1-4 勝算と誤算

 

 見るともなしに、花壇に植えられた赤い花を見ている。

 あの花はなんという名前の花なのだろう──そんな瑣末なことをとりとめもなく考えてしまう。あまりに長い時間が経つと身を焼いていた緊張感も薄れ、幾分弛緩した気分が頭をもたげてきてしまう。よくないと思いつつも、島崎はそれに抗う術を持たなかった。


 島崎は中庭にいた。

 初めて資料室に入った日に掴んだ手掛かり──それを基に練り上げられた計画は、すでに大詰めに入っていた。テコンドー部を敵に回して戦うだけの武器と作戦は手の内に収まり、あとはしかるべき時が──実行に移す機会が訪れるのを待つだけである。

 島崎はすべての準備が整った日のことを回想した。

 

 島崎の計画にとっての起爆剤となる、ある事件が起きたのは三日前──島崎が新聞部に入部してから四日目のことだった。

 その時、島崎は生徒会資料室で調べ物をしていた。

 事情を知っている植村が教育係として付いてくれているおかげで、島崎は部活中に何かと自分の調査をすることができていた。そしてテコンドー部の出自が怪しいことを初日に突き止めて以来、調べれば調べるほど島崎の調査は核心に近づいていた。しかしそれは近づいたという次元のことでしかなく、島崎は未だに決め手に欠いていた。奴らをぐうの音も出ないほど徹底的にやりこめるための必殺の武器がまだ手に入っていない──島崎はまだ、本当の意味で陽陵学園の闇を掴むことができていなかった。

 とはいえ、その日も島崎は滞ることなく順調に調査を進めていた──重要と思われる資料の筆写を終え、机に広げていた資料の束を片づけようとしていた時、大きな音を立てて引き戸が開いた。


「島崎君っ!」


 入ってきたのは植村だった。

 全速力で走ってきたのだろう、髪は乱れ、眼鏡もいつになくずれている。


「ど、どうしたの? 植村さん」

「あ、あの、島崎君、大変なのっ──」


 植村は傍目に分かるほどに動揺しながら、金切り声に近い声で叫んだ。


「山中先輩と加東先輩が、何者かに襲われて病院に運ばれたって!」

「────っ!」


 植村の言葉を聞いた島崎は、鼓動が止まったように錯覚した。

 衝撃のあまり呼吸が止まり、全身に震えが走った。

 

 山中先輩と加東先輩──

 それは、井守が助けた二年生の二人組の名前じゃないか。

 

「──とにかく、すぐ部室に戻ってきて!」


 植村は切羽詰まった表情でそう言うと、走り去って行った。

 

 島崎はしばらくそのまま座っていた。

 震えは止まっていなかった。

 だが、表情が変わった──自分でも抑えようもなく、口角が吊りあがっていくのを感じた。

 島崎は、先輩が襲撃された知らせを聞いて──笑っていた。

 震えながら、荒く息をつきながら、額を冷汗に濡らしながら──それでも笑みだけは崩れることがない。傍から見ればさぞ不気味な光景だろう。

 しかし島崎にはどうしようもなかった。どうしようもなく──嬉しかった。

 揃ったのだ。

 この瞬間、奴らに復讐するためのすべての手札が。

 島崎は闇を自らの手で掴んだ感触を覚えた。胡乱で底知れない闇を力任せに掌握した、その震えは止まるところを知らずに全身を包んでいた。

 

 そして、島崎の復讐計画は最終段階を迎えた。

 昼休みに中庭で──事件の発端が起こった中庭で、ただ待つ。

 初日には何も起こらなかった。

 次の日も。

 その次の日も。

 それでも根気良く、島崎は昼休みの間中ここで待ち続けた。

 そしてちょうど一週間目のこの日、ついに標的は現れた。

 

 ──来た。

 島崎は心の中で呟いた。同時に、緩んだ気持ちが引き締まるのを感じる。

 視界の端に二人の男の姿が映っていた。

 詰襟の前をはだけて原色のシャツをさらしている金髪の男と──茶髪のひょろっとした男。

 井守と揉めた不良の二人組──間違いない。

 この時を待っていた。

 二度ほど深呼吸をして、島崎は小走りに二人の前に出た。

 あの時の井守と同じように。


「あーどうも、新聞部のものなんですがー、ちょっといいですか?」


 金髪が怪訝な視線を向けてくる。島崎の鼓動が早まった──井守の仲間だとはバレていないはずだ。

 果たして島崎の心配は杞憂だったようで、金髪はただ鬱陶しそうに舌を鳴らし、通り過ぎようとした。

 回り込む。


「あの、ちょっとご協力いただきたいんですけどね」

「は? 失せろ、うぜえな」


 金髪は低い声で恫喝し、視線を尖らせた。脇の茶髪も同じように島崎を睨みつけてくる。


「そう言わないで下さいよ──大事件を調査中でして、是非ともお話を聞かせてほしいんです」


 島崎は一旦言葉を切ってから、拳銃を懐から出すような声音で続けた。


「最近起きた、三件の暴力事件について」


 ──井守。

 ──山中先輩。

 ──加東先輩。


「これが妙な事件でしてね。お二人は知ってます?」

「……知るかよ、バカじゃねえの」


 金髪は否定の答えを返す直前、少し言いよどんだ。茶髪はさらにわかりやすい反応を示した──表情に、明らかに動揺が生じた。

 島崎は冷徹にそれを観察する。

 ──やはりこいつらも実行に関わったか。


「お前に話すことなんかねえ」


 金髪は吐き捨て、足早に去ろうとする。語気を荒らげているものの、その声には確かに不安じみた色が染みついていた。


「お前に? それは新聞部にということですよね。新聞部に何も話すことはないとは──まるでだれかに命令されたような口ぶりだ」


 何もかも見透かしているという口調で、島崎は言った。


「ねえ、答えて下さいよ。あなた達は命令されたんですよね? ──生徒会に」


 二人が体ごと振り向く。

 島崎は形ばかりの笑顔を作って、すぐまた消した。

 二人は気味悪そうに島崎を見て、そのままじりじりと後ずさった。


「どこに行こうとしているんです? まあ大方想像はつきますけどね。おそらくテコンドー部の部室でしょう──そこで秘密を嗅ぎまわる鼠をどうするか、話し合うつもりですか? なら僕も付いて行きますよ。そっちの方が話が早くていいと思いません?」

「なん……なんだ。お前は──」

「答える気はない」


 島崎は金髪の問いを一蹴した。二人を偉そうにすがめて、命令する。


「ボスのところに連れて行け。お前ら雑魚に用はない」



 

「ほおう。こりゃまた、珍しいお客さんだねェ──」


 島崎が二人組を引き連れてテコンドー部部室に入るとすぐ、声が響いた。

 部室の中は雨戸が閉められているのか、ひどく暗い。外から入ってきたばかりのせいで視界がほとんど漆黒に塗り潰されている島崎には、甲高いながらも妙な重みを持ったその声はまるで闇そのものが発したように聞こえた。

 やがて目が闇に慣れてくるにつれて、ぼんやりと部屋の中にあるものの輪郭がうかがえるようになった。息遣いや衣擦れのような音でわかってはいたが、どうやら十数人の男が部屋の中にたむろしているらしいことがはっきりした──男達は座っていたり立っていたりとばらばらだったが、どうも一人の男を中心に集まっているらしい。そこは部屋の中心でもあり、声はそのあたりから聞こえたようだった。


「どうしたい。まさか入る部屋を間違えたってんじゃないんだろ? 何か用があるのなら、さっさと言えばいいじゃないか」


 また同じ声がした。今度ははっきりと、中心の男が言ったのだとわかる。

 男はパイプ椅子にどっしりと腰掛けていた。かなりの痩身──特に腕や脚は枯れ木のようで、ひょろ長いのがかえって不気味さに繋がっている。体つき自体は甚だ頼りなげで安定感とはほど遠いのだが、あまりに泰然とした座り方をしているのでやはりどっしりという表現が的確に思える。

 爬虫類じみた造作をした男だった。切れ長の目は今でこそ半眼だが、見開けばまさに蜥蜴や蛇のような威圧感を宿すだろう。鼻筋が通っていて、顎は尖っている。

 不良の集まりの中にいるには不自然と思えるような──怜悧な印象だった。


「あんたが──ここのボスか」

「まあ、そうだ。テコンドー部部長、梁山正貴りょうざんまさたかだ。そういう君は一体誰なんだ?」


 梁山と名乗った男は、島崎を品定めでもするかのようにねめつけた。

 島崎はそれを無視する。


「僕が誰かなどどうでもいいことだ。あんたの言う通り、さっさと本題に入らせてもらう──先週、僕の友達があんたの手下にやられた」

「ほおう」


 梁山は小馬鹿にしたような相槌を打った。どうやらこれが彼の口癖らしい。


「で、うちの部のモンがやったって証拠は?」


 島崎は内心で感心した。やはりこの男は賢い──証拠が出なければいくら怪しまれたってシラを切り通せる。そして事件現場には、証拠を残さないことに対する徹底的なこだわりが見られた──誰が置いたかも特定できない、どこにでもあるような工事設備を残していったことを除けば、だが。しかしそれがあったところで襲撃犯を特定することは不可能である。梁山はそれを熟知し、武器に変えて攻撃してきたのだ。


「証拠はない」


 島崎は、こともなげに言い放った。

 梁山に指を突き付ける。


「だから、あんたに吐かせてもらいたい」


 梁山は一瞬置いて、ははははは──と高笑いをした。

 しかしその哄笑はやがて引きつり、闇に溶けるように消える。


「ほおうそうかい、そいつは実に……いや実に、ちっとも笑えねェ話だ」


 島崎を見据えた梁山の顔は、いくらか険しくなっている。


「どうして俺が、何の義理もないのにわざわざそんなことをせにゃならん? 君は何様のつもりなんだ?」


 言葉面こそ冷静だったが、梁山の声音には明らかに棘が含まれていた。


「義理? いやいや。今にあんたはやらせてくれと頼み出すさ」


 その言葉に部員の何人かがいきり立った──舌打ちをする者、唸り声のようなものを上げる者、立ち上がるもの。部室内はにわかに騒然としたが、梁山がすっと右手を上げると熱気はすぐに収まった。


「どういう意味だ?」


 さすがだ──と島崎は思う。ただの不良ならこんな場合、下らない戯言だと信じもせずに襲いかかってくるだろう。しかし梁山は違う──島崎の態度、口調から何かを見出したのだろう。だからこそ頭に血が上った不良を抑え、真実を確かめに来た。用心深い男だ。


 島崎は言った。


「僕はすでに突き止めているんだよ──あんた達テコンドー部が、生徒会に金で飼われている番犬集団だってことをね」


 瞬間、部屋の中に緊張が走る。

 空気の密度が変化したような錯覚を覚えた。

 島崎は部室内を見回す。話している間にかなり目も慣れて、より鮮明に景色を視認することができた。


「この部室──見たところ、練習器具も何もないようじゃないか。部活とは関係のない私物で埋まっているし、こんな状態で本当に部活が機能しているのか甚だ疑問だ」


「部室は練習場所じゃねえだろ。おいおい、そんなことも知らねえのか?」


 梁山の右側に座っている太った男が、嘲るような調子でそう言う。

 島崎は男にちらりと視線をやって、質問する。


「と言うと、練習場所はどこなんだ?」

「武道場に決まってんだろ。お前、ここが何部かわかってんのか?」


 ──簡単に引っ掛かるもんだ。まあ、予想通りか。

 島崎は不良の反応実験を終え、素っ気なく返した。


「放課後の武道場の使用ローテーション表には、テコンドー部の名前は載ってなかったけど?」


 男は思考が停止したように凝固した。

 島崎はポケットから紙を取り出し、男に見えるように翳した。


「これが写し。生徒会資料室を調べればわかることだ──今あんたが嘘をついたことで、テコンドー部は活動していないインチキ部活動だってことが証明されたね」


 ぐ、と男は言葉に詰まった。


「おかしいじゃないか。運動場にも体育館にも、テコンドー部の活動割り当て時間は存在しない──そんな問題に対して、生徒会が何も動こうとしないのはいかにもおかしい。違うか?」


 島崎は周りを見渡す。

 誰も、何も言わなかった。

 しかし降参したわけではない──梁山に制止されたから黙っているだけで、不良達からはあからさまな怒気が放射されていた。その勢いに圧倒されかかっている自分に気付いて、島崎は自らを鼓舞するようにより一層軽薄な口調で語った。


「それはどういうことかっていうと……誰が考えたってこんな問いには一つの解答しか出てこない。生徒会はあんたらのことを黙認してるんだよ。これが繋がりの証拠でなくて何なんだ?」

「だからって我々が生徒会の──」

「さらに予算の問題」


 梁山に発言を許さず、島崎はたたみかける。


「昨年度の部活予算表によると、テコンドー部はすべての部活の中で二番目に予算が多い」


 写しを取り出して、宣言する。


「設立されたばかりで何の実績もなく、部員は素行の悪い輩ばかりでろくに活動もしていない。そんなテコンドー部が多額の部費を支給されているのは──どう考えたって不自然じゃないか?」


「我々が着服しているとでも?」


「さあね。だが確かなのは、ここまで証拠が揃えば怪しまれても仕方ないってことだ。さらに性質の悪いことには、極め付けがもう一つある」


 島崎は締めくくりに入った。


「実はこの資料、一般の生徒には公開されていないんだ。僕も新聞部に入って、部活の名目でようやく見ることができたんだけれど──本来、部活の予算を隠す必要なんてないはずだ」


 梁山は黙っている。


「僕は推理する──資料が非公開なのは、誰かがテコンドー部の部費の不当な多さを隠したかったからだ、と。そして誰かとは、予算を決める権限のある生徒会以外にはあり得ない。資料を保管しておく場所ですら『生徒会』資料室なんて名前が付いてるんだ、もうこれは疑う余地すらない」


 島崎は喋り終えた。

 しばらく、沈黙が部室内を占領した。

 それを破ったのは──梁山の笑い声だった。今回は先ほどのものとは違い、押し殺したような笑い声である。

 その笑い声には、追い詰められたという焦りはまったくなかった。


「ふふふふふ……なるほど、そういう考え方もできるものか。なかなか面白く聞かせてもらったよ。だがねェ──少し考え過ぎの感が否めないね」

「なんだと?」

「練習場所の件は確かにそうだとも、認めよう──俺達は校内では練習していない」

「校内では?」

「ああ。テコンドーというのは外国の武道だからね──それ専門の練習場というのがあって、そっちの方が練習の効率がいいんで俺達は部活動の際にはいつもそこに行っているのさ。部費の高さはそこの使用料だよ──不当でも何でもなく、単なる必要経費というわけだ」

「じゃあ、なぜさっきそこの部員は嘘をついたんだ?」

「武道場でやってる、ってのかい? ああ──君の勘違いだよ。武道場というのは俺達が行っている練習場のことを指しているんだ。そうだろ?」


 太った男はぎこちなく頷いた。

 一応筋は通るが、何か嘘臭い──追及されたことを踏まえて今この場で考えたような、どことなく薄っぺらい答えである。

 襤褸を出させようとして、島崎はさらに追及した。


「その練習場というのは?」

「正式な名前は忘れたな」

「場所は?」

「入り組んだ場所にあるんだ。どうにも口じゃ説明しにくいね」

「部費として申請するためには領収書が必要なはずだ。その練習場の使用料の明細を見せて欲しい」

「君に見せる必要はないね」


 梁山はのらりくらりと会話を躱す。

 しびれを切らして、島崎は声を荒らげた。


「どうして隠すんだ!」

「隠しているわけじゃない。わざわざ見せる意味がないと、俺はそう言っているんだ。同じことは生徒会にも言える──」


 梁山は涼しい顔で両手を広げた。もう主導権を握ったような振る舞いである──いや、事実、場の優位は梁山に傾きつつあった。島崎がどれだけ熱弁を振るったところで、場のすべてが梁山を支持しているのではどうしようもない。


「君は言ったね、生徒会が部費やなんやかやの資料を非公開にしているのは隠したいからだ、と。だが、果たして本当にそうか? 皆、よその部活の部費なんて興味がないんだよ。別に望まれているわけでもない資料をわざわざいつでも見られるようにしておくのは馬鹿馬鹿しいし、余計な手間もかかる。だから公開していない──それがごく当たり前の解釈だと思うがね」

「そうだ!」

「部長の言う通りだ!」

「生徒会は無駄を省いてるだけじゃねえか!」


 澄ました顔で締めくくった梁山に、部員達が次々と同調の声を上げる。

 ──不利だ。

 島崎は再び攻撃に転じた。


「よその部活の予算に興味がないってのには──どういう根拠がある?」

「当然のことじゃないか──予算が非公開になっている現状でまったくどこからも苦情が出ていないという事実さ。まあ俺だって生徒会に来る要望をすべて把握しているわけじゃないが、発行される議事録くらいは読んでいる。資料非公開が議題に上ったことはないし、反対運動なんてのも聞かない」

「議事録? もし生徒会が黒なら、わざわざそんな議題を表舞台に上げるわけがない。握り潰されるだけだ」

「ふん、ああ言えばこう言う、だな──まあそれはそれでいいが、反対運動についてはどうなんだ? そういう運動が起きたという記録でもあったかい?」


 梁山は余裕たっぷりの表情である。

 島崎は直感した。読まれている──奴は記録がないことをほぼ確信している。

 そしてそれは当たっていた。

 しかし、それをただ認めただけでは負けてしまう。

 島崎は攻撃のカードを投じた。


「あんたらテコンドー部が押さえつけてきたからなんじゃないのか?」

「……言っている意味がよく分からないな」

「確かに公式の記録には反対運動が起きたと書かれてはいなかった──しかし実際のところ、そういうものは何度か起きている。ただ騒ぎが大きくなる前に尻すぼみになってしまったんだ──運動の首謀者が何者かに半殺しにされるという形で」

 

 島崎は静かに場の支配権を奪い取ろうと試みた。


「昨日、そのうちの一人に会ってきた。彼はそのことについて話すことをためらったが、代わりに復讐すると約束したら語ってくれたよ」


 島崎は目を細めて梁山を睨んだ。


「襲ってきた男達の中には見知った顔が──テコンドー部部員が確かにいた、ってね」


 場はしんと静まり返った。

 島崎は視線を外さなかった。

 梁山もただ黙って島崎を見返していた。

 他の部員達は、二人のどちらかに視線を向けていた。

 全員が凝固している。

 時の止まったようなそれとは違い、場の沈黙はじりじりと焼けるような温度を孕んでいた。

 島崎の顎から脂汗がぽたりと落ちた。

 やがて。

 梁山の後ろに座っている男が、吐き捨てるように言った。


「クソ──誰だそいつは」


 島崎は大きく息を吐きだした。しかし肩の力は抜かないまま、静かに言う。


「心当たりがあるのか。そうか、じゃあ今の憶測はすべて事実だったんだね」


 男は目を丸くした。


「会って話したってのは全部嘘。手を尽くして探したが、結局反対運動の首謀者は見つけられなかった──あくまで僕の推理、推論でしかなかったのさ。しかし今、それは他ならぬ当事者によって裏付けられた。まあ、そこのボスはともかく──脇で聞いてる馬鹿は尻尾を出すだろうと思ったよ」


 梁山の爬虫類めいた顔がわずかに歪んだ──テコンドー部部長は、黙してうつむいた。

 この狡猾な詐欺師に一杯喰わせた──その事実が、場の空気を一挙に逆転させた。

 島崎はもはや勝利を確信して、厳かに宣言した。


「テコンドー部は生徒会と癒着関係にある」


 間があって。

 梁山はゆっくりと顔を上げた。

 元々細く吊りあがった目をさらに細めて──その糸のようになった目からは、なんの表情も読み取ることはできない。

 梁山は低い声で言った。


「言うねェ、一年──君の度胸に敬意を表して訊こう。何が望みだい?」


 ──勝った。勝ったのだ。

 島崎は気が抜けて床にへたり込みそうになり、あわてて足を踏ん張った。

 心臓が早鐘のように鼓動を打っていたことにようやく気付く。

 それでも精一杯平静を装って、島崎は言った。


「井守優生──被害に遭った僕の友達の名前だ。襲撃の実行犯は全員、あいつの前で手を付いて謝ってもらう。そして二度と手を出すな──それで手を打ってやる」


 言ってから、それだけが要求だったかと自分で驚いた。復讐などと言っても、所詮は事態の収束だけを望んでいたのだ。そのためにあれだけの努力を──いや、考えるのはよそう。過程と結果は常に等価ではない。今までにした苦労など、結局は過ぎたことなのだ。今はただ、結果だけを受け取ればいい。

 島崎は平静な気持ちでそう考えていた。

 梁山は──島崎の言葉を噛みしめるようにしていたが、やがてまっすぐに島崎を見た。

 笑って──いる。

 その瞬間、島崎は言い表せない恐怖に襲われた。


「ほおう──ふふん、なるほどね。それが君の要求であるわけか──」

 

「断る」

 

 言ってから、梁山は悪魔じみた笑みを浮かべた。

 ──これは。

 これは、獲物を前にした蛇の目だ。

 こいつはやはり──第一印象の通り、人の皮を被った蛇なのだ。

 島崎は錯乱した。どうして断れるのか、理解できない。


「馬鹿な──」


 ──馬鹿な。

 掴んだのは僕だ。

 暴いたのは僕だ。

 優位なのは僕だ。

 勝ったのは僕だ。

 僕なのだ──なのに。

 何故断る。

 どうして笑う。

 こいつは。


「ひっ──」


 鼓動が信じられないほど大きく、島崎の中で響いている。

 どうしようもなく、恐ろしくなっている。

 島崎は混乱と同様に我を失いそうになりながらも──このままでは負けるという、その一点だけを理解した。

 もう一度流れを引き戻さなければならない。

 奴にこちらの要求を飲ませるために──もっと決定的な攻撃をしなければならない。

 島崎は、自らが持つ最大の切り札を唇から放った。

 それはたった五文字の言葉だった。


「──ヤワタハマ」


 その瞬間、梁山の笑みが掻き消えた。確かに顔色が変わった。

 島崎はその反応にやや安堵しつつ、言葉を繋ぐ。


「あんたらは生徒会に従い、金を回してもらう代わりに生徒会にとって邪魔な人間を排除している──その確信を僕に与えてくれたのは、あんたら自身だったんだ」


 島崎は記憶を巻き戻した。

 三日前、生徒会資料室で調べ物をしていた島崎に、息せききって現れた植村は告げたのだ──山中先輩と加東先輩が、何者かに襲われて病院に運ばれたことを。

 あれこそが、切り札を島崎の懐中に潜ませる引き金だった。


「山中先輩と加東先輩はやられた。そしてそれを邪魔立てした井守も、同じように襲われた。僕はあの時理解したんだ──最初に二人がここの部員に絡まれていたのも、テコンドー部の組織的な行動だったってことに」


 山中先輩は、自らを助けた井守にこう語った。

 ──なんだか知らないけど、部室の前を通ったら言いがかりをつけてきて。

 心当たりがないのも当然だ。

 あの時二人には、不良と関わる気などなかったのだから。

 二人が狙われたのは、生徒会が彼らを疎んだから──そして、人畜無害なあの二人が睨まれる理由とは──


「こうなることを見越して、あらかじめ調べておいたよ──あの時の取材内容を、ね」


 島崎は言った。

 そう──二人はおそらく、新聞部の活動で調べていた内容のせいで狙われたのだ。

 ならばそれこそが──純粋な新聞部としての調査すら許さず、間に入った無関係な生徒すら牙にかける、そこまでして守りたかったものこそが、生徒会側にとっての急所であり、弱点であるはず。

 それが島崎の読みだった。


「その答えが──ヤワタハマ」


 もう一度切り札を投げかけた島崎に応えるように、梁山が右手を掲げた。

 瞬間、一斉に部員達が立ち上がる。

 ボスの合図一つで、自堕落な不良達は臨戦態勢を整えた私兵に姿を変えたのだ。


「喋り過ぎだな……お前は、知り過ぎたよ」


 梁山はぞっとするほどの冷たさと固さを感じさせる声でそう言い、掲げた右手を島崎に向ける。

 部員達が飛び出した。


「ま、待て!」


 島崎はとっさに右手をズボンのポケットに差し入れ、左手で襲い来る不良達を押しとどめた。


「僕は先輩達のようにはならない──なってたまるか。手は打ってあるんだ」


 梁山はじっと島崎を見ている。


「実は、ここに来る前にポケットの中で携帯を通話状態にしておいた。つまり、今までの会話はすべて録音されたってことだ。そして、正式な手順を踏むことなく録音を終了させれば──あらかじめ設定しておいたアドレスに、音声ファイルを添付したメールを自動的に送信するようになっている」


 不良達は沈黙している。


「ワンタッチでできることさ。僕は今、あんたらを殺すための引き金に手をかけているんだ──だから僕に逆らうな。要求を飲め!」


 島崎は早口でまくし立てた。もはや冷静なふりは続行できない──形振り構っていられる状態ではなかった。

 

 そのまま数秒が過ぎ、島崎は場の異常に気付いて慄然とした。

 誰も、何の反応も示さないのだ。

 それも予想外のことにショックを受けて固まっているといった風ではない、半ば予定調和の展開を傍観しているかのような──

 あらかじめ、こうなることがわかっていたかのような。

 言葉にするならそれがもっとも当てはまる、そんな類の雰囲気だった。

 そんな中、梁山だけがかすかに笑っている。

 梁山一人だけが、一段上の席で芝居を見ているかのような優越感を瞳に滲ませて笑っている。


「何がおかしい」


 島崎はポケットの中の携帯を掴もうとした──

 

 そこで。


「なあ……」


 右側から声がした。

 島崎をテコンドー部まで案内した、二人組の不良の片割れ──井守と直接対峙した金髪の男である。

 部室の引き戸を開けた格好のままずっと島崎の脇で展開を見守っていた彼は、ここに至ってようやく口を開いた。


「お前の言ってる携帯って、これのことか?」

 

 一瞬の間をあけて、ようやく現状を理解した島崎は呆然とした。

 金髪が、島崎の携帯を持っている。開かれたその画面は真っ黒で何も映っていない──電源が、切られている。


「な、な──」


 島崎は動転した。視線が定まらず、携帯の周りをただ浮遊する。

 後ろでもう一人──茶髪の男がにやついているのが視界に入った。

 島崎は理解する。

 こいつが──目立たなかったこの男が、梁山に連絡して──


「君がここに来てすぐに掏り取らせ、電源を切った。君がそう来るであろうことは予想済みだったからね」


 そう言うと、梁山はさも愉快そうに高笑いをした。

 はははは──と、さきほどと変わらない調子で。

 そう。

 梁山は、さっきから何も変わってはいない。表情をくるくると変えて見せたのは演技だったのだ。すべては見透かされていた──島崎がテコンドー部の部室に至った、その時点で。


「そんな……そんなことが」

「さらに言うとね、君が今まで持ち出してきた資料──あんな、個々の断片を組み合わせて少し考えを巡らせれば簡単に結論が出てしまうような危険な資料を、新聞部部員という条件付きとはいえ一般生徒に見られるような所にわざわざ置いておくこと自体がおかしいとは思わないか?」


 梁山は微動だにせず話す。


「あんなものを隠蔽も偽造もせずそのまま置いていたのは、言ってしまえば一つの仕掛けだったのさ──君のような切れ者ぶった造反者をいぶり出すためのね」


 詰襟をしっかり着こんでいる梁山の体は、動かないでいると完全に闇に紛れてしまう。

 暗闇の中に浮かんだ生首は、相応し過ぎるほど不気味な表情で語り続ける──細い目の中には嗜虐的な色が宿っていた。


「つまり、今回君が掴んだ──いや、掴まされたものはすべて罠だったということだ。何を知ろうが関係ない。真実を探ろうとした鼠は、そのままテコンドー部の標的となるのだから」


 島崎は何も言えない。

 ただ、断頭台に乗せられた死刑囚のように話を聞き続ける。

 死刑囚と死刑執行人──島崎と梁山の関係はまさにそれだった。場の流れ、主導権の取り合いに島崎は躍起になっていたが──夢から覚めればそれは単なるまやかしでしかなく、最初から二人は冷徹なギロチンの刃を介した圧倒的な差のもとにいたのだ。


「反旗を翻そうとした者は君で十八人目──しかし、ヤワタハマまで辿り着いたのは君が初めてだ。驚いたよ、君は今までの奴らよりも間違いなく頭一つ抜けている──褒めてやりたいところだが、あいにくこの学園に賢い奴はいらないんだよ」


 梁山は片目を瞑って、お気の毒様──と結んだ。

 それを合図に、不良達が島崎に襲いかかって来る。

 島崎は動けなかった。

 何も言えなかった。

 ただ、自らの愚かしさを恥じていた。

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