校内逃走
一言でいうなら、ネズミ。より正確にいえばドブネズミのような見た目の生物だった。
けれどもドブネズミであれば、体長二十センチ前後が普通である。勿論栄養条件が良かったり、突然変異などで特別な体質だったりすれば、これよりも大きくなるが……それにしたって倍以上が限度だろう。一メートルを超えるような、モンスタードブネズミなんて自然に誕生する筈がない。
では、自分達の目の前に現れた体長ニメートル以上あるドブネズミは、一体なんだというのか?
疑問と混乱から、百合子の身体は彫刻のように固まり、動けなくなってしまった。茜と真綾、そして他のクラスメート達も同じようで、呼吸すら止まったかのように教室内が静まり返る。
動くのは、大ネズミだけ。
「ヂヂヂヂ……」
廊下側から顔を出した大ネズミは、顎を震わせるように動かしながら鳴く。赤く充血した目はギョロギョロと動き、半開きの口は涎が糸を引いていた。狂気的な雰囲気を纏い、見ている者の心臓を激しく鼓動させるだろう。
四つん這いの体勢なので、その頭の位置は百合子達の身長よりも低い。しかしそれでも腰ほどの高さはあり、大きな存在感を百合子達に与えた。少なくともごく一般的な女子高生に過ぎない百合子には、挑んだところで勝てるとは到底思えない。
ただしそれは、本当にこの大ネズミが『動物』であればの話だが。
「な、なーんだよこれ。なんのドッキリ?」
クラスメートである男子の一人は、目の前の存在を動物と認めなかった。けらけらと笑いながら、大ネズミを指差す。
確かに、そう考える方が『合理的』だろう。こんな大ネズミの存在は百合子も聞いた事すらないし、仮に世界の何処かにいたとしても、日本の(東京に比べれば片田舎だとしても)市街地に建つ高校に突然現れる訳がない。そんな馬鹿げた可能性に比べれば、目の前に現れた存在が実は精巧に作られた着ぐるみであり、中にはテレビ局だかなんだかの人が入っていると考える方が自然だ。クラスメート達も男子の言い分に納得して、安堵の笑みを浮かべた。
対する大ネズミは男子の言葉への返答とばかりに動き出し――――言い出しっぺの男子の首元に喰らい付く。
「ごぴっ」
間の抜けた声と共に、噛まれた男子の首があり得ない、あり得てはいけない方へと曲がる。大ネズミはそのまま男子を押し倒すと身体を激しく左右に揺さぶった。男子の身体も容赦なく揺れて……ある時にぶちりと音が鳴り響く。
それと共に大ネズミは顔を上げる。先程まで見せていた異様な雰囲気は消え、ただの大きなネズミのような顔立ちとなっていた。
だらんと、口からぶら下がる生首以外は。
「キャアアアアアアアアアアッ!?」
誰かが悲鳴を上げた。誰が上げたのかなんて、百合子には分からない。
けれどもその悲鳴を発端にして、教室内の生徒達は一斉に走り出した!
「百合子! 茜! 逃げるわよ!」
百合子達も、真綾に手を引かれる形で走り出す。百合子も茜も何も言わず、否、考えが浮かぶよりも早く、引かれるがまま教室から出た。
廊下に来た百合子達が目にしたのは、右往左往するように走り回る同級生達の姿。それと……廊下の真ん中で、つい先程百合子達に声を掛けてくれた担任と、その担任の腹に頭を突っ込んでいる大ネズミ。
あの大ネズミは、何をしている? なんで担任は廊下に倒れてる? なんで廊下に赤い水がいっぱい溢れて……
「ぼうっとしてないでこっち来て!」
真綾が声を掛けてくれなければ、百合子はきっと廊下で棒立ちしていただろう。突然押し寄せてきた大量の情報に、百合子の思考は殆ど止まっていた。
そんな百合子に比べれば、茜はまだ幾分冷静だった。冷静であるが故に、ヒステリックな声で真綾に問う。
「な、なんなの!? ねぇ、何が起きてるの!? あの化け物なんなの!?」
「私だって知らないわよ。確かなのは、趣味の悪いテレビ番組ではないって事ぐらいかしら。多分逃げなきゃ私らも食い殺されるんじゃない?」
「だ、だったら安全な場所に逃げなきゃ! 先生、さっき体育館に逃げろって……」
「本来ならそうしたいけど、これじゃ無理ね」
そう言いながら真綾が視線を向けたのは、廊下を走る他の生徒の姿。
生徒達はバラバラに走っていたが、明らかに多くの生徒が向かっている方角がある。体育館へとつながる渡り廊下がある方だ。二階にあるこの廊下からでは、生徒達が何処に向かっているのか断言出来ないが……他の目的地は、少なくとも百合子には思い付かない。
「逃げるんだったら、体育館の扉とか窓をネズミ共が来る前に閉めなきゃいけない。普通の施錠じゃ不安だから、バリケードも作んないとね。でも他の生徒達は疎らにやってくるだろうから、何処かで遅れてきた生徒を締め出す必要がある。そんな事私達に出来る? 出来ないでしょ? 出来たとしても、その場に集まった連中の少数派だったら駄目だし、締め出された連中が連携して扉をぶち破ってきたら何もかもお終いよ。別の場所に避難した方がマシね」
茜の言葉に、普段よりは少し荒れているが、落ち着いた口調で答える真綾。あまりにも慣れた答え方に、茜はより落ち着きを取り戻し、百合子もヒステリーにならずに落ち着く。
同時に、親友のまさかの姿に驚きもあって。
「……真綾さん、何故そんなに落ち着いていられるのですか?」
「アニメと漫画の見過ぎってところよ」
思わず百合子が尋ねれば、真綾は気恥しそうに顔を逸しながら答えた。
そういえばゾンビサバイバルガイドとか読んでいましたね……緊急時にも関わらず感じられた親友の『普段』の姿が、ほんの少し百合子の心を励ます。
「さて、そうは言ったけど何処に逃げるべきか……茜。お姉さんから連絡は来てる?」
「えっ、あ、えと……き、来てない。さっきまでので、全部……」
「ふむ。大きな動物ってのは、まぁ、あの人食いネズミでしょうね。そして町中にそれが出ているってところかしら」
「じゃ、じゃあ、学校の外に出ても……」
「安全とは言えないわね。家の中に逃げ込めるなら良いけど、道中じゃ襲われ放題だわ。そんなリスクを犯すぐらいなら学校内の何処か、籠城出来る場所に避難するのが好ましいか。そうね、調理室とかなら水も出るし、火が使えれば暖も取れるから、救助が来るまで隠れるにはうってつけかしら……」
真綾は淡々と状況を分析し、解決案を言葉にする。その言葉を聞くだけで、百合子としては安心した気持ちになれた。このまま真綾に付いていけば、きっと大丈夫だと思える。茜も同じ気持ちなのか、大人しく真綾の後に着いてくる。
百合子と茜は、真綾に頼りっぱなしだった。教室を出て調理室へと向かう間、大ネズミと遭遇しなかった事もあって冷静になると、百合子はその事実に気付く。申し訳ないという気持ちを百合子は抱き、茜も似たような想いなのか複雑な表情を浮かべた。安心感の反面居心地が悪く、ついそわそわと周りを見回してしまう。
しかしながらそれ故に、二人は真綾よりは周りが見えていた。
だからこそ曲がり角の奥から僅かに姿を覗かせていた、真綾が全く気付いていなかった『黒い影』を見付ける。
「真綾さん危ない!」
「え?」
百合子は反射的に真綾の腕を引く。茜も僅かに遅れて同じく引っ張り、友人二人に引き寄せられた真綾の身体は尻餅を撞くように倒れた。
もしもそうならなかったら、真綾は今頃、下へと続く階段がある曲がり角から振り下ろされた鎌のような足の一撃を頭からもらっていただろう。
「……ぁ?」
呆けた声を出す真綾。百合子と茜も顔を上げれば、曲がり角からゆらりと出てきたモノの姿を目にする。
それは大ネズミではなかった。
ニメートル近い身体は甲殻質であり、体毛は一本も生えていない。表面は艷やか、というより脂ぎっているような光沢だ。足は六本も生えていて、特に前足が肥大化。鎌のような構造となっていた。胸部は非常に幅が広く、横幅は百合子達の三倍はあるだろうか。
一言で例えるなら、前足だけカマキリになったゴキブリか。
百合子はゴキブリが好きじゃない。一般的な女子よりは耐性があるものの、触れたり、ましてや愛でたりする事はしない。むしろ見付け次第問答無用で殺処分する程度には、嫌悪している。
しかし目の前に現れた大ゴキブリに対しては、嫌悪感よりも先に恐怖が沸き立つ。
逃げないと、殺される。
「ま、真綾さん! 早く、早く起きてください!」
「あ……駄目。腰に、力が入らなくて……」
「う、嘘でしょ!?」
尻餅を撞いた真綾を立たせようとする百合子と茜だったが、真綾の足腰には本当に力が入っていない。何度立たせようとしても、がくんとその身体は落ちてしまう。
冷静に振る舞っていた彼女も、決して恐怖を感じていなかった訳ではなかったのだ。
真綾は大柄な体躯ではないが、百合子と茜も力持ちではない。同い年の人間一人の身体を抱えた状態では、二人で協力してもあまり速くは動けないだろう。
「ギ、チチチチ……」
対する大ゴキブリはどうか。大きくなったゴキブリがどのぐらい素早く動けるかは分からないが、直感的に、百合子には遅いと思えない。普通に走っても、きっと大ゴキブリの方が速いだろう。
どうしたら良いのか。いや、この状況で何が出来るというのか。百合子が悩んでいる間も大ゴキブリは近付き、ゆっくりと前脚を振り上げ――――
「ヂュウウッ!」
背後から現れた大ネズミが、大ゴキブリに跳び付かなければ、百合子達の誰かが潰されていただろう。
「ギヂィッ!? ギ、ギギキィィ!」
「ヂュウッ!」
大ゴキブリと大ネズミは取っ組み合いの争いを始めた。大ゴキブリもただではやられず、大きな鎌のような前脚で大ネズミを叩く。大ネズミの毛が飛び散り、僅かに赤い液体も撒き散らされたので、怪我を負ったのは確かだ。
しかし大ネズミは大ゴキブリを離そうとはしない。むしろ短い足でがっちりと抱え込むや、大きな前歯で甲殻に噛み付いた。巨大ゴキブリの体表面には穴が空き、半透明な汁が辺りに飛び散る。
大ネズミに、百合子達を助けようなんて意思はないだろう。恐らく単純に、より大きな獲物を襲ったというだけ。或いは大ゴキブリから
いずれにせよ、今ならば二匹とも百合子達を見ていない。
「い、今のうちに逃げましょう!」
「真綾ちゃん! ちょっと揺れるけど我慢しててよ!」
茜と力を合わせ、百合子は真綾の身体を引っ張る! 容赦なく暴れる二匹の闘争は、巻き込まれたらそれだけで大怪我を負いそうなものだったが……幸いにも百合子達に尻尾や脚が当たる事はなかった。
百合子達が離れても、大ネズミも大ゴキブリも彼女達を見向きもしない。百合子達の真似をするように他の生徒達が二匹の横を通ろうとして、不運な生徒が何人か下敷きになったが、それでも奴等は戦いを止めない。
これ以上ない好機。
皆が降りていく階段を尻目に、百合子達は脇目も振らず廊下の行き止まりにある調理室へと駆け込むのだった……
「とりあえず、バリケードは置いといたよ。どんだけ役に立つか分かんないけど」
扉の前に椅子を積み上げた茜が、そう報告した。茜を手伝ってきた百合子も同意するように頷く。
扉は内側から施錠し、その前には調理室の椅子を置けるだけ置いてバリケードにした。尤も女子の力でも二〜三個ぐらい軽く持てる程度の重さしかない木製椅子なので、何十と積み上げてもどれだけ効果があるのかは怪しいが。机などが動かせれば良かったのだが、調理室の机達はどれも固定されたもの。こればかりは仕方ない。
腰が抜けて未だに立てない真綾は、扉の情けないバリケードを見ると、調理室の床に座ったままうなだれるように頷いた。ただし失望の対象は出来上がったものではなく、自分自身のようだが。
「……ごめんなさい。肝心なところで、足を引っ張ったわ」
「何を言ってるのですか真綾さん。真綾さんが引っ張ってくれなかったら、それに調理室に逃げようって提案してくれなかったら、今頃私達全員死んでいますよ」
「そーそー。真綾ちゃんは気にし過ぎ。私なんて……パニクって騒いでいただけだし」
落ち込む真綾を百合子達は励ます。百合子のそれは本心からの言葉であり、きっと茜も同じだろう。
その気持ちは届いたのか、真綾は、こくんと頷いた。
「……そうね。三人全員無事だし、これ以上を求めるのは贅沢よね。分かった。この話はこれで終わりにして、次を考えましょう」
「次?」
「この調子じゃ何時助けが来るか分かんないって事よ。百合子、茜。窓から外を見てくれない?」
真綾に言われて、百合子達は調理室の窓から外を眺める。
――――茜からの情報と真綾の話、そして学校という状況から、ろくでもないものが見えるとは思っていた。
だから声を上げずに済んだと言うべきか、はたまたそれでも息を飲んだと言うべきか。
調理室の窓から見えるのは、百合子達の暮らす住宅地。
その住宅地の至るところで煙が上がっていた。横転した車や燃えている家、その横を必死な動きで走り抜ける人らしき姿も目に出来た。よく耳を澄ましてみれば救急車やパトカーのサイレンが聞こえてくる。しかしどれも遠く、そして近くに寄ってくる気配はない。
お世辞にも、平穏とは言えない状況だ。
「……嘘、こんなの……」
同じ光景を目にした茜が、否定の言葉を発す。しかし彼女がどれだけ拒もうと、町から昇る煙とサイレンの音は消えはしない。百合子も唖然としながら眺めるばかり。
最初から予期していたであろう真綾だけが、淡々とした口ぶりで語り出す。
「ま、そりゃそうよね。学校にピンポイントでモンスターが現れる訳がない。町中に溢れ返って、一部がやってきたって考えるのが自然よ」
「ど、どう、したら……」
「……恐怖を煽るようなものを見せて言うのも難だけど、そこまで心配しなくても良いわ。さっきのゴキブリとネズミの戦いで、どちらも傷を負っていたでしょ? あの程度で怪我するんだから、銃があれば倒せる相手よ。猟友会か、警察か、自衛隊か。誰が来るにしても、駆除は出来る筈」
「でも! そんなの何時来るか……!」
「だから調理室に逃げ込んだの。水だけでも人間は二〜三週間生きられると言われているわ。仮になくても冬場の今なら四〜五日は生きられると思う。それだけの時間があれば町の害獣駆除も終わるでしょ。私達はその間じっとしているだけ。地震を生き延びるよりも簡単よ」
戸惑う茜に、真綾は落ち着いて、理屈に沿った言葉で説明する。狼狽えていた茜の息は静まり、傍で訊いていた百合子もその言葉に納得して胸を撫で下ろす。
危険な状況なのは変わらない。けれども地震よりも簡単だと『具体例』を出されると、自分達が生き延びる事が不思議じゃないと思えて一層の安心感につながる。
そうして百合子がホッと息を吐いた――――まるでその時を狙ったかのように。
『世界』が、大きく揺れ動いた。
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