第2話  桜舞う

「もうほとんど片付けちゃったんだね」

 手伝おうかと思ってたんだけど、と樹が小さく呟く。


 一人暮らしなので荷物の量もたかが知れてる。急な引っ越しではあったが、身軽なものだった。

「ほんと、びっくりしちゃったわよ、急に引っ越すって聞いた時には。もう少しこっちにいるんだと思ってた」

「心配しなくても来週まではいるわよ」

 荷物は先に送ってしまうが、その後は寝袋やコンビニで過ごそうと思っていた。

 いけない、と思いながらつっけんどんな言い方をしてしまう。

「ああ…うん」

 樹がはにかんだように目を伏せた。


 もう何度感じたか知れない胸の痛みに気づいて、菜穂は窓のほうへ顔をそむけた。

 まるで借景のように桜の木が見える。

 風がそよ吹くたび、花びらを散らし続けている。


 菜穂の視線を追うように、窓のほうを見た樹がぱっと笑顔になった。

「わぁー!満開だね」

 窓辺に駆け寄り、身を乗り出すように桜を見上げた。

「あぶないよ」

 菜穂もあわてて後を追った。

 実際築年数が古いこのアパートは、ちょっと力を入れたら簡単に窓枠ぐらい外れてしまいそうなほどだった。

 都内の大学に近いというだけで選んだこの古いアパートに、結局社会人になってからも住み続け、菜穂はけっこう愛着があった。


 柔らかな風がそよと吹き、樹の長い髪の毛が揺れた。

 日差しに当たって、普段よりも明るめの茶色に見える。

 薄化粧を施した横顔。


 この姿を独占できるのも、あとわずかなんだな、と菜穂は眺めていた。

 桜の花びらと、彼女の美しい姿と。


 目に焼き付けておこうと思った。


 もうすぐ、彼女は遠いところへいってしまうのだから。

 親友だのなんだのと、ごまかし続けていた自分の隣からもう二度と、手の届かないところへ。


 彼女の左手のくすり指。

 プラチナダイヤモンドの指輪が、春の日差しに反射して輝いていた。

 それはとても希望に満ちていているかのような、彼女の人生の新たな幕開けにふさわしい輝きだった。


 そしてその鮮やかな光が、自分の心を切り刻むのを菜穂は感じていた。


 眩しすぎて、直視できない。

 自分の存在だけが、ひんやりと熱の持たない影になってしまっている。


 こんなあたたかな春の日に。

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