刑事、殺人者

緑茶

刑事、殺人者

 ある時、シュレディンガー刑事は、長年追っていた連続殺人犯オッペンハイマーをついにとらえた。

 彼は逃げ出したが、地下にあるシェルターに追い込まれた。シュレディンガーもそこに入っていった。


 薄暗く、灰色の部屋の中で、刑事は人殺しに銃口を突きつけた。


「世界中が戦争をしていて、ここでも毎日何千人と死んでいるのに。どうして僕だけを追いかけるんだい……」

「それが仕事だからだ」

「仕事、仕事。あんたらはそればかりだ。そんなので、人間と言えるのかね。感情の赴くままに生きることが本質じゃあないかね」

「そんなもんはいらん。その結果がお前らなら、俺はそれを否定するよ」

「は、は、は。他の連中と僕を一緒にしてほしくないね。僕は他と違う。僕は人間を愛している。どうだね、君も僕に愛されてくれないか。そうだな、この部屋なら、君のことをもっと知ることが出来る。そうすれば君も本当の自分を……」

「ふざけるな」


 シュレディンガー刑事は説明不能な怒りに苛まれて、そのままトリガーを引こうとした。

 そのとき、オッペンハイマーの口の端がにやりと曲がり。


 同時に、強い振動が密室を激しく揺らし、視界が明滅し、暗転した。


 どれほど長い時間が経過したことだろう。

 シュレディンガーは起き上がった。オッペンハイマーもそれに続き、身を起こした。


「どうなってる」


 部屋にはラジオと小さなコンピュータがあるだけだった。

 さきほどの振動に嫌な予感をかんじながら、ラジオのつまみをひねる。

 雑音しか流れない。ゾッとしてコンピュータをつけて、現状を確かめる。

 ……シュレディンガーは頭を抱え、なかばやけっぱちな気持ちになって、シェルターの重い鉄扉をあけた。


 外に広がっているのは、荒涼たる光景だった。

 およそビルといえるものは軒並み崩れて、内部の骨組みをむき出しにしている。

 アスファルトは剥がれて地肌を露出し、看板や標識などは折れ曲がり、溶けていた。

 それらをまとめて、吹きすさぶ黄土色の風がさらっていく。

 なにもない。あるのは、時折ひらひらと飛んでいく紙片やゴミだけ。


 シュレディンガーは膝から崩れ落ちる。

 その後ろからオッペンハイマーがやってきて、彼の肩に馴れ馴れしく手をおいた。

 その行動を咎めるものは、もはや本人以外にはいないだろう。


 なぜなら。僅かな情報でさえも、雄弁に語っていた。

 さきほどの衝撃が起きた時、この地上で核戦争が始まり、終わって。

 誰も彼もが、消えてなくなったのだ。



 果てのない無窮の荒野を、歩く、歩く。

 目的はと言えば、これが出てこない。シュレディンガーははやくオッペンハイマーを捕まえるべきなのだが、どういうわけかその行動は抑制されていた。

 もしかしたら同僚を探しているのかもしれない。行動に出るのはそれからでも遅くはない。刑事はそう独り合点した。


「誰も居ないなあ。本当に、たちどころに、誰も彼も死んでしまったのかもしれないぜ」

「……」

「そうなれば、僕ら二人だけだ。行動するのも判断するのも、僕をのぞけば、あんただけだ。あんたは刑事だろう、どうするんだ」

「お前を捕まえる。そして」

「そしてどうする。殺すのか。それもいいだろうな。だって僕が憎いはずだものな。私刑をくだしたって、誰も咎めないんじゃあないか」

「俺は。そんなことはしない……」

「なぜ」

「俺は……刑事だからだ。憎しみに動かされたりはしない。俺がお前を殺すとしたら、それは仕事としてだ。

そしてその判断をくだすのは……俺なんかじゃない」

「へえ」


 オッペンハイマーはにやにやと笑っている。

 そんな彼の顔を見ないようにしながら、目的地さえなく、歩く、歩く。


 一切合財が滅び去った世界。赤茶けた大地はまるで、巨大な人間の臓腑がむき出しになっているかのようで、じりじりと照りつける太陽とあいまって、まるで自分が巨大な何かに呑み込まれていくような感覚を刑事は感じる。

 ……なるものか、負けてなるものか。自分に言い聞かせながら、彼は歩いた。ポケットの下で、銃をぎゅっと握りながら。



 だが、時間と空間が無限に引き伸ばされたなかにあって、その決意も徐々に薄れていくのを感じる。

 果てしない飢えと乾きが、刑事の良識をかき乱すのだ。

 そんななか、蜃気楼のように霞むオッペンハイマーの姿を見ると……そこに銃口を突きつけて、何もかもを終わらせたいという衝動にかられる。

 ――いい加減に認めろ。お前はこいつが憎い。それさえ認めれば、お前はこいつを殺して、全部奪って、自分だけ生き残れる。

 駄目だ、駄目だ……彼は叫んだ。

 そのたび、人殺しはこちらを見て笑う。

 見ないようにする、歩く、歩く。

 そんな行動を、繰り返して、一体どれほど経っただろうか。


 彼は、かすれる視界の中に、ひとり斃れている男をみつけた。

 駆け寄ると、その男はまだ生きているようだった。

 ……食糧と水の入った雑嚢を身につけている。

 シュレディンガーは喉を鳴らした。

 しかし、強烈な自己抑制を働かせて、その衝動を飲み込む。そして、彼にその水を与えてやり、身体を起こしてやる。


「た、助けてくれ……」

「助ける、助けるとも。その前に教えてくれ。他に生き残ってる人はいるのか」

「いない。みんな、死んだ。もう、誰も……」


 シュレディンガーは首を振った。

 この男はもう……長くはないだろう。そうなれば、また自分たちだけになる。

 ――そうなれば。『裁定者』がいなくなる。

 そうなれば、そうなれば、自分は、自分の職務は……。


「なあ。そいつ、殺しちまえよ。そうして背負ってるものを奪っちゃえばいい。僕たちはいきのこれるぜ」

「バカを言うな……」


 また、かき乱す言葉が聞こえてくる。

 それはオッペンハイマーのはずだった。

 しかし、朦朧とする頭の中で、徐々に自分の声であるように聞こえてくる。


「理由を探してるんだ、あんたは。刑事だから。この男が死にかけてる守るべき市民だから。色々はりつけて、必死におさえてる。だけどそいつがなくなれば、あんたが取る行動はひとつしかない。違うか」

「違う……違う!」

「違わないね。見ろよ、これ」


 するとオッペンハイマーは、おもむろに男の上着を引き剥がした。


「お前、何を」


 それから、男のズボンのポケットをまさぐって、なにか身分証のようなものを取り出した。

 彼は二つを見比べた後、刑事に向けて、ぞっとするような笑みを浮かべた。

 それは道化師の笑みだった。


「これ、分かるかい……名前が違うんだぜ」


 聞かないようにするのは、きっと簡単なはずだった。

 しかし、シュレディンガーは見てしまった。



 きっとどこかで、その瞬間を待っていたのだと思う。

 ただ、きっかけが欲しかっただけなのだ。



 男の服に刻まれた刺繍と、身分証に記載された名前は、違うものだった。


「……」

「なあ。こいつがどっちの名前であっても、答えは一つだろ……こいつは他人から何かを奪ってここまで逃げてきた。奪われたやつは、もう生きちゃいないだろうなあ」

「ああ、ああ……」


 ぐにゃりと視界が曲がる。回転する。太陽が渦を巻く。

 その瞬間、一瞬のわずかな時間が引き伸ばされ、彼に無限の葛藤の時間を与えた。

 刑事はその中に完全に落ち込んで頭をかかえた。

 彼を苛むのは、職務をまっとうする自分と、もうひとつ。

 どうしようもなく、生きようとする自分。その二つのぶつかりあいだった。

 自分が自分であるためには、どちらかを捨てなければならない。

 ――そして。自分が、この先も生きていくためには。


「おい、貴様」


 男が呻く。


「貴様は重罪を犯した。自分だけが生き残ろうとしていた。俺は刑事だ。その行いを許すわけにはいかない」


 誰が喋っているのだろうと考えた。

 ヘッドホンをしたまま、違う人間の声を聞いているような感じだった。


「だからこれは、俺が貰い受ける。押収する。貴様のものではない」


 男の雑嚢をひったくって背中に背負うと、その場を逃げるように離れていく。

 伸ばされた手が、背中に届くような気がして、彼は急いだ。

 オッペンハイマーの笑い声が、心底愉快そうな笑い声が自分にはりついてくる。

 そこにきて刑事は、さきほどの声が、自分のものであることに気付いた。



「やってしまったなあ、刑事さん」

「あいつは罪を犯した……俺以外に警察の人間は居ない。しょうがなかった」


 本当にそうか。


「本当にそうか?」


 ――違う。


「違うだろう。いいか、僕は今から、あんたの矛盾を突いてやるぞ」


「聞こえない」


 オッペンハイマーが、シュレディンガーを引き倒して、その上にのしかかる。

 その耳に、囁きかける。


「きーけーよ……ばかが。あのな、刑事ってのは。そんなことしないんじゃなかったか、いいか」


 みみをふさげない。


「あんたが本当にやつを裁きたいなら……ここまで一緒に、僕らと一緒に歩かせるべきだった。あんたはそれをしなかった。つまりだ、分かるかい」


 声が聞こえてくる。

 直接耳に届く。

 誰の声だ。

 俺の声じゃない。こいつの声だ。殺人者。イカれたサイコ野郎。


「あんたは……自分の感情に、衝動に従ったんだ……あんたは私情で動いたのさ……生き残りたいという私情でな」


 ――違う。

 これは俺の声だ。

 だけど、こんな俺は認められない。

 なぜなら俺は刑事だから。他の俺はいない。

 俺はひとつだけだ……だからこの声を、いますぐ消し去らなければいけない。


「もう、見張りは居ないんだぜ……さぁ、あんたも自由に生きるときが来たんだ。そうなれば。そうなれば、俺と――」


 銃声。

 シュレディンガーは、オッペンハイマーを撃った。

 全身から湧き出てくる果てのない怒りを込めて、最大限の感情を発露させて。

 刑事は、殺し屋を、殺すつもりで、撃ったのだった。



 血溜まりのなかに、オッペンハイマーが斃れている。

 彼はごぼごぼと血を吐きながらも、笑っていた。おかしくてたまらないようだった。

 ……シュレディンガーは、そんな彼をみおろしている。


「ははは……そうだ、そうしてくれたのが嬉しかったんだ。僕はずっと、こうなることを望んでた。なぜなら僕はずっと、あんたの中に眠ってるものに気付いてた。それを引き出せないものかと思ってた。いま、願いがかなったんだ。僕はようやく、あんたを愛することが出来る……」


 オッペンハイマーが、こちらに向けて腕を向けてきた。

 シュレディンガーはその顔に向けて、三発続けて銃を撃った。

 身体がびくんと痙攣して、今度こそ完全に動けなくなった。


「……」


 砕けた顔が、笑っているような表情を作り出しているように見えた。

 シュレディンガーはその横に腰掛けて、それから少し悩んだ後、同じ恰好で仰向けに寝転んでみることにした。


「……くくっ」


 なぜだか、急に色々なことが楽になった気がした。

 本当に愉快だった。自分は今まで、何を悩んでいたのだろうか。

 彼は大笑いした。これまで一度も経験したことのない、心の底からの笑いだった。

 隣で、オッペンハイマーが一緒に笑ってくれているような気がした。



 時間が過ぎて過ぎて、一人の男が立ち上がる。

 彼は全身を覆っていた不快な衣服をすべて脱ぎ捨てると、かばんに詰め込まれていた食糧と水をむさぼった。

 そして、更に先へ進むことを考えた。

 きっとまだ、糧はあるはずだ。それを探そう、生きるために。

 まもなく男は、獣のような咆哮を上げながら、その場を走り去っていった。



 その先のゆくえは、誰も知ることはない。

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刑事、殺人者 緑茶 @wangd1

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