1-1 島崎と井守
「──はっ」
がくり、と。
顔を支えていた肘が落ち、
いつの間にか、頬杖を突く姿勢で眠りについていたらしい。
大きく伸びをしたい衝動に駆られたが、授業中ではそうもいかなかった。正面に見える教壇では、黒板に記された数式を示しながら教師が何やら解説している。
五月の日差しは厳しすぎず、また弱すぎない適度な温かさをゆるゆると教室に満たし、退屈な授業も手伝って抗しがたい眠気を誘う。しかし退屈というなら、高校生活自体がそうでもあった。
先月──この陽陵学園高等学校の入学式に参列した時には、希望に胸を膨らませていたような気がする。
たかだか一か月でどうしてここまで意欲を失ってしまったのだろうか。それは緊張から必要以上に肩肘を張っていた反動という側面もあったのかもしれないが、多くは自分自身の性質によるものなのだろう、と島崎は考える。
いつだって島崎は本気になれない。最初こそ意気込んで目標を立てたりするものの、すぐに気力が萎えてやる気を失ってしまう。持続力がないのだ。
高校生活においてもその悪癖は何一つ変わらなかった。
しかしそれは、逆に言えば何一つ本気で取り組まずともなんとなくこなしていけているということで──高校生活そのものに張り合いが感じられないという所もある。
まあ、平和の証でもあるのだが。
間の抜けたチャイムの音が響き、授業が終わった。
椅子を引いて立ち上がる。
「────っ」
突然の衝撃に呼吸が止まり、島崎は体をのけぞらせて二三歩よろめいた。
なんの前触れも予告も無く、背中を思いっきり平手で叩かれた。
振り返らなくてもわかる。こんな馴れ馴れしい行動を当然のようにしてくる奴は一人しかいない。
「よお栄一、暗い顔してどしたよ!」
声を聞いて確信はさらに強固になった。
振り返りざまに島崎は怒鳴る。
「うるせえ井守、いちいち叩くな! 叫ぶな!」
「お前も叫んでるじゃんか。飯食いに行こうぜ」
「まだ黒板写してないし」
「もう消されたぞ」
「……あ」
「何ぼうっとしてたんだよ。ま、俺のノートコピーしといてやるよ」
声の主──
島崎と井守は幼稚園の頃からの腐れ縁である。今は高校一年生だから、かれこれ十一年も一緒にいることになる。そこまで付き合っていながら、島崎は未だに井守の底抜けな陽気さや能天気な馴れ馴れしさに順応していない。
「栄一さあ、いいかげん入る部活決めた?」
廊下を歩きながら、井守が訊いてきた。
「ああいや、特に興味を引くようなのがなくてさ。僕は帰宅部でいいや」
「えー? おいおい、高校生たるもの部活を満喫しなきゃウソだろ」
「心配しなくてもサッカー部には入らないから安心しろよ」
井守はサッカー部の新入部員の中で頭角を現しつつあるらしい。
入りたい部活がないと島崎が言えば勧誘を始めるのはおせっかいな井守の性格からして目に見えていたので、運動音痴の島崎は先回りして断る。案の定、井守はつまらなさそうな顔をした。
なんとなく手持ちぶさたになって、島崎は窓の外を見る。
ここは一階で、すぐ外は中庭である。
人影が見えた。
「──ん」
「どうした?」
井守が同じ風景を見やり、眉をひそめた。
中庭では、金髪と茶髪の男が荒々しい声を上げていた。どちらも詰襟のボタンを閉めずに派手なシャツを誇示するようにしていて、一目で素行の悪い生徒だとわかる。彼等の足下にうずくまっているのは、小柄な二人の男子。どちらもおとなしそうな外見で、今は完全に怯えきった様子である。制服は砂で真白になっていて、一方は鼻血を出している。
要するに、典型的な不良に絡まれている図だった。
「中庭の真ん中でよくやるよな。ああいうのは大体校舎裏って決まって──」
そこまで言って、島崎は隣に井守がいないことに気付いた。周りを見回すと、背後の渡り廊下から中庭に出て行くところだった。
思わず、溜息が漏れる。
井守はいつもこの調子だ。
一人で先に食堂に行こうかとしばし逡巡したが、後で文句を言われるのも厄介なので待っていることにした。
携帯を開いて無意味に操作する。この場でただ待っていて不良に井守の仲間だと認識されたくないので、携帯をいじっている部外者を装っているつもりである。
「あのー、もうそれくらいで勘弁してもらえないっスかねー?」
井守がへらへらと笑いながら不良に近づいて行った。
「あ? なんだテメェ。こいつらの知り合いかよ」
茶髪の男がむっとして振り向き、井守をじろじろと見る。
「いえ、全然知らないっすけど。弱い者いじめは見過ごせない性分でね」
井守の返答に、島崎は内心で頭を抱えた。いくらなんでもその言い方はない──お前らは悪人だ、と言っているも同然である。
当然と言うか、不良二人組は鋭い視線で井守を刺した。
「んだコラ! 調子乗ってんじゃねえぞ!」
「恰好付けやがって、バカじゃねえのか!」
「──優しく言ってるうちに、退散しとけよ」
井守がそれまでとはうってかわって剣呑な口調になった。
そして二人は少しうろたえる──井守は島崎に背を向ける形で不良と対峙しているので見えなかったが、おそらく井守は彼らを睨みつけているのだろう。
不良は黙った。
井守も黙している。
そのまま五秒ほどが過ぎ、沈黙を破ったのは金髪の男の方だった。
「うぜェ奴だっ──」
身を翻し、校舎裏の方へ歩いて行く。
茶髪の方も舌打ちをして金髪の後を追った。
どうやら危険は去ったようだと判断し、島崎は携帯を閉じて井守のもとへ向かう。
「あ、ありがとう。助けてくれて」
鼻血を出している男子が立ち上がり、井守に礼を述べていた。彼は上履きを履いている──その爪先のゴムの色から彼が二年だということがわかった。もう一人の方も大事ないようで、安堵の表情を浮かべている。
「いえいえ。それより、あいつら一体何なんすか?」
「テコンドー部の奴らだよ。なんだか知らないけど、部室の前を通ったら言いがかりをつけてきて」
「ああ、あそこはガラの悪いのばっかりですもんねえ。まあ、野良犬に噛まれたと思って気にしないことですよ」
島崎は、にこにこと笑って受け答えている井守の背中を小突いた。このお人よしが何人助けようが一向に構わないが、そのせいで昼食を食べ損ねるのは御免だった。
「おい井守、そろそろ行こうぜ」
「あ、そうだな。じゃあ俺はこれで」
「うん。本当にどうもありがとう」
島崎は井守の危なげな無鉄砲さや場を乱しかねない率直さを肯定する気にはなれないし、直すべきだとも思う。しかし彼の中心にある行動原理──弱い者を助けるという単純で誠実な意思は認めていた。
その一点を尊敬していたからこそ、破綻なく十一年もやってこれたのだと思う。
井守がその美徳ゆえに底なし沼に溺れたのは、それからわずか二日後のことだった。
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