第10話 盛冬
3学期が始まった。
クラスの雰囲気はもう殺伐としていて、悲壮な空気が漂っていた。
自宅学習のためか、欠席している生徒も数名いる。
クラスにいる者も、皆一様に机についてもくもくと自習している。
誰もが他の生徒のことなど構ってはいられない。
そんな雰囲気だった教室の時間が、一瞬止まったように静まり返った。
ガラリと教室のドアが開いて、樹が教室に現れたのである。
そのまま戸口で立ち止まり、緊張した面持ちで立っている。
皆、本やノートを手にしたまま、驚いたように見ていた。
「い…樹…?」
仲の良かった友達の一人が立ち上がり、おそるおそる声をかけた。
樹はぎこちなく口の端だけ上げて軽く微笑んでみせた。
それから、教室の隅の、空いている席へ静かに座った。
菜穂も、そんな樹の一挙一動を息をのんで見つめていた。
ほんとに来てくれた…!
始業式の日に見なかったから、やっぱり来ないのかと思っていた。
菜穂は叫びだしたいほど嬉しかったが、表面にはおくびにも出さず、問題集に視線を戻した。
樹の机の周りにはすでに、以前から仲の良かった友人が集まり、口々におかえりなさい、待ってたよ、などと口々に言い合っていた。
放課後になり、皆が帰り支度をする中、菜穂も鞄に教科書などをしまっていると、
「一緒に帰ろうよ、菜穂」
樹が声をかけた。
菜穂が振り向くと、樹が立っている。その後ろには彼女の友人たちが、二人の様子を訝し気に見守っていた。
「え、えっと…それは…ちょっと」
「ダメなの?帰りに寄る所ある?だったらあたしも一緒に行くよ」
「………」
結局、樹に強引に押される形で教室を出た。
樹の友人たちは、付いてこない。
「あ、あの、いいの?…友達とか」
「どうして今日は一回も話しかけてくれなかったの」
菜穂の質問を無視して、並んで廊下に出て歩くなり、樹が言った。
「え…?」
「声かけようとしても、休み時間も問題集とかノートとか、真剣な顔して見てるし」
樹が近づいて来ていたのは、知っていた。
だけどあえて「話しかけないで」オーラを出した。
どうして普通に話せなかったのか。
どうしてためらってしまったのか。
自分でも分からない。
だけど、学校で自分が樹と友達のように振舞うのは違うんじゃないか、と感じていた。
自分が樹の家に通っていたのは、二人の秘密みたいなものだ、と勝手に考えていた。
菜穂が口をつぐんでしまったのを見て、樹が話題を変えた。
「菜穂、言ってたよね。あたしの家に来ること、担任に頼まれたからだって」
「えっ…う、うん」
「先生、驚いてたよ。菜穂がそんなことしてるの知らなかったって」
立ち止まって、じっと菜穂を見る。
菜穂は返す言葉がなかった。
「つまり菜穂があたしの家に来てたのは、あなただけの考えってことだよね?」
なぜか圧を感じて、菜穂は後ずさった。
すぐに背中に壁にあたり、身動きが取れない状態になる。
帰宅する生徒たちの波が去り、いつの間にか廊下にひとけがなくなり、しんと静まり返っていた。
「ねぇ…菜穂」
樹が一歩前に出る。
「どうして誰にも頼まれてないのに、あんなに毎日来てくれたの?」
菜穂は返答できなかった。
樹の顔を真正面からこんなにちゃんと見たことがなかった。
本人はいたって真剣な表情で、じっと菜穂の答えを待っている。
黒目がちの樹の瞳がきれいだ、と感じた瞬間、頬が熱くなった。
何かを言おうとして、開けかけた唇がわずかに震えた。
二人の頭上で、まだ校舎に残っている生徒たちに帰宅をうながす何度目かの鐘がなった。
次の日からも、クラス内で二人は特に会話せず、帰宅時だけ、なぜか誘い合わせたように一緒に帰った。
それが二人のパターンになった。
二人で歩いていても、話題はもっぱら受験のことだった。
樹も、元来頭がいい生徒だっただけに、勉強の遅れを自宅で取り戻し、ぐんぐん成績を上げているようだった。
塾にも通っているらしい。
帰宅の20分ほどの道のりだけが、一緒にいる時間だった。
しかし二人がそろって同じ大学に合格できれば、その後もずっと一緒にいられる。
こんなことを考えて、菜穂は一人で赤面した。
一体何考えてるんだろう。これじゃまるで高校生カップルが一緒に楽しい大学生活送るのを夢見ているみたいだ。
菜穂は昨日の樹の様子を思い出していた。
廊下で、結局何も答えられなかった。
しどろもどろになっていると、樹がいたずらっぽく、にっと笑い、菜穂から身をひいた。
深く追及されずにすんで、よかった…と菜穂は胸をなでおろしたのだった。
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