君臨
巨大な翼を広げながら現れたそれは、ゆっくりと、地上に降りてきていた。
翼長百二十メートルはあるだろうか。身体の大きさは六十メートルほどと思われ、ドブネズミやゴキブリとは比較にならない大きさを有している。広い肩幅と大きく発達した胸元は、その生物が如何に筋肉質な存在であるかを見るモノ全てに伝えた。
全身は黒い羽毛に覆われているが、その羽根は光沢を持ち、淡い虹色の光を放っていた。どんな仕組みかは分からないが、光はゆらゆらと揺れるように変化していく。頭部からは二本の長い羽根の束が生えていて、まるで耳のような形を作っている。尾羽は長く、ざっと四十メートルはあるだろうか。しかし硬さがあるのか、長さがあるのに途中で曲がる事はなく、ぴんっと真っ直ぐに伸びていた。また尾羽は他の羽根と違ってやや赤味を帯びている。この赤味も揺らめくように変化していた。
唯一羽毛に覆われていない脚は、黒い鱗に包まれていた。指は前を向いているものが三本、後ろ向きのものが一本。指先には長くて鋭い爪があり、どんなものでも切り裂いてしまいそうに見える。着地した時に一軒家を雑草か何かのように易々と踏み潰したが、まるで気にした素振りもない。非常に頑丈な足のようだ。
何かが、違う。
その生物を目にした時、百合子は直感的にそう思った。何が違うのかなんて分からないが、これまで見てきたどの生物とも感じるものが違う。心に湧き上がるのは恐怖心だけではない。畏怖、尊敬、崇拝……ポジティブな『屈服』の念が自然と込み上がる。死にたくないという感情すらも打ち消すほどの、圧倒的存在感が自我と本能を塗り潰す。
コイツをなんと呼ぶべきか、百合子にはよく分からない。されど敢えて、見た通りに語るならば……巨大なカラス以外にない。
ドブネズミとゴキブリの前に現れたのは、両者を圧倒するほどに巨大な『カラス』だった。
【ギ、ギギ……!】
【ヂュウゥ……!】
ゴキブリとドブネズミが揃って後退りしながら、口を開いて威嚇の仕草を見せる。恐怖心を感じているようだが、されど二匹は完全に臆した訳ではない。むしろ咄嗟に協力体制を取り、巨大カラスに挑もうとしているのが百合子にも見て取れた。
ところが巨大カラスは、激しく威嚇するゴキブリとドブネズミを前にして表情一つ変えない。なんの威圧感もない(それでも百合子は強烈なプレッシャーを感じるが)顔立ちは、完全に二匹を見下していた。
その嘗めくさった態度が気に触ったのか、或いは警戒心のない状態を隙と判断したのか。
【ギギ、ギ、ギィ!】
突如としてゴキブリが、猛然と走り出した。
巨大な身体を持つゴキブリだが、俊敏さは殆ど損なわれていなかった。家庭に現れるものとなんらか変わらぬ動きの、巨大さ故に出鱈目な猛スピードで巨大カラスに接近する。
そして振り上げるは、肥大化した鎌のような前脚。
同じ体格のドブネズミを転倒させるほどの威力を持った拳だ。直撃させれば大打撃、とは体格差を考えればいかずとも、怯ませるぐらいは出来そうである。離れた場所から眺めていた百合子はそう感じ、恐らくはゴキブリもそう判断しての攻撃だろう。
されど巨大カラスは、迫りくる攻撃に顔色一つ変えない。ただおもむろに、自らの片足を上げて――――
ぐしゃりと、その足でゴキブリの頭を踏み潰した。
「……えっ?」
あまりにも呆気ない一撃。百合子は呆けたように声を漏らす。
ゴキブリは完全に頭を潰され、ぴくぴくと痙攣するだけ。動いてはいるが、もう殆ど死んでいるといっても過言ではない。
確かに体格差はあったが、それでも巨大カラスと比べて三分の一はある体躯だ。人間からすれば、体長五〜六十センチの動物の頭を一撃で踏み抜くのに等しい。容赦のなさもそうだが、馬力が桁違いだ。
ところが巨大カラスはゴキブリを踏み抜いても満足した素振りもない。むしろ忌わしげに足を左右に動かし、その頭を念入りに潰す。それこそ人間が虫けらを潰すかのように。
【チュ、チュウゥゥ!】
自分と同格の相手が一撃で倒され、ドブネズミは大慌てで逃げ出す。協力体制を敷いたが、元々は争う間柄。敵討ちをする義理はないという事のようだ。
されど巨大カラスはドブネズミを見逃すつもりがないらしい。
【……………ッ!】
巨大カラスは翼を広げると、大きく羽ばたいた。
六十メートルもある身体だが、翼が二度も羽ばたけば宙へと浮かび上がる。
同時に生じた爆風が、瓦礫も、未だ無事な家々も纏めて吹き飛ばした。風は百合子達が居た校舎にも襲い掛かり、ドブネズミ達が激突した影響で脆くなっていた箇所が崩れ落ちていく。調理室の残っていた窓ガラスもバリバリと震え、割れていたものは粉々に砕け散った。
ただ飛んだだけ。それだけで巨大カラスが進んだ道には何も残らない。
【ヂュ、ヂュウヂッ!?】
ドブネズミは逃げきれず、ついに巨大カラスの足に捕まってしまった。鋭い爪がドブネズミの身体に突き刺さり、大量の血を滴り落とす。
それでもドブネズミはまだ死んでおらず、四肢と尾を振り回して暴れる。死にたくないと叫ぶように口を開け、ずらりと並んだ歯で巨大カラスの指に噛み付いた。
けれども巨大カラスは眉間一つ動かさず。着地した巨大カラスはドブネズミを捕まえた足を持ち上げると、巨大な嘴でドブネズミの頭を掴む。
そのまま足と共に頭を動かせば、ボギリッと、ドブネズミの首は遠く離れた百合子達にも聞こえるような音を鳴らした。
もうドブネズミは動かない。巨大カラスは掴んでいたドブネズミを雑に離して落とすと、上機嫌そうに鼻息を吐く。
【グガアアアアアアアアアァァァァ!】
次いで上げた『咆哮』が、町中に響き渡る。
ただの鳴き声である筈のそれは、空気を激しく震わせた。巨大カラスの足下の大地は震えているのか、濛々と粉塵が舞い上がる。ここまでの出来事で脆くなっていた家は倒壊し、道路はめきめきと割れていく。校舎も震えて、みしりと不穏な音を鳴らした。
そうして思う存分鳴いた巨大カラスは、自分が捕まえたドブネズミの腹に嘴を突き立てる。穿るような動きの後に顔を上げれば、その嘴にはずるりと垂れ下がる内臓があった。その内臓を器用に咥え直して、巨大カラスはごくりと飲み込む。
どうやら、食事のためにあの巨大カラスはドブネズミを仕留めたらしい。ゴキブリの方に見向きもしないのは、襲ってきたから返り討ちにしただけで、端から食べる気はなかったという事か。
「あ、アレは……天敵って、事なの? ドブネズミを退治してくれたんだよね?」
「分からない……」
突然現れた存在に、茜も真綾も戸惑っている。茜はドブネズミを倒してくれたとやや好意的に見ているようだが、真綾の顔は険しい。
次から次へと起きる出来事。もう、何が起きているのかさっぱりだ。百合子の頭ではこれ以上考えられない。しかし確かな事があるとすれば、ドブネズミとゴキブリの親玉 ― かは不明だが ― が死んだという事だ。
ニメートル程度のネズミ達やゴキブリはまだいる。そして巨大カラスの大きさからして、人間と大差ない大きさの生き物など関心を抱かないだろう。人食いネズミや人食いゴキブリに襲われる可能性は、依然としてゼロではない。
けれども巨大なドブネズミとゴキブリが居なくなった事で、校舎の倒壊は免れた。校舎が潰れたら生き埋めになって死んでいたところであり、仮に助かっても『籠城』は出来なかっただろう。
巨大カラスのお陰で、自分達は生き延びた。そう思えば、感謝の気持ちを抱かなくもない――――
【……グカカカカ】
そう思っていた時、ふと巨大カラスが鳴き出す。
百合子達は校舎からその姿を注視する。既に巨大カラスは大きく翼を広げていた。百合子達の事などお構いなしに。
その時、百合子は自分達の正面にまだ窓ガラスがある事に気付く。
ドブネズミとゴキブリの争い、巨大カラスの羽ばたきにも耐えた何枚かのそれは、しかしよく見ればヒビが入っている。耐久的にはもう限界を迎えていて、ほんのちょっとの刺激で割れてしまうに違いない。勿論窓ガラスが割れたら危険だからと、百合子達は既に遠く離れた位置に陣取っている。ただ割れただけなら、きっと問題はない。
だけど、もしも大きな力で窓ガラスが吹き飛ばされたなら?
――――ヤバい。
何がかは分からない。けれども危機感を本能的に感じた百合子は、茜と真綾に抱き着くようにしがみつく。茜と真綾が驚くように目を見開いた、
次の瞬間、巨大カラスはその翼を動かす。
同時に生まれるのは爆風、否、神風。地上にある家々を根こそぎ巻き上げ、瓦礫を遥か彼方へと吹っ飛ばず。巨大カラスの身体は大空へと飛び上がり、瞬く間に遥か上空へと行ってしまう。雲は巨大カラスが過ぎ去った瞬間に吹き飛ばされて空が快晴に変わり、巨大カラスの姿はあっという間に小さくなった。十秒もすれば人間の目には見えなくなってしまう。
尤も百合子の場合、そもそも巨大カラスが飛んでいくところを見ていなかった。
巨大カラスが飛び上がるのと同時に割れた窓ガラスから友達を守るために、巨大カラスに背を向けた状態だったのだから。
「ゆ、百合子ちゃん!?」
「百合子! なんて事して……」
「い、いやぁ、なんか嫌な予感がしまして……あと、背中めっちゃ痛いです」
心配する茜と真綾に笑顔を見せようとする百合子だったが、背中の痛みの所為で顔が引き攣る。
百合子には勿論自分の背中など見えない。けれども代わりに見てくれた茜と真綾の表情から、かなり酷い事になっているのは窺い知れた。
窓ガラスからは遠く離れていたが、巨大カラスの巻き起こした風により割れたガラス片が弾丸のように飛んだのだろう。そしてそれが、友達を庇うために向けていた自分の背中に……やった時には本能的だったので考え付かなかった事が、今になって理解する。
痛さからして、随分と酷い怪我なのだとは思う。やってしまったとも思う。
だけど友達の顔に傷一つ付いていなければ――――今はこれで良いと、無理矢理にでも納得する事は出来るのだった。
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