3-12 敗走と遁走
朱河原の携帯に着信があったのは、命令を出してから三分と経っていない時だった。
「もしもし? 渡辺、首尾はどう?」
「依頼通りです。すべてのパソコンを停止させました」
「何か不自然な点は?」
「ありません──強いて言うなら、あまりにもあっさりとうまくいった、という所ですかね」
「あまりにも?」
「情報処理部の連中、まったく抵抗せずにすぐパソコンを明け渡したんです。まあ、あからさまにオタクっぽい弱そうな奴らだったし、俺達にビビっただけだろうとは思うんですが」
「──そう。まあいいわ、御苦労様。書き込みを消すから、ちょっとそのまま待ってて」
通話を終える。
──情報処理部は、まったく抵抗しなかった。
そこに小さな不安の粒を知覚しながら、朱河原は携帯を取り出した。インターネットに繋ぎ、掲示板を呼び出す。管理者権限で、すべての書き込みを一括削除した。
最初の書き込みがなされてから十分も経たない内に事態は決着した。この間に投稿者以外のアクセスがなかったことも確認できた。これで──問題はないはず。
管理ページを閉じ、確認のために再び掲示板のページを開いて──
「…………え?」
朱河原は目を疑った。
同じ書き込みが──たった今消したはずの、「今回の事件の黒幕は生徒会だ」という書き込みがまた投稿されている。
ページを更新する。
書き込みは二件に増えた。
再び更新する。
書き込みは四件に増えた。
「ば──かな」
止まっていない。
以前として投稿は続いている。
朱河原は強い目眩を感じた。
「ど、どうして」
震える指で、すぐに渡辺の番号を呼び出す。
「はい、渡な」
「止まってないわ! 投稿が止まってない!」
「は? いや、でも」
「どういう事よ! 渡辺っ、あんた今言ったじゃない! すべてのパソコンを停止させたって!」
「そうです。間違いなくパソコンはすべて電源を切りました。俺にもどういうことか──とりあえずもう一度点検してみます」
「ええ、できるだけ速やかにやって」
「了解です。じゃあ……うわっ!」
「な、何よ!」
「警察です、け、警察が踏み込んで──」
「え、ちょっ、どういう事なのっ!?」
切れた。
朱河原は携帯を耳から引きはがし、白文字で通話終了と表示された画面を呆然と見やった。黒い画面に、色を失った朱河原の顔が映った──その背後では椅子に座った連上が笑っている。
「なん……なの」
朱河原は振り返った。
連上の静かな笑みは、どこまでも深い奈落を想起させた。
「残念だったね、朱河原さん──実はこっちも仲間を張り込ませていたのさ。あたしがメールで合図したらすぐに警察を呼ぶためにね」
「な……」
朱河原は目を見開いた。
「じゃ、じゃあ、あんたは最初から予測していた──っていうの? 私がテコンドー部を動かすことまで」
「まあ、ね。逆に言えば、ここから先はテコンドー部の介入は不必要だ。梁山部長にとってはこれが部長としては最後の仕事になるのかな」
「最後……?」
「島崎君に今回、他の部員とは少し違う特別な仕事をお願いした。梁山君にある手紙を届けてもらったんだよ──彼はもう動けない」
「島崎──島崎を!」
朱河原は目を見開いた。
連上は自らの右腕を隠し玉に持っていたのだ。この状況で掲示板への投稿に参加させずに。
島崎を部室に置かなかった──その意味は。
背中に冷汗がじわりと滲んだ。
「じゃ、じゃあ──今も掲示板に投稿が続いているのは──」
「島崎君が校内のどこかでやってくれているのさ」
朱河原は頭を殴られたような衝撃を覚えた。
あまりのことに脳髄がくらくらとした。
計り知れない──この計算高さは。
情報処理部はまるごと、こっちの目を逸らすための囮だった?
その壮大な陽動にまんまとひっかかったということ──
「──え」
テコンドー部を動かすことまで予測の内だと言うのならば。
「それって」
それも最大限に生かした方法を取るわけだから。
「そん──な」
部室には今警察が踏み込んでいる。
「い、いやああああああああああああああああっ!」
朱河原は絶叫した。
「最大のミスにようやく気づいた? ふふふ、そうさ。あんたの采配は掲示板に書き込まれた噂を食い止められなかったに留まらず、生徒会を告発する投稿をテコンドー部が阻止しようと動いたという場面を警察に見られることで──両者の関係を証明する役割まで果たしてしまったんだよ」
連上は悪魔めいた微笑をさらに深める。
「朱河原さん、御苦労様──どうもありがとう。これであたしの生徒会潰しのシナリオは動き始めた。もう、誰にも止められない」
ぐらり、と視界が揺れた。足から力が抜け、床に膝をつきそうになって朱河原はあやうく体勢を立て直した。
頭の中では警鐘が大音声で鳴り響いている。
堤防は決壊してしまった──生徒会が、南岳を頂点とする闇の利権システムが暗い水の底に沈むのはもう時間の問題だ。
もうこんな泥船に乗ってはいられない。生徒会が糾弾されれば、演劇部も巻き添えを食って責任を追及される。構築された利権システムは瓦解し、朱河原は進むべき道を失う──いや、それどころか、まんまと敵に誘導されて下手を打ったことで南岳の恨みを買い、消されてしまうかもしれない。あの狂った人殺しに──。
もうこの学園に留まることは──不可能だ。
一瞬で打算を巡らせた朱河原は、身をくらまして遁走する以外に選択の余地がないことを知った。
こんなはずではなかった。うまく立ち回って南岳に取り入り、この巨大なシステムの実権を握ってやるつもりだった。現生徒会のメンバーとも、梁山とも──誰を相手取っても権力闘争に勝ち抜けるだけの自信と備えはあるはずだった。しかし、ある日突然現れた異分子──まさに今目の前にいる連上という小娘に朱河原の描いた計画はかき乱され、完膚なきまでに崩された。
「くそっ!」
舌打ちを放って朱河原は戸口に向き直った。一刻も早く逃げなければならない──しかしいつの間に移動したのか、戸の前には連上が立ちはだかっていた。
「どきなっ──この!」
朱河原は連上に体ごとぶつかり、そのまま廊下へ押し出した。
振り向きざまに床を蹴り、昇降口へ全力で走る。形振りなど構ってはいられなかった。
「許さない……許さないわよ、連上っ!」
朱河原は己の未来を奪い取った連上を激しく呪った。
連上──朱河原の遥か上を行く策士。
憎悪と殺意に身を焦がされながらも、認めざるを得ない。
逃げ出す刹那に視界に入った連上の顔は──笑っていた。
連上はここまでの状況をすべて計算づくの上で朱河原をいいように踊らせ、利用し尽くした。連上の頬に張り付いた冷笑は、ここに至って完全に成立した謀略を眺め──それによって半ば具現化した勝利を見据えたものだったのだろう。
対抗などできない。ただ逃げるしかない。
その判断は正しいと、朱河原は信じていた。
しかし、朱河原は気付かなかった。
ポケットが少しだけ軽くなっていることに──。
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