第9話 冬日和
11月になった。
菜穂や級友たちは来るべき受験シーズンに向けて、本格的に取り組みだした。
それでも、菜穂の樹宅への日参は変わらない。
さすがに樹が言った。
「あの…もう毎日来なくていいよ。受験があるでしょ」
いいの、と菜穂は言い張った。
「受験勉強はちゃんと進んでるから、心配しないで」
「でも…」
「言ったでしょ。わたし級長だから。時々様子を見に行ってやってくれって担任に頼まれてるの。だから気にしないで」
「だけど、いくらなんでもこんなに毎日…」
なんで、そんなにまでしてくれるの?
何度か、樹が尋ねたことがある。
「きゅ、級長としての責任を、全うしているだけだから!」
まるで何か宣言するかのように言ってみたが、さすがに無理がある。
もちろん、本当のことを言えば、学校に来てほしい。
一緒に卒業したい。
また陸上に復活するとか、受験するとかは、彼女の好きにすればいいと思ってる。
だけど、今のままの生活が、彼女にとってためになっているとは思えなかった。
だからせめてこうして毎日授業内容を伝えに来ているわけだが…
どうしてそこまでしてくれるのか、という疑問はいつも樹の中にあるだろう。
級長だからとはいえ、特別親しくもなかった菜穂が、なぜ自分にここまで熱心になってくれるのか?と。
12月も後半になり、終業式を終えたその日も、菜穂は当然のように樹宅を訪れていた。
今週などは学校も午前中で終わるので、授業の数も少ないが、学校からのプリントなどがある。
ひととおり担任からの連絡などを伝えると、もう今日の菜穂の役目は終わった。
「…それじゃ。よい、お年を」
長居する理由も見つからず、あえてさっさと立ち上がって樹の部屋を出ようとした。
「あの…」
樹が意を決したように声をかけた。
「前から言っていたことだけど。もう来なくていいから」
菜穂の表情が固くなった。
樹はあわてて、
「遠慮してるんじゃないの。菜穂の受験が心配なせいもあるけど…」
いつからか、樹が自分のことを名字でなく名前で呼んでくれるようになっていた。
もともと誰に対してもフランクな性格の彼女だった。
菜穂、と樹の口から自然に出てきたときは、それこそ全身が固まってしまった。
体中が熱くなって、何も言えなかったのを覚えている。
対して、菜穂は今でも樹のことを中井さん、と名字で呼んでいた。
名前を呼ぶのはなぜかためらわれた。
しかし今、何も返事できないでいるのは、名前を呼ばれたせいじゃない。
もう来なくていい、と再び拒否されてしまったからだ。
「これを見て」
菜穂の沈んだ気持ちに気づかないまま、樹が机から数冊の本を取り出した。
「あたしもやってるの。受験勉強」
「…え?」
「受験、しようと思って。大学」
しかも、樹が見せた赤本の大学名が。
「ここ…私の志望校…」
菜穂が呆けたように言った。
「うん。ダメかな?倍率上がっちゃう?」
樹がいたずらっぽい表情で菜穂の顔を覗き込んだ。
しかし受験以前に気がかりなことがある。
樹は、無事に卒業できるのだろうか。
「で、でも登校日数とか願書とか…大丈夫なの」
「この間担任の先生とも話したの。3か月ぐらいなら何とか大丈夫だって。それに、診断書もあるから病欠扱いにしてくれるって。3学期からは学校行くつもりだし」
とは言え、年明け早々にセンター試験があるので、学校が始まっても、むしろ他の3年生の生徒たちも学校を休みがちになる。
「それじゃ…」
「うん。ちゃんとやれば、卒業できるし、受験もするつもり」
「出願の締め切りは…間に合ったの?」
樹はこくんと頷いた。
「ギリギリだったから、大急ぎで書類間に合わせたの」
ということは、かなり前からそのつもりだったということだ。
菜穂は自分でも不可解なほど高揚していた。
心臓がドキドキして止まらない。
「実は、前から少しずつやってたんだ」
にっと樹が笑った。
菜穂は言葉が出なかった。
大げさかもしれないが、夢が叶った、と思った。
樹が、学校に来る。
しかも、菜穂と同じ大学を受験すると言っている!
「ど…どうして?なんで急に…?」
一体何が、樹の心境に変化を及ぼしたのか。
「あたし、菜穂に感謝してるの」
一言一言、噛みしめるように樹が言う。
「足のケガで自暴自棄になってたあたしに、根気よく付き合ってくれた。友達も、担任の先生も、うちの母親でさえあたしのこと、はれ物に触るように遠巻きに眺める感じだったのに。あなただけが、あたしのところへずかずか来てくれた。何度も拒否ったのに、しつこく」
そ、それは褒められているのだろうか…?
菜穂が複雑な気持ちで返事に困っていると、
「あたしは、嬉しかったの。あたしはまだ、見捨てられていないって、思えたから。少なくとも一人は、あたしにちゃんと向き合ってくれる人がいるって」
樹が両腕を伸ばして、ゆっくりと菜穂の体を抱きしめた。
ありがとう、と。
樹はそう言ってくれたけど、その瞬間の菜穂は思考停止してしまっていて、いったい自分に何が起こったのか理解できないでいた。
日が陰り、二人の足元の影が伸びた。
二つの影はいつまでも、じっと動かずにいた。
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