戻らないもの

「こちらが本日分の食事です」


 百合子が迷彩服を着た若い男から渡されたのは、アルミ製のトレーに乗せられた食器と食糧だった。

 食糧といっても缶詰が一つと飲み物である水入りの紙コップのみ。食器もコップを除けばプラスチック製のスプーンだけだ。缶詰には『鳥飯』と書かれたラベルが張ってあり、これ一つでおかずも主食も兼ねていると分かる。

 しかし問題は品数の少なさよりも量の方だろう。缶詰のサイズはかなり大きめであるが、それでも学校で食べているお弁当の半分もない。一食分の空腹を満たす事すら出来そうになかった。紙コップの水にしても本当にコップ一杯分でしかなく、こちらも腹を満たすには物足りないもの。

 ましてやほぼ丸一日絶食した後となれば、食事のありがたさよりも物足りなさを意識してしまう。


「これだけですか……」


 ぽそりと百合子の口から漏れ出た言葉は、彼女の偽らざる本心。

 けれども百合子の隣に居た真綾からは、肘鉄が飛んできた。弱めの一撃なのでちょっと身体が曲がる程度の反応で済んだが、真綾の言いたい事は百合子もちゃんと理解している。百合子としても、今の発言は流石に『ない』と思う。


「ご、ごめんなさい……」


「いえ……こちらも十分な物資が用意出来ず、申し訳ありません。明日朝までには追加物資が届く手配となっています。ご迷惑をお掛けしますが、ご理解をお願いします」


「いえ、大変助かっています。ありがとうございます」


 謝る百合子の隣で真綾が一礼。感謝を伝えてから立ち去る彼女の後を、百合子は若い男にへこへこと頭を下げてから、慌てて追い駆けた。

 それから、自分達がついさっきまで並んでいた『行列』とその周りに目を向ける。

 百合子達が居るのは、だだっ広い公園だ。防災公園と呼ばれる類の場所で、災害時の避難場所として使われている。普段はただただ広大なグラウンドがあるだけの、野球少年とサッカー少年に人気の場所。けれども災害時には避難場所として使えるよう、様々な道具がしまわれていた。

 そして今は無数の自衛隊の車両が停まっている。勿論自衛隊員達も大勢居た。

 敷地内に置かれた幾つもの投光器の明かりが道を作り、大きなテントと自衛隊の車両をつないでいる。日が沈んで暗闇に包まれた今の時間帯、投光器がなければテントも車両も見えなかったであろう。そんな光の道には何十人……或いは何百人という数の人が並んでいて、彼等は車両の前に待つ自衛隊員からトレーに乗った食糧品を受け取っていた。彼等に渡されたのも百合子達と同じもの。安堵の色と共に、僅かな不満が滲み出ている。

 尤もそうした顔色は、突如として聞こえてきた破裂音――――銃声と獣のうめき声によって恐怖一色に染まってしまうのだが。トレーごと食糧を放り投げ、しゃがみ込んでしまう人もいるほどだ。


「ひぃっ!?」


「大丈夫。落ち着いて」


 百合子も恐怖で身体が強張るが、真綾がそっと抱き締めてくる。友達の抱擁もあって、百合子はすぐに落ち着く事が出来た。

 それに、銃声の後に『うめき声』が聞こえてきたのだ。ならば銃は訳で。


【先程の発砲は、接近する巨大生物に向けて行われました。巨大生物の駆除は完了し、安全は保たれています】


 その考えを裏付けるように、防災公園にアナウンスが響く。

 恐怖で震えていた人々も、アナウンスを聞いて安堵の笑みを浮かべた。食べ物を放り投げてしまった人は、水は駄目になったが、缶詰が無事である事を見て一層安堵する。

 百合子も同じ気持ちだ。だからこそ先程漏らしてしまった自分の言葉が、吐き気がするほどに嫌になってくる。助けてくれた相手に悪態なんて、一体自分は何様なのかと。

 ――――巨大化したネズミやゴキブリが現れた日の翌朝。自衛隊が救助に来てくれた。

 最初に来たのはヘリコプターや装甲車などの、武装した兵器の数々。巨大化した生物達と戦うための部隊が次々とやってきて、戦闘を始めた。流石にミサイルやら砲撃やらはしなかったが、町中から銃声が響くのは、現実味のなさから却って恐怖心が湧き出なかった事を百合子は今も覚えている。

 その現実味のなさも、夕方近くになって銃声が校舎内から聞こえるようになれば、流石に薄れてきた。バリケードを張って侵入を防いでいた扉に、ノックと呼び掛ける声があった時には、百合子も茜も真綾も、全員で抱き着いて喜び合った。それでも喜び足りなくて、大急ぎでバリケードを退けた後、入ってきた自衛隊の質問に誰もろくに答えられなかったのがちょっと恥ずかしい。

 かくして百合子達は防災公園まで連れられて……夜を迎えて最初の食事が、缶詰だった訳である。今思えばレトルト食品ではなく缶詰を持ってきたのは、急いでいたので持ち運びが簡単で、またなんらかの『攻撃』があっても損傷し辛いという利点を考えての事だったのだろう。

 そして今、この公園は急速に防御が固められている。銃を持った多数の自衛隊員が次々と応援に駆け付けているし、バリケード(勿論百合子達が作った雑なものではなくて、車も止められそうなものや頑丈なフェンスなどだ)が周りを囲むように立て掛けられていた。明日の朝にはもっと丈夫で、頼もしい防御となっているだろう。真綾が言っていた通り、巨大化したネズミやゴキブリも自衛隊員の装備には敵わないのだ。

 此処ならもう大丈夫。百合子はそう思っていた。

 ……あの巨大カラスさえ来なければ。


「百合子、歩ける? 無理なら少し休むわよ」


 考え事をしていたら真綾が声を掛けてくる。立ち止まる百合子を、恐怖で動けなくなったものと思ったらしい。


「あ。はい、大丈夫でく。ちょっと考えていまして……」


「百合子が考え事? それは不味いわ、明日はついに大雪が降るかも」


「それ、どういう意味です?」


 軽口を叩き、笑みを取り戻す百合子。真綾と共に再び歩き出す。

 食糧を持った彼女達が向かうのは、公園内に建てられたテント群だ。テントと言ってもキャンプで使う三角形のものではなく、深緑色の布で出来た奥行きのあるもの(真綾曰く宿営用天幕というらしい)。テントには如何にも大急ぎで付けましたと言わんばかりのシールが張られ、『あ・01』などの表記がされていた。

 百合子達が向かうのは『さ・42』。中に入れば、中には六つのベッドが置かれていた。そしてそのうちの一つに腰掛けている一人の友人の姿がある。

 茜だ。しかし今の彼女の姿を見て、北条茜だと即座に分かる者は殆どいないだろう。

 何時も明るかった表情は面影すらなく、完全に生気が失われていた。半開きの唇は殆ど動かず、息をしているかも分からない。彼女も百合子達と同様丸一日食事を抜いているので何かを食べさせた方が良いとは思うのだが、同時に、何を与えても口にはしてくれない事が予想される。

 そしてその手には、画面が真っ暗なスマホが握り締めていた。


「……茜さん。ご飯、持ってきましたよ」


「……百合子ちゃん……うん、ありがとう。でも、食欲なくて……」


「一口だけでも良いから食べなさい。アンタが倒れたら、誰が家族の出迎えに行くのよ」


 食事を拒む茜に、真綾がそう窘める。迷ったように茜は目を泳がせたが、やがてにこりと笑って「そうする」と答えた。

 茜がこんな状態になっている理由は、家族との安否確認が出来ていないからだ。

 心配のあまり長々と使用していたら電池切れしてしまった茜のスマホのように、茜の家族達のスマホも電池が切れたのか音信不通。隣の市の会社に勤めている父親とはなんとか連絡が取れたが、家に居たであろう母・祖母・姉とは未だ連絡が取れていないという。姉は大学生で、今日は講義がないから絶対家にいる筈だとは茜の弁。

 ……百合子自身は、殆ど両親の心配はしていない。共働きでどちらも隣の県の会社に勤めているからだ。自衛隊が置いてくれたテレビのニュース曰く、巨大生物騒動はこの市とその近隣だけで起きたものらしいので、体調不良などで定時前に帰ってきてない限り両親は無事だと言える。逆に両親は死ぬほど心配してるだろう。親ではない百合子に自分の親の気持ちは中々想像し難いが、茜のようになっているのかも知れない。スマホで連絡が取れれば良かったのだが、教室から脱出する際に置いてきてしまったので、どうにもならなかった。

 ちなみに真綾の方は、全く心配していない。彼女は親との折り合いが色々悪いようで、曰く「くたばれば良いあんなクソ野郎。殺しても死ななそうだけど」との事だ。どれだけ親子関係が悪ければ、そしてどんな親ならこうなるのか、百合子にはちょっと分からない。


「まぁ、茜の家って怪獣達が暴れていた場所の反対側だし。そこまで心配しなくても平気じゃないかしら?」


「うん……そう、だよね。ありがとう、ちょっと気が楽になったよ」


「……別に、事実を言っただけよ」


 顔を背ける真綾の顔が、ほんのり赤く染まる。

 百合子が笑い、茜の顔にも笑顔が戻った。食欲もきっと少しは戻ってきたと思った百合子は、持ってきた缶詰を開けようと手を掛けた


「茜ちゃん!」


 直後、不意に茜を呼ぶ声が聞こえた。

 誰よりも早く反応したのは茜。そして後ろを振り向くや、ベッドから立ち上がり、跳び越えるようにベッドを渡って声がした方に向かう。

 遅れて百合子も視線を向ければ、そこには中年女性と老婆の二人がいた。目に涙を浮かべて浮かべた顔は、何処か茜に似ていて。


「お母さん! ばあちゃん!」


 茜はその二人に抱きつき、喜びを露わにした。


「茜ちゃん! ああ、良かったよ。こんなにやつれて……怪我はない?」


「うん! ばあちゃんも怪我はない?」


「茜ぇ……あなたが無事で良かった……本当に、良かった……」


 泣き崩れる母親に、茜はしゃがみ込んで抱き合う。彼女の目にも涙が浮かんでいた。

 そうして喜びをしばし分かち合った後、茜は一旦母親から離れる。


「ところでねーちゃんは? もしかして、何処か怪我をしたとか……」


 それから、姿が見えない姉について問う。

 瞬間、茜の母と祖母は表情を強張らせた。喜びに満ちていた顔は消え、悲しみと後悔に満ちたものへと変わる。


「……茜。由加は……死んじゃった、の」


 やがて母の口から出てきた言葉は、その顔を見ていた第三者なら想像出来たもの。

 しかし茜には想像も出来なかったようで、由加は、凍ったようにその動きを止めた。


「……えっと……何? しんじゃったって、なんか大きな怪我? あ、え、ぇ」


「家に隠れていた時……窓から、角材が飛んできたの。あの子、外が騒がしいからって窓を見ていて……それで、窓から飛んできた角材が、頭に……な、治そうとしたけど、でも、首が、首……あ、ああ……!」


 娘に説明をしようとして、けれども耐えられなくなったのか。茜の母の口からは嗚咽しか出てきていない。祖母はそんな茜の母の背中を摩っていたが、唇を噛み締めて悔しさに打ち震えていた。

 飛んできた角材が頭に直撃して、死んだ。

 その光景を想像してみた百合子は、確かにそれは人が死ぬと思えた。思えたが、しかしそんな死に方、あって良い訳がない。いや、そもそもどんな事が起きればそんな死に方をするというのか。角材なんて、空を飛ぶものではない――――

 そこまで考えて、気付く。

 巨大カラスが飛び立った時、それだけで周りの家々の残骸が吹き飛んでいた。それもちょっと動いたなんてものではなく、遥か彼方へと。何百メートル、何千メートルと飛んだものがあってもおかしくない。

 百合子達が居た調理室には、そうした角材やら瓦礫は飛んでこなかった。しかし運が悪ければ、やってきたかも知れない。角材のような大きなものでなく小さな瓦礫だとしても、コンクリートの塊のように硬くて重いものならば十分殺傷能力がある筈だ。

 自分達が助かったのは、調理室に逃げ込んだからではない。ただただ運が良かっただけ。『アレ』は努力も才能も関係なく、ただそこに存在するだけで人の営みを破壊し、想いも努力も気紛れ一つで潰していく存在だったのだから。


「怪獣……」


 あの巨大カラスこそが、真の怪獣なのだ。


「……百合子も、泣きたいなら泣いて良いわよ」


 友人に声を掛ける事も出来ずにぼうっとしていた百合子に、真綾が話し掛けてくる。

 まさかこちらを気遣われるとは思わず、百合子は目をパチクリさせた。


「えっと、何に対して、ですか?」


「背中の傷。痕が残るでしょ、多分」


「……ああ、そっちですか。そうですね、確かにそうみたいです」


 尋ねてみたところ真綾から返ってきた言葉に、百合子は目を逸らしながら同意する。

 真綾と茜をガラス片から守るため、百合子は自分の身体を盾にした。

 その時突き刺さった無数のガラスは、無理に取り除くと傷口を広げる恐れがあるからとそのままにしていた。しかし自衛隊の救助後、治療と同時に取り除いてもらえた。服の下にはぐるぐると包帯が巻かれていて、穴だらけの身体を包んでいる。本来ならば病床で休むところなのだが……此度の『災害』では怪我人が多く、致命傷でない百合子は病床を得られなかった。

 それ自体に文句はない。むしろ簡易的とはいえ治療までしてもらえたのだから。

 しかし傷跡を消すところまではしてもらえなかった。

 人命救助が優先なのは当然。大体そこまで大掛かりな医療設備はなく、そうした場所への搬送は重症者が優先される。な百合子が後回しにされるのは、百合子自身納得出来るし、万が一にも搬送してもらった結果誰かが手遅れになろうものなら寝付きが悪いなんてものではない。

 それでも百合子も女子だ。普段見えない背中側とはいえ、大きな傷跡が残る事に思うところがない訳でもない。男の子との恋愛だって、難しくなるかも知れない。

 それでも目の前で泣き崩れる茜達を見ていると、少なくとも今はこう思う。


「でも、二人が無事なのと引き換えなら、安いものですよこのぐらい」


「……そう」


 正直な気持ちを伝えたが、はたして真綾はどう思ったのか。茜の心は、はたして大丈夫なのか。

 そしてこれから、どうなるのか。

 何もかもが変わってしまった中で、百合子は、ベッドの上に座り込む事しか出来なかった。

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