第8話 初冬
ほんと、あの頃のわたしはどうかしてた。
他のゲストたちが談笑する中、シャンパンのグラスを揺らしながら、菜穂はひそかにほほ笑んだ。
新郎新婦のお色直しは、もうしばらくかかりそうだった。
途中からもう、半分意地になってたのかも知れない。
わたしも、樹も。
一体何が、あの頃の自分を駆り立てたのか。
使命感?それともやっぱり…恋だった?
当時の自分は何も自覚してやいなかった。
ただ、彼女に会いたい、彼女の状況を何とかしたいというそれだけの気持ちだった。
樹の家に通うようになり一週間ぐらいが過ぎた頃から、菜穂が玄関から帰っていくのを、樹が自室から見ていることに気づいた。
カーテンの影から、樹がこちらを見ている。
菜穂が見上げると、さっとその影が消える。
しかしそれもいつの間にか、樹も、菜穂が見ても逃げなくなった。
カーテンを開けて、口をきゅっと結んだまま、じっと菜穂を見下ろしている。
菜穂も無言で、手だけ小さく振る。
それが二人の挨拶のように、なっていった。
秋も深まり、日が暮れるのも日に日に早くなっていった。
まだ重たいコートは必要ないけれど、そろそろマフラーぐらいは欲しいなと考えていたその日、菜穂は再び樹の部屋に迎え入れられた。
今日も玄関先で帰されるのだろうと思い、すでにノートを出して立っていた菜穂に、母親が上気した顔で、樹が会いたいと言っている、と告げた。
二度目の、樹の部屋に足音を忍ばせて入る。
お邪魔、します…
なぜか低い小さい声で。
前回と同じように、樹はベッドに腰かけて、あぐらをかいていた。
怒ったような表情で、入ってきた菜穂を見た。
「なんで」
樹の短く切り出した。
「なんで毎日来るの。迷惑なんだけど」
これも、と言ってこれまで菜穂が持ってきたノートの束を指さした。
「言ったよね。受験はしないって。わたしには必要ないの」
とっさに菜穂は勉強机に目をやった。
机の上には、シャーペンや消しゴムが転がっており、開かれたノートや教科書が無造作に置いてある。
樹が顔を赤らめて、
「勝手に見ないでよ!」
と立ち上がり、机の前に立ちはだかった。
まだ片足を少し、引きずるようにしている。
「足…まだ痛むの…?」
また怒られるかな、と思いながらも聞いてしまった。
意外にも、樹はうつむいて、小さな声で答えた。
「膝を使いすぎたのよ。前よりはだいぶんマシになった」
一番気になっていたことを、思い切って菜穂は口にした。
「高校、辞めちゃうの…?」
「分からない。もうどうだっていい」
樹は顔を背けた。
菜穂は黙っていた。
樹の腕をとり、座るように無言でうながした。
二人してベッドの縁に腰かける。
うつむいている樹に、静かに言った。
「何があったのか、わたしちっとも知らなくて…」
「そりゃそうよ。松井さん運動部のことなんて、まるで興味なかったでしょ」
「でもあなたのことは気にしてた」
言ってから、なんだかとんでもないことを口にしたような気がして、恥ずかしくなった。
樹も少し驚いたように菜穂を見ている。
「だ、だってほら、あなたは有名な選手だったし、クラスメイトだから」
「だけどあたしと仲の良かった連中は、今は誰も来ないよ。最初だけ」
「でもみんな待ってるよ。あなたが戻ってくるのを」
樹が皮肉めいた顔で笑う。
菜穂はもどかしかった。
焦ってはだめだと分かっていた。だが、このままずるずると時間だけが過ぎゆき、樹の将来がダメになりそうになるのを看過できない。
どうしたら、樹の心は動いてくれる…?
結局その日も、ノートだけ渡して、菜穂は帰った。
次の日から、菜穂はノートを広げて見せながら、樹に授業内容を講義し始めた。
板書だけでは説明不足なところを、伝えた。
それ以外のことには何も触れない。
学校のことも、進路のことも。
ただ、毎日の授業だけを繰り返した。
樹も、ぽつりぽつりと授業内容について質問してくる。
もともと成績はよかったから、二人の勉強ははかどった。
授業の話だけして帰る。時には、テレビや芸能人、流行りものの話なんかも。
いつの間にかそれが、二人の放課後の過ごし方になった。
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