1-2 災難と決意

 

 石藪病院。

 島崎の住む石藪市のほぼ中心部──陽陵学園から十五分ほど歩いた所にある市立総合病院である。

 その三○三号室の戸を、島崎は静かに開いた。

 

「栄ちゃん──わざわざごめんね」

 

 ベッドの横に座っていた井守の母親がはっとしたような表情を浮かべて振り返った。

 

「いえ──あの、電話ではいまいち話がよくわからなかったんですけど、井守がどうかしたんですか?」

 

 井守の母親は黙って立ち上がり、場所を譲った。

 開けた島崎の視界に、痛々しい姿でベッドに横たわる井守が飛び込んできた。

 頭には包帯が巻かれていて、右目にもガーゼが当てられている。見える範囲の顔は全体が複数の打撲傷による腫れによって子供の作った粘土細工のように不格好に変形してしまっており、左腕と右足の爪先はギプスで固定されていた。

 

「ひどい……どうしてこんなことに」

「昨晩、夕食の後にコンビニに出かけて──そのまま一時間経っても帰ってこないから、心配になって探したのよ。そうしたら、団地近くの裏路地に倒れていたのが見つかったの」

「団地近く?」

 

 島崎は違和感を覚えた。

 コンビニに行ったとすれば、井守の家から最も近いのは地下鉄駅前のコンビニだ。そこは国道に面した広い道で、井守の家からはほぼ一直線上にある。つまり、コンビニに行くつもりなら団地近くの裏路地などに入る必要はない。

 どうして──井守は夜遅くにそんな場所に行った?

 そこだけがわからなかった。

 

「お医者様が言うには、少なくとも四人以上の武器を持った人間に囲まれてやられた傷だって……腕と足首が折れてて、肋骨にもひびが入ってるみたいなの」

 

 惨い。

 惨過ぎる。

 島崎は俯いた。

 

「栄ちゃん、何か知らない? 優生がトラブルに巻き込まれてたとか……親友の栄ちゃんになら優生も──」

「すいません」

 

 井守の母親の言葉を遮って、島崎は呟いた。

 

「僕は……僕は、何も知りません」

 

 井守の母親は目を見開いて数秒間島崎を見つめたが、やがて顔を伏せて、そう、とだけ言った。

 

「学校があるので、もう行きます。放課後にまた来ますから」

 

 一目でわかるほどに落胆してしまった様子をまともに見ることすらできず、島崎はそう言い残して病室を出た。引き戸を閉め、取っ手に手をかけた姿勢のまま廊下に立ちつくす。

 汗が一筋、頬を流れた。

 

 無論、心当たりがないというのは嘘だった──島崎には、襲撃者の正体はおおよそ当たりがついていた。

 二日前、井守と揉めた不良。十中八九、井守を襲ったのは奴らだろう。あんな形で揉め事を起こした井守がそのまま平穏に過ごせるはずがない。自分達が有利になる不意打ちという方法で、奴らは井守に復讐したのだ。

 その心当たりをあの場で話せば、とりあえず井守の母親は安心したかもしれない。相手がヤクザや犯罪者ではなく単なる高校生で──さらに襲われた原因が井守の正義感ゆえだと知れば、心労は少なからず軽減されるだろう。そして運が良ければ現場から何か遺留品を──襲撃と奴らを結びつける証拠を見つけられるかもしれない。

 しかし、それはそこで終わりだ。

 奴らは未成年という鎧に守られて、表向き反省したような顔をするだけでなんでもなかったように社会に戻ってくるだろう。そして次に狙われるのは密告屋──島崎と、そもそもの原因であるあの二年生の二人組だろう。二度目となれば証拠を残さないように動くこともできる。奴らは大した被害もなく学校にのさばり続け、声を上げた井守や島崎が泣きを見る。

 そこまでの道が──行き止まりに突き当たる道が、容易に見えた。

 だから無理だ。

 だから──島崎は正攻法を捨てたのだ。

 

 誰にも情報は漏らさない。自分一人で調べ、探し、奴らに復讐する。

 井守はその胆力──勢いの激しさのみで、奴らを遠ざけた。自分に自信を持っていない島崎にはそれはできないが、何か他の手段があるはずだと考えていた。力のない者でも敵をやりこめる方法が、どこかにあるはずだと確信していた。

 島崎はゆっくりと歩き始める。今から急いでも、もう一時間目の始まりには間に合わないことは明白だった。

 階段を降りる。

 一段一段降りて行くうちに、ふっと暗くなった。踊り場の窓から差し込む光が丁度島崎のいるあたりに影を作ったのだ。

 その瞬間、心が冷える。足が止まり、井守の姿が脳裏に浮かんだ。

 失敗すれば、同じようになる。

 闇夜の中。

 武器を持った男に囲まれ。

 理不尽な暴力になす術もなく気を失い。

 襤褸布のようになって地に這いつくばり。

 それでも奴らは──笑うのだろう。

 残酷で下卑た顔をして、嘲りの笑い声を上げるのだ──

 

「────っ」

 

 我に返った。

 改めて自分がいかに臆病者かを認識する。

 いかに井守に頼ってきたか、確認する。

 ──でも。

 島崎は再び階段を降り始めた。

 自分を鼓舞するように、力強く足を踏み出す。何度も何度も、リノリウムの床を踏みつけて歩いた。

 ──井守のベッドの枕元に据えられた小さな台に、井守のバッグが置かれていた。

 半開きになったバッグからは、コピー用紙がのぞいていた。

 

「僕のせいだ」

 

 島崎は小さく呟く。

 二日前、連れ立って学食に行く途中──井守は確かに言ったのだ。

 

『ノートコピーしといてやるよ』

 

 そう──コピーだ。

 島崎が取り忘れた、あの日の授業のノートのコピー。

 井守は、島崎のために外出したのだ。コンビニでコピーを取り、その帰路に襲われた。

 あの場で断っていれば、こんな惨劇は起きなかった。島崎はそう考えている。

 

「井守がああなったのは僕のせいだ」

 

 歩調が早まる。

 

「だから──」

 

 ほとんど走るようにして、病院を出た。

 

「僕が復讐する。井守の代わりに」

 

 

 

 約二十分後、島崎は事件が起きたと思われる場所──団地近くの路地裏に来ていた。

 狭くて大通りからは見えにくく、夜には人気がなくなる。闇討ちにはもってこいの場所である。

 

「どうして井守はこんな所を通ったんだろう?」

 

 コンビニに行くのなら、わざわざこんな遠回りをする必要はないはずなのだ。

 何かこっちに用があったのだろうか──とそこまで考えて、島崎は一つの可能性に思い至った。

 

「もしかしたら、コピーは昨日の外出よりも前にすでに取っていて──昨日は別の用事で外出したのか?」

 

 しかし、別の目的があったのならわざわざコンビニに行くなどと言って家を出るだろうか? 仮に親に言えないような用だったとしても、それでは自ら時間制限を設けてしまうようなものである。

 大して時間がかからないと踏んでいたのならそれもあるかもしれないが──

 

「ううん」

 

 コンビニに行ったか、行かないか。

 考えるのが面倒臭くなって、島崎は行動を起こすことに決めた。

 

 島崎の頭に浮かんだ問いは、存外に簡単に解決された。

 コンビニで尋ねてみたところ、幸運にもレジをしていた店員は同じだったようで、午後七時ごろに井守が来たことが裏付けられたのである。

 それでは──やはり、どうしてあの道を通ったのかという疑問が出てくる。

 島崎は黙考しながらコンビニを出る。

 

「えっ──」

 

 不意に、脇の道の様子に気付いて足を止めた。

 警察官だ。

 何かを片づけている──よく見ると、工事現場によくある「工事中」と書かれた黄色と黒の立て看板とブルーシートが、道の脇に置かれていた。

 こんな所で工事があったという話は聞かない。それに、歩道にも塀にも工事の痕跡は見られなかった。そもそも、工事が終わって道具をそのまま放置していくような業者はいないだろう。

 

「──そう、そうか」

 

 島崎はおぼろげに理解した。

 おそらく昨日の晩──歩道はこれらで塞がれていたのだろう。ブルーシートで覆われ、立て看板が立てられ。

 井守はそれを見て脇道に入った。団地近くの裏路地に続く回り道である。

 コピーができていた所から見るに、奴らは少し離れたところにいたのだろう。井守が脇道に入るのを見届けてそれに続き、コンビニから出てくる井守の前に立ちふさがった。

 そして惨劇が起こった。

 

「そういうことだったのか──確かにあの道は奴らにとっちゃ不便だ。広いし人通りもあるし──」

 

「交番が近くにある」

 

 耳を疑った。島崎が言うはずの言葉を──先取りされた。

 振り返ると、背後には見知らぬ少女が立っていた。

 島崎の通う陽陵学園の制服を着ている──足を揃え、背筋を伸ばして立っているので、華奢な体型も相まって一本の杭のように見えた。風が吹けば倒れてしまいそうな、たおやかな立ち姿である。

 亜麻色の髪は肩に届くほどの長さで、風にさわさわと揺れている。

 肌は抜けるように白い。彫りの浅い端正な顔立ちによく合っている。

 鼻と口は小さいが瞳は大きく、濃く深い焦茶の色彩が落ち着いた雰囲気を醸し出している。

 美しい──けれど、何か背筋が寒くなるようなものを内に含んだ美しさだと島崎は思った。

 

「誰、ですか?」

「おはよう、島崎君。はじめまして──先週引っ越してきた、連上千洋つらがみちひろと言います」

 

 少女は微笑んだ。

 

「転校生? ……どうして僕の名前を?」

「井守君から聞いてたんだよ」

 

 連上千洋と名乗ったその少女は、まるで男のように快活に話す。

 

「私も井守君のお見舞いに行ってきたんだ。君とはすれ違いになったみたいだね、階段で見かけたよ」

「そう──なんだ。僕は島崎栄一。よろしく、連上さん」

 

 連上は島崎をじっと見つめた。

 

「島崎君、君は──」

 

 大樹の幹を思わせる老獪な色の瞳が、わずかに揺れる。

 

「どこまで知っているんだ?」

 

 島崎はどきりとした。

 眼前のこの少女は、井守の巻き込まれたことについて何か知っているのだろうか。

 

「井守君の姿は、そりゃあ酷いものだったよねえ。あれは喧嘩でできる傷じゃない、どう見ても一方的なリンチのそれだよ──どうやら彼は何かのトラブルに巻き込まれたようだ。君もそう思うかい、島崎君?」

「ああ、そうみたいだね」

 

 連上の瞳がまた揺れる。

 笑っているのだ、と島崎は気付いた。上辺だけの微笑みとは違う、肚の底からの感情だ。

 

「みたいだね、だって? とぼけなくたっていいじゃないか──君は犯人を知ってる。そして復讐する気なんだろう?」

「なっ……」

 

 島崎は驚愕した。

 たった今会ったばかりの少女に──見抜かれている。

 

「そんな、違う! 違うよ、僕はただ──」

「いいって、隠さなくても。誰にも言いやしないよ」

 

 慌てる島崎に、連上は鷹揚に応じた。

 

「できることならあたしも手伝いたいくらいだからね。でも今はちょっと事情があって無理なんだ」

 

 手伝いたい? この少女は井守とどういう関係なんだ?

 今は無理とは? 事情とは一体どんな事情だ?

 連上の言葉のすべてが島崎を幻惑していた。島崎には連上の真意が何一つ読めない。

 

「一つだけ、情報をあげるよ」

 

 混乱する島崎を落ち着かせるように、ゆっくりとトーンを抑えて連上は言った。

 

「君は今悩んでいるね? 見る限り、君は特別腕っぷしに自信があるわけでもなさそうだし──暴漢共を相手にまともに渡り合えるかどうか、その点が不安なんだろう? 安心していい、突破口はあるよ」

 

 そこで連上は一旦言葉を切った。

 雲で日が陰り、連上の顔に影を落とした。

 

「そしてそれは、案外そこらに転がっていたりするものさ」

「どういう──ことなんだ?」

 

 連上はくるりと体を反転させ、島崎に背を向けた。

 セミロングの髪がふわりとなびいた。

 

「確信があるわけじゃないが──陽陵学園には闇がある」

「闇?」

「そう──それを掴むには危険を冒す必要があるだろうね。だが、首尾よくその闇を把握することができればどうなるか」

 

 連上は首を捻って横顔だけを島崎に向けた。

 

「それは君にとって、最大の武器となるはずだよ」

 

 それだけを言うと連上は歩き出し、じきに角を曲がっていった。見えなくなる瞬間、右手を上げてわずかに別れの挨拶の意を示した。細い指が男のような物腰と対照的で、なんだか奇妙だった。

 取り残されたような気持ちになって、島崎もすぐに歩き出す。もうこの場所にいる必要はなかった。

 連上の言葉はほとんど意味がわからなかったが、それでも島崎に指針を与えてくれたのだ。

 力のない者でも奴らと渡り合える突破口──それが陽陵学園の闇とやらに繋がっていると言うのなら、それは何らかの秘密に違いない。島崎はそう考えていた。確かに相手を平伏させるのにはもってこいの武器だ。

 連上が何者なのかわかっていない今、その情報を鵜呑みにしていいのかどうかは疑問だが──彼女の話を信じるにしろ信じないにしろ、どっちみち情報が必要なことは確かだった。何しろ島崎はまだ井守と揉めていた不良達の名前すら知らないのである。

 まずは情報集め──

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