再遭遇
【緊急怪獣速報。緊急怪獣速報。付近に怪獣が出現しました。直ちに最寄りの避難所に避難してください】
持っていたスマホから耳障りな警告音と共に、避難を促すメッセージが流れる。
これは緊急怪獣速報だ。怪獣が出現した際、防衛省から一定範囲の地域に発令される。スマホの場合特定のアプリを入れていないと速報を受け取れないのだが……百合子のスマホだけでなく、真綾と茜、そして周りに居る人々の殆どのスマホが警報を鳴らしていた。
この緊急怪獣速報、僅か二ヶ月で実用化しただけに精度があまり良くない。だから鳴ったからといって必ずしも怪獣が近くにいるとは限らないのだが……先程聞こえてきた、おぞましい鳴き声が怪獣の居場所を物語っていた。どれだけ不確かだとしても、この速報を疑う理由はない。
図書館内に居た人々は一瞬キョトンとした後、半ばパニック状態で走り出す。あっという間に出入り口は人が押し寄せ、詰まってしまった。互いに押し合いへし合い、口論ばかりで全く前に進んでいない。
落ち着いていたからこそ行動が遅れた百合子達は、出入り口に出来た『人混み』を見つめる。
「……あれは、しばらくは出られそうにないですね」
「というか、何が出た訳?」
「それが分からないと迂闊に動けないわよね。テッソやコックマーなら、外より室内の方が安全だし……鳴き声からして別物っぽいけど」
語る真綾の口調は冷静そのもの。しかしその手が小刻みに震えていたのを百合子は見逃さなかった。茜も平静を装っているが、そわそわと身体を揺れ動かしている。百合子自身も、自分の足が貧乏揺すりをしていると、後になって自覚する。
百合子達にとって、これは二回目の怪獣との遭遇。
だけど慣れるものではない。慣れる訳がない。自衛隊で駆除出来る強さだとはいえ、一般人である百合子達には相変わらず
それでも落ち着いて行動しなければ、一層危険な目に遭う。そして危険は怪獣だけでない。逃げようとする人々に押し潰されたり、踏まれたりする可能性だってあるのだ。
落ち着いた行動をするには更なる情報が必要である。勿論緊急怪獣速報の開発者もその可能性は織り込み済み。出現怪獣の正体が分かっている時は、画面に怪獣の名前が表示される仕組みとなっていた……あくまでも、正体が分かっているなら、だが。
「……未確認種、のようです。ただ大型との表記もありますから、四十メートル以上の個体ですね」
怪獣は今でも新種が次々と現れている。今回のように、全くの未知が現れる事も少なくないのだ。
「じゃあ、避難所に逃げた方が良いかしら。小さくて数が多い奴ならこもった方が良いけど、大型ならこんな建物簡単に潰せるし」
「何処かに、他の出口はないでしょうか……」
百合子は辺りを見回し、非常口がないかを探す。とはいえ周りが本棚に囲まれていては、ろくに辺りを見渡せない。百合子は席を立ち、壁面の代わりにあるガラスの方へと向かう。
百合子としては、あくまでも出口を探すのが目的だ。しかし彼女達が居るのは一階部分なので、ガラスの方へと寄れば外の様子は否が応でも見えてくる。
例えば、悲鳴を上げながら走り去る市民の姿も。
「……………」
百合子は無意識に、市民達がやってくる方へと視線を向けた。
本当にただの無意識だ。しかし冷静に考えたなら、すぐに分かっただろう――――逃げてくる人々の来る先に、人々が逃げなければならないものがいる可能性があると。単に避難所が行く先にあるという可能性もあったが、此度に関しては前者が正解だった。
ビルが立ち並ぶ間に走る道路に、巨大な『怪獣』がいる。
百合子には、その怪獣が何かを説明する事が出来ない。体長はざっと七十メートルはあるだろうか。真綾が話していた先日現れたというイノシシ型怪獣チョッドーすら四十メートル程度なのに、それを一回りどころか二回りも上回っている。ぬらぬらとした頭はアマガエルに似ているが、四本の足はワニのように逞しく、ガニ股で胴体を支えていた。青白い身体は非常に筋肉質で、毛を剥いだ獅子を彷彿とさせる。
筋肉質な四本足のうち、前足二本が長く伸びて上半身が大きく持ち上がっていた。足先にある指からは長く伸びた爪が五本生え、大地にがっしりと食い込む。臀部からは百メートルはありそうなぐらい長く伸びた尾があり、先端には鋭い槍のような棘が見えた。
これまで現れた怪獣は、既知の生物が巨大化したような姿をしていた。コックマーのように多少外観が変化しているものもいたが、それでも一目でゴキブリだと思えた。だが、コイツはなんだか分からない。一体何をしてくるのかも分からない。
一つ言えるのは、コイツはヤバいという本能的直感がある事。
【ギョッ、ギョギィ!】
奇怪な鳴き声を出しながら、未知の怪獣は長い尾を振り回した。
怪獣の周りにはビルや商店が並んでいたが、怪獣は気にもせず、尾を建物に叩き付ける。コンクリートの壁面が裂かれ、窓ガラスが雪のように舞った。切り裂かれたビルの壁はバランスを保てなくなったのか、一部ががらがらと崩れ落ちていく。
その瓦礫の中に、人影が幾つも混じっているのが見えた。
「……!」
「百合子? どうし……!?」
呆然と立ち尽くし、声を失っていた百合子に真綾が話し掛けてくる。しかし彼女もガラス窓の傍まで来ると、出掛けていた言葉が途切れてしまった。茜もやってきて、そして怪獣の姿を見て息を飲む。
「……どう、する?」
「……逃げていく人を見て興奮している様子はないわ。視線も人間に向けていないし、あの長い尾で叩き潰す事もない。つまりアイツは人間に全然興味がないって事。慌てる必要はないわ」
「さっすが怪獣生態の担当。頼りになるわー」
「茶化さないで。あとこんなの気休めでしかないから……人間に興味がなくても、気紛れに体当たりでもされてみなさい。ビルなんて簡単に崩れるわよ」
真綾は表情を強張らせながら、煽ってきた茜を窘める。しかし茜も本気でふざけている訳ではない。ふざけでもしないと、冷静さを保てないのだ。
そう、怪獣という存在は気紛れ一つで人の命を奪える。こちらに興味があるかないかなど関係ない……数多の怪獣動画を見てきて、浅はかな生放送配信者が潰されていくところを何度も見た百合子は、それをよく知っていた。
「じゃあ、やっぱ逃げる感じ?」
「ええ、その通り――――待って。なんか音がするわ」
「音?」
真綾に言われ、百合子は外の物音に耳を傾けてみる。
……怪獣が瓦礫を踏み潰す音、そして逃げ惑う人々の悲鳴の中に、甲高い音が聞こえてくる。
飛行機の音だ。そう気付いた時には、飛行機音は凄まじい爆音となって百合子達の耳を刺激する。逃げる人々も五月蝿さに驚いたのか、次々と転んでしまった。
けれども転んだ人々の顔に浮かぶのは、痛みによる苦痛や恐怖ではなく、期待に満ちた笑顔。
建物の隙間から見えた空に一瞬映った飛行物体は、戦闘機だった。
「! 自衛隊の戦闘機です! 怪獣退治に来たんですよね!?」
「……ええ、多分。でも私らはあんまり安心出来ないかも」
「……あー」
百合子が喜びながら報告するも、真綾はあまり良い顔をしていない。茜も同じ顔をして、そして百合子も遅れて同じ顔になる。
怪獣が出現するようになって、人の社会は様々な『適応』を余儀なくされた。
特に日本で大きな変化を強いられたのが自衛隊だ。かつての自衛隊は市街地での活動が大きく制限されていた。自国民を巻き込むような攻撃など以ての外だと考えられていた訳だが、その結果、自動小銃程度では倒せない巨大怪獣が市街地に現れても為す術なし。ミサイル一発で倒せる怪獣に何も出来ず、数万の死者を出した事があった。
これを自衛隊の所為だと叫ぶ人達は、叫ばなかった人達に叩かれた。何故なら自衛隊に軍としての力と決断能力を与えなかったのは、主に叫んできた人達だったのだから。自衛隊に力と判断を任そうという声は大きく、国会もあっという間に法整備を終えた。
今の自衛隊は、必要ならば市街地での戦闘も厭わない。例えそこに市民がいたとしても、だ。
「……本棚から離れるわよ! 爆風で倒れてきたら不味い!」
「い、意義なし!」
真綾の指示に従い、百合子と茜は本棚から離れた。
直後、バシュウっという音が三度聞こえてくる。
それが戦闘機から放たれたミサイルだというのは、続いて聞こえてきた爆音と、図書館内部を揺さぶる衝撃波によって分かった。本棚から離れた百合子達は、ガラス張りの壁面から外の様子を窺う。
戦闘機達は高い場所を飛んでいたが、ミサイルは凄まじい速さで進み、次々と怪獣の背中にぶつかる。怪獣はミサイルを受けると、呻きながらその背中を仰け反らせていた。攻撃を止めさせたいのか立ち上がるものの、戦闘機は何百メートルもの高さにいるのでどうにも出来ない。
怪獣が苛立ちを募らせていると、道路からギャリギャリとコンクリートを削るような音が聞こえてきた。何事だと思い百合子はそちらに視線を向けると、道路を巨大な鉄塊が走り抜けていく。
戦車だ。それも一台だけではなく、四台も現れる。戦車はその砲台を怪獣に向けると、すぐさま発射。衝撃波により図書館のガラスは残らず割れ、それでも減衰しきっていない爆音が百合子達の鼓膜を破りかけた。
【ギョギャァッ! ギョギギギギッ!】
戦車砲は全弾怪獣に命中。戦車砲というのは直撃すれば鉄筋ビルを易々と貫通し、周辺を吹き飛ばすほどの威力がある。そんなものを四発も浴びれば、さしもの怪獣も苦痛を覚えるらしい。大きな叫びを上げ、後退りした。
「攻撃開始ぃー!」
戦車に続いてやってきたのは十数名の歩兵。彼等は自動小銃を乱射し、怪獣に浴びせかける。大きさからして銃弾など豆鉄砲同然だが、しかし決して無力な武器ではない。銃弾というのは秒速九百メートル超えの鋼鉄だ。肉を貫くそれは、決して大きさだけで威力を測れるものではない。
更に空からはヘリコプターまで降りてきた。ヘリコプターの装備は機関銃。人間では持つ事も出来ないような大きさのそれが、不運にも当たれば間違いなく大怪我を負いそうなサイズの薬莢をバラまき、怪獣に弾丸を送り込む
立ち昇る爆炎。途切れる事のない轟音。比喩でなく怪獣映画のような、大盤振る舞いの攻撃だった。
「す、凄い! 正に総力戦って感じね! これならすぐに倒れるんじゃない!?」
「は、はい! これならきっと……!」
茜は興奮しながら叫び、百合子も同意する。自衛隊の攻撃に巻き込まれるかも知れないという恐怖はあるが、それよりも恐ろしいのはやはり怪獣の存在。その怪獣を倒してくれそうな自衛隊を前にすれば、興奮もするというものだ。
「……おかしい」
ただし、真綾だけは違った。
「おかしい? えっと、何がおかしいのですか?」
「火力の投射が多過ぎる。いくら大型怪獣にはミサイルや戦車が必要だからって、こんな大部隊を送る訳ない」
「? そんなに変な事でしょうか? 少しでも早く倒そうとしてるだけなんじゃ……」
「法整備で国民を巻き込んだ攻撃も出来るようになったけど、それだって限度がある。体長二メートルのテッソ相手に空爆なんて出来ないように、許可されたのはあくまで駆除に必要な火力だけよ。いきなりこんな、容赦ない攻撃なんてしない。早く倒すためにしたって、もっと段階を踏む筈……!」
段々と口調が荒くなる真綾。
真綾が何を言いたいのか、百合子には分からない。いや、頭が理解を拒んでいる。
何故なら怪獣は、自衛隊によりこれまで駆除されてきたのだから。これまでもそうだったのだ。これからもそうであるし、そうでなければ……困る。
けれども、これは人の道理。
そして怪獣とは、人の道理を踏み躙るもの。
「コイツ、一度自衛隊の攻撃を耐え抜いているんだわ! 今の自衛隊の火力じゃ、駆除出来ない!」
真綾の言葉は、怪獣としてはなんて事のないもので。
【ギョオォギィアアアアッ!】
けれども百合子がそれを理解出来たのは、怪獣が雄叫びを上げてからだった。
ハッとしながら、百合子は外の様子を窺う。叫んだ怪獣は未だ四本の足で立ち、倒れる気配はない。
そして怪獣は、長大な尾を大きく振った。
尾は元々長かったが、それでも縮んだ状態だったらしい。まるで先端が何かに引っ張られているかのように、するすると伸びていく。百メートルなんて長さは一瞬で超え、何十倍もの長さとなってのたうち回る。
これでも流石に戦闘機には届かない。だがうねうねと独立した生き物のように動くそれは、戦闘機が放ったミサイルを羽虫を叩くかの如く落としていく。
続いて尾の先はヘリコプターや戦車にも向かう。ヘリコプターは尾が伸びた時には退却を始めていたが、怪獣が伸ばした尾はこれにすぐ追い付き……ヘリコプターを真っ二つに引き裂く。爆発したヘリコプターの残骸が落ちたり、或いはビルの壁に突き刺さったりした。
戦車などまるで虫けら扱いだ。怪獣の尾は容赦なく上から叩き付け、鋼鉄の塊をスクラップに変えていく。周りにいた歩兵は、その爆発に巻き込まれて吹っ飛ばされた。
一瞬、というほど短いものではない。けれどもほんの十秒にもならないような、あまりにも短い時間しか経っていない。
その僅かな間に、攻撃をしていた自衛隊は壊滅してしまった。
「怯むなぁ! 攻撃を続けろ!」
生き延びた歩兵らしき掛け声が戦場に響き渡る。撤退しない辺り、すぐに後続の部隊がやってくるだろう。けれど、それがなんだと言うのか。
自衛隊を粗方片付けた怪獣は、見た目の上では殆ど怪我など負っていなかった。
ミサイル攻撃には怯むだけ。航空戦力を撃退する力がある。この二つだけで、人類にとって絶望的だ。少なくとも自衛隊には、倒すための方法がないかも知れないと思わせる程度には。
怪獣。
百合子は思い出した。それが本来、人類にとって抗いようのない存在なのだと。勝てる勝てないと考える事すらおこがましい、不条理な破壊の権化。人間に出来るのは、泣き喚きながら逃げる事だけ。
自衛隊は、きっと最後まで諦めないだろう。しかし自衛隊に守ってもらっている百合子は、諦めの気持ちが込み上がった。きっと自分達は、ここで死ぬのだ。
そう、怪獣を倒せるのは、何時だって巨大ヒーローか、或いは――――
【緊急怪獣速報。緊急怪獣速報】
絶望の浸る百合子の頭だったが、けたたましいアラート音が意識を現実に引き戻した。とはいえその速報はつい先程出たものであり、しかもとうの怪獣は目の前にいる状況。もうちょっと空気読んでくださいよと、悪態の一つでも言いたくなった。
されどその気持ちは、投げ捨ててやろうとしたスマホ画面に映し出された文字を見て、一瞬で消え去った。
――――刹那、音が聞こえてくる。
いや、音ではなかったのかも知れない。何故ならそれが音だと思った瞬間、びりびりと痺れるような感覚が百合子の全身を襲ったからだ。やがて痺れは身体のみならず、図書館全体を震わせ始めていく。図書館の壁面そのものが激しく震え、危険を感じた百合子は、挫けそうになる足腰を無理やり立たせて茜と真綾の手を引っ張る。
ガラスが割れた場所から跳び出すようにして、百合子達は図書館から脱出。直後、図書館の一角が崩落を始めた。規模は小さかったので動かずとも平気だったかも知れないが、万一を思うと背筋が震える。
その間も音のような痺れは大きく、強くなっていく。本能的に動いていた百合子の身体はもう一歩も歩けず、しゃがみ込む。先程まで戦闘を続けていた自衛隊員達もしゃがんで、立てなくなっていた。
そして最早正面から見据える形となった未知の怪獣は……空を仰ぎ見ている。
一体何を見ているのか?
【グガアアアアアアァァァッ!】
百合子が抱いたその疑問に答えるかのように、その声が町に響いた。
聞いた瞬間に背筋が震えた。恐怖とも畏怖とも付かない感覚によって。喉は強張って声も出なくなり、目は瞬きもせずに見開かれる。
忘れもしない、いや、忘れられない存在感。
百合子がそのような想いを抱く横で、茜の表情も変わった。憎悪と憤怒と僅かな恐怖……様々な感情を滲ませながら、茜は空を睨み付ける。真綾と百合子は驚きに満ちた表情を浮かべながら、茜と同じく空を見て、それ故に彼女達三人は目の当たりにする事となった。
大空より舞い降りる怪鳥・ヤタガラスの姿を。
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