自衛隊の作戦に協力したとの事で、努めている食品工場から特別休暇が渡されたのだ。元々食品工場は自衛隊が管轄しているもの。それぐらいの融通は利かせてくれた。
そんな休みの日の一日を使って、百合子は市内のとある病院を訪れた。
病室内の廊下や部屋は壁紙が剥がれていたり、怪しげな染みがあったりと、お世辞にも綺麗とは言い難い。しかしながら大きさは立派なもので、四年前に百合子が通っていた高校よりもずっと広いだろう。染みだのなんだの汚れはあっても埃は見当たらず、清掃も行き届いていると思われる。廊下では看護師や患者らしき人が歩いていて、頻繁にすれ違うところから、そこそこ賑わっているらしい。経営は順調と見るべきか。さぞや医療設備も整っているに違いない。
そんな病院であるが、実は一般人が利用する事は出来ない。自衛隊直営の病院であり、基本的に患者は自衛隊員のみだ。エボラ出血熱のような致死的伝染病の流行など、市民生活に大きな影響が出る時は開放されるらしいが、少なくとも自衛隊が管理するようになったここ三年の間に、そうした対応が取られた事は一度もない。
ただし今この時に限れば、自衛隊員以外の利用者も相当数いる。
「(えーっと、病室は三〇二号室ですね。多分三階の部屋でしょう)」
紙に書かれた文字を頼りに、百合子は病院内を進む。三〇二という部屋番号から訪れた三階には、予想通り三〇〇番台の部屋が幾つもあった。
他の部屋の番号から、目当ての部屋の場所を推察しながら百合子は進む。三〇二号室は、特段苦もなく見付ける事が出来た。部屋の前に掛けられているネームプレートによれば、個室ではなく四人部屋のようである。百合子は静かに扉を開け、ネームプレートに書かれていた名前の位置から、ベッドの場所を予想して出向く。
ベッドを囲うカーテンを開けてみれば、予想通りそこには親友――――茜の姿があった。桃色の病院服を着ていた茜は、百合子の姿を見て目を大きく見開く。
「百合子ちゃん!?」
「はーい、お見舞いに来ましたよー。元気そうで何よりです」
「わ、私よりも、百合子ちゃんも無事だったんだ!」
百合子の顔を見た途端、茜は驚き、興奮した様子を見せる。身体を起こすだけでは飽き足らず、ベッドから降りようとまでしてきた。
尤も、身体が痛むのか降りきる前に茜の動きは止まったが。百合子は茜の傍に駆け寄り、ベッドから降りないよう彼女の肩を掴む。
「ああ、動かないでくださいよ。まだ怪我は治ってないでしょうに」
「だっ、だって、無事かどうか分からなかったから……良かった、本当に、良かった……!」
茜は感極まったようにぼろぼろと泣き出す。それはこっちの台詞ですよと百合子は言いたかったが、口を閉じ、優しく親友の背中を擦る。
そう、安否を喜ぶのはこちらの台詞。
物資運搬の道中で呆けていた百合子と違い、茜は文字通り前線でヤタガラスと戦っていた。その過程で多くの自衛隊員と志願者が命を落としたし、落命こそ避けたが大きな怪我を負った者も少なくない。
百合子が人伝に聞いた話では、茜も手足にかなり酷い怪我をしていたと聞く。幸いにして命に関わるもの、そして後遺症が残るものではなかったようだが、しばし安静にしなければならないらしい。だからこそ、ベッドから降りようとして痛みで固まった訳だが。
「ほら、あまり起きてると身体に障ります。今は寝ていてください」
「うん……」
百合子が窘めると、茜は大人しく布団の中へと戻る。横になった彼女に茜は微笑みかけ、茜も笑みを返してくれた。
だが、その笑みは段々と曇っていく。
「……なんか、ユミルが来てくれたんだって? 私、その時にはもう怪我で気絶してて、人伝に聞いただけなんだけど」
「あ、はい。そうですね。彼が来てくれなければ、私も逃げられたかどうか……あ、ユミルさんは無事ですよ。ちょっと怪我したようですけど、骨折とかはないみたいですし」
「そう、なんだ。良かった……」
ホッと、安堵したように茜は息を吐く。怪獣とはいえユミルは人間だ。ましてや助けてくれた相手が無事と分かれば、安堵もするだろう。
ちなみにユミルがあの場所に来ていた理由は、散歩をしていたら茜の姿を見付けて、後を追い駆けたからとの事。長期休暇のうちの一日を使って、百合子が自らユミルに尋ねて聞いた話である。『大人』からするとあまりにも気ままな理由であるが、実年齢十五歳、精神年齢それ以下の男の子としてはさもありなん。それにこういうのも難だが、ユミルの知性で嘘を吐くのは難しいだろう。恐らく本当にそのような経緯なのだ。
百合子は薄々察していたが、ユミルは茜の事が大好きなのだ。茜も恐らく、彼の好意には気付いている。だからこその安堵かも知れない。自身への好意で一人の『人間』が命を失うところだったのだから。
そして、そのような危険をユミルにさせてしまったそもそもの原因は……
「……私達、負けたんだね」
茜の口から、受け入れなければならない事実が語られた。
百合子は一瞬表情を強張らせる。その問いは想定していた筈なのに、唇と喉が震えて上手く声に出せない。
仕方なく、百合子はこくりと頷く事で茜の問いに答える。
――――自衛隊によるヤタガラス駆除作戦は失敗に終わった。
作戦に参加しなかった一般人にも、既にこの話自体は通達されている。入院している茜達の耳に入っているのは、ごく当然の事だろう。百合子としても今更それを隠せるだの誤魔化せるだのとは思わない。
むしろ、百合子は茜に訊きたいと思っていた。
「……茜さんは、まだヤタガラスを倒そうと、考えているのですか?」
これから、どうしたいのかを。
百合子からの質問に、茜はしばし口を閉ざす。言いたくないなら言わなくても良い……そう伝えようとして、百合子は気付く。
茜が、ベッドのシーツを強く握り締めている事を。悔しさを露わとするかのように。
……自衛隊がヤタガラスに負けた事に対する世間の反応は様々だ。自衛隊に失望したと嘆く者、戦力の低下した自衛隊が自分達を守れるのかと不安になる者、最初から分かっていたと達観する者……十人十色な反応が得られる。何分「自衛隊が負けた」という話こそ公開されたが、被害や負け方などの詳細は伏せられたままなのだ。与えられた情報の少なさ故に各々が勝手にイメージを膨らませる事となり、だからこそ多様な反応が起きる。
逆に、作戦に参加した者達の反応はどれも同じだ。そしてそれは百合子の親友である茜であっても変わらないらしい。
ヤタガラスと対峙したものは、誰もがヤタガラスに対して一つの念を抱く。
絶望と達観だ。
「……私、最初はね、凄くやる気だったんだ。ここで姉ちゃんの仇を討てるって。難なら映画のヒーローみたく、相討ち覚悟の攻撃だってしてやるつもりだったんだから」
「はい。茜さんはそう考えているなと思っていました」
「……あ、怒ってる?」
「そりゃ怒りますよ。私達親友を置いていこうだなんて、怒るに決まってるじゃないですか」
「ですよねー。私も怒るだろうし」
悪びれているのか、そうでもないのか。笑いながらも複雑な感情を感じさせる茜の言葉に、百合子は何も言えなくなる。
しばらく茜は一人でへらへらと笑っていたが、その笑いは少しずつ弱まり、やがて止まってしまう。そして茜は身体を震わせ、自分自身を抱き締めるように腕を回す。
百合子は茜の傍に寄り、ベッドの隣で腰を下ろす。茜が自ら話し始めるまで待つために。
茜の身体は何時までも震えていて、話し始めた言葉も、凍えるように震えていた。
「アイツと向き合って分かった……アレはどうやっても、勝てない相手なんだって」
「……………」
「RPGを顔面に撃ち込んだのに、あいつ、こっちの事なんて気付きもしなくて。私の後ろにあった、戦車に向けてレーザーを、う、撃って、わた、し、その爆発で……」
「茜さん。落ち着いて」
「怪獣なんて何匹も殺してきた。命の危険だって何度も味わった。だけどアイツは違う、アイツは駄目だ。勝てる訳ない、殺されるみんな殺される殺される殺される殺される……!」
「茜さん!」
百合子は咄嗟に、茜を抱き締める。
感情が暴走していた茜は、百合子が抱き締めてもしばらくは独りごちるように喋り続けた。けれどもやがて声は止まり、震えも収まると、茜は百合子の腕にしがみつく。
百合子は、一層強く茜を抱き締めた。一人で何処かに行ってしまわないようにと祈りながら。
「茜さん。大丈夫です……誰もあなたを責めたりなんてしません。私は、あなたの味方ですから」
「……うん」
「あ、勿論真綾さんもですよ。そういうようにって伝言、頼まれていましたからね」
「あはは。伝言で済ませる雑さといい、こっちの行動を読んでるところといい、アイツは変わらないなぁ」
真綾からの言伝に、茜の顔に笑顔が戻る。親友が笑ってくれた安堵した百合子も、優しく微笑んだ。
「失礼します。北条茜さんはいらっしゃいますか」
その微笑みは、不意に背後から聞こえてきた声によって終わりにさせられたが。
百合子は茜から離れつつ、反射的に声が聞こえてきた方へと振り返る。
すると病室の入口に立つ一人の、若い女性の姿が目に入った。顔立ちの雰囲気から判断するに年頃は二十代前半と、百合子達と同じぐらいか。とはいえ表情の凛々しさは、彼女に立派な風格を与えていた。迷彩服を着込んでいる身体は女性としてはかなり大柄で、尚且つ手足は非常に引き締まったもの。過酷な訓練をしてきた身だと、素人である百合子にも一目で分かった。
恐らく茜や百合子のような一時的な協力者ではなく、本職の自衛隊員だろう。やってきた女性の正体をそう判断した百合子は、だからこそ首を傾げる。
何故、その自衛隊員が自分達のところにやってきたのか?
「えっと、私が北条茜ですけど……」
同じ疑問を茜も抱いたのか、やや戸惑いを見せながらも返事をする。
女性自衛隊員は茜に向けて敬礼。自己紹介を始めた。
「私は陸上自衛隊所属、
「要望、ですか?」
茜は首を傾げる。自衛隊が自分にどんな要件があるのか分からないと言いたげだ。茜本人に心当たりがないのに、親友とはいえ他人に過ぎない百合子が分かる訳もなし。
「あなたに、再び参加してほしいのです――――ヤタガラス討伐作戦に」
だから青葉がそんな事を言うとは露ほども思わず、百合子と茜は揃って呆けてしまった。
我に返るのが早かったのは百合子の方。そして百合子の心の奥底から湧き上がったのは、怒りの感情だ。
「ちょっとあなた! いきなり何を言うんですか! この子、ヤタガラスの戦いで……」
「待って、百合子ちゃん。話は最後まで聞こうよ。私は大丈夫だから」
しかしその怒りは、茜の落ち着いた言葉で止められる。百合子は話の続きを途切れさせ、出ようとしてくる言葉を飲み込むためにもごもごと口を動かし……小さくないため息を一つ。
百合子は茜の手を掴み、ぎゅっと握り締めた。茜も握り返しながら、青葉の話に耳を傾ける。
「……それで、どうして私に参加してほしいのですか? ヤタガラス討伐作戦は失敗しましたし、私は確かに作戦に参加しましたけど、何か目覚ましい戦果を出した訳でもないのですが」
「北条さんにお願いしたいのは、戦闘への参加ではありません。とある人物が作戦に参加するよう、交渉をお願いしたいのです」
「交渉?」
茜はオウム返しで尋ねる。百合子にも、青葉の意図が分からない。戦闘ならまだしも、交渉とはどういう事なのか?
疑問を抱く二人に、青葉はハッキリとした言葉で告げた。告げたが、それが理解に結び付く事もなし。
「ユミル――――人間の怪獣に、我々の作戦に参加するよう、要請してほしいのです」
青葉の、自衛隊の要望が、あまりにも突拍子のない話だったのだから。
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