第11話 白姫

 2月になり、結果発表が済んだ。

 しばらくの間、教室では生徒たちの様々な悲喜こもごもが披露されたが、ようやく日常の落ち着きを取り戻しつつあった。

 菜穂も樹も、無事に希望大学への進学が決まった。

 後は、卒業を残すのみである。

 その日も連れだって帰宅しようとしていた二人だったが、樹が他クラスの男子生徒に呼び出された。

 樹に待っていてほしいと言われたので、菜穂は一人、人気のない教室で座っていた。

 頬杖をついて、窓の外をぼんやりと眺めていると、樹が戻ってきた。

「なんだったの、用事」

 菜穂が何気なくを装って聞いた。

 樹が若干頬を赤らめている。

「告白…された」

「やっぱりね、そうだと思った」

 菜穂は立ち上がり、帰り支度を始めた。

「で、どうするの。付き合うの?」

「まだ返事してない」

 菜穂は鞄をとり、

「じゃ、わたし帰るね。樹はどうする?」

「え?…も、もちろん一緒に帰るよ」

「その人と一緒に帰らなくていいの?」

「そんな、まだ付き合うかどうかも分からないのに。今日のところは先に帰ってもらったよ」

 ……今日のところは。

 菜穂は、胸の辺りが痛むのを感じた。


 確かに、久しぶりに皆の前に現れた樹は雰囲気や見た目が変化していた。

 ずっとショートヘアだったのが肩まで伸びていたし、陸上で鍛えまくっていた体は少しふっくらして、女らしくなっていた。

 態度も以前のように男勝りで自信たっぷりというわけでもなく、明るく穏やかな話し方をするようになっていた。

 クラスの男子達も、樹のことを意識しているのが分かった。

 帰り道、二人はそれぞれにもの思いにふけり、会話も途切れがちだった。

 外は気温がかなり低く、鼻先が冷たい。

 コートにマフラーにと着込んでいても、身震いするほどだった。

 その日から数日、菜穂は何となく樹と距離を置いた。

 はっきりとした理由なんて分からない。

 学校からの帰りも、理由をつけて、樹とは別の道を行った。

 樹は菜穂の微妙な態度の変化に戸惑っているようだったが、何も言わなかった。


 樹が告白を断ったと聞いたのは、翌週のことだった。

 その日の下校時、樹は、「菜穂、一緒に帰ろう」といつになく強い調子で菜穂に言い、菜穂も気おされて後ろを黙って歩いていた。

 告白を断ったと聞いて、理由をたずねた菜穂に、

「だってよく彼のことよく知らないし」

 照れたように苦笑いする樹を見て、菜穂は心の底から安堵した。

 そしてその刹那、菜穂は己の気持ちをはっきり自覚したのである。


 あの時自覚した自分の感情と同時に襲ってきた胸の痛みを、未だに菜穂は覚えている。

 披露宴会場に感動的なバラードの洋楽が鳴り響き、照明が落とされ、暗くなった。

 菜穂ははっと我に返り、顔を上げた。

 いつの間にか二人の映像も終わっていた。


 樹の、最も輝かしい青春の一コマである陸上選手時代の写真が、なかった。

 それはつまり、彼女にとってその記憶が、未だに懐かしい思い出として完結していないからなのではないか。

 考えすぎだろうか。

 高校を卒業してからの樹は、少なくとも菜穂に陸上への思いを語ることもなかったし、走りたそうな気配も見せていなかった。

 それとももう、思い出として語るよりも遠い記憶の彼方に行ってしまった?

 あんなに熱心に練習していたのに、そんなことがあるだろうか。

 菜穂の脳裏に、夕映えのグラウンドを走る樹の姿が浮かんだ。

 他の生徒たちがもう練習を切り上げて帰る中、彼女はいつまでもひとりで走っていた。

 どうして自分がそんなことを覚えているんだろう、と思った。

 そうだった。

 図書室の窓から、見ていたんだ。

 彼女の姿を。

 ひとけのない静かな図書室で、窓際の机に教科書とノートを広げて。

 気づくと校庭を眺めていた。

 いつしか、彼女の姿を追っていた。

 視線をまっすぐ前に向けて、走っていた。

 すべて、懐かしい思い出か。

 陸上のことも、樹の部屋で過ごした時間も、冬の日、ふたりで帰った日々のことも。


 菜穂はふっと小さく息を吐いて、飲み残しのグラスを空けた。

 お色直しをすませた二人が、厳かに広間に入場してきた。

 樹はさわやかなパステルブルーのドレスを着ている。

 胸のあたりの白糸の刺繍が華やかだった。

 この日のために伸ばし続けた髪の毛をアップにし、後れ毛を垂らしている。

 長身の新郎は光沢のあるネイビーのスーツ。

 二人とも幸せの絶頂という表情で周囲にキャンドルサービスをしている。

 菜穂は二人がゆっくり進んでいくのを眺めていた。

 会場には、感動のあまりハンカチを目に当てている女性たちが何人もいたが、皆一様に笑顔を見せている。

 菜穂の頬もいつしか濡れて光っていた。

 だけどただ一人、どうしても笑顔を作れずにいた。

 辺りが暗くてよかった、と思う。

 キャンドルの炎のゆらめきが、滲んでぼやけていき、そのうち輪郭もなくなっていった。

  

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