後編
ひとつ、ふたつ、みっつ、
「お前は本当に子どもだな、女と会ったぐらいで」
「別にどれだけ飲んだって俺の金なんだからいいだろ!!」
「女はいいよな、痛い痛いって泣いておけばいいもんな」
「おい、なんで嫌がるんだよ、俺のこと好きならさっさと脱げよ!!」
よっつ、…
彼から与えられて苦しんだこと、泣いたことを指折り数えたら、きりがないことは分かっている。
「世那、本当にごめん。愛してる」
けれど、彼は私の顔を見てそう言ってくれた。
本当に愛しそうに私の頬を撫でて、ゆっくりとそう言ってくれる。
指折り数え残った小指には、シルバーの指輪が光っていた。
『世那へ』
それだけ書かれた小さなカードと、指輪が入っていた箱。
彼の汚い部屋でそれを見つけた時に、私は膝から崩れ落ちて泣いたのだ。クリスマスの、少し前のことだった。
彼が死んだと聞いた日も、私は彼のことを待ち合わせ場所でずっと待っていた。
ドタキャンされることは一回目や二回目じゃなかった。数時間待った末に『忙しかったのかな。帰るね』とだけメッセージを送って、家に帰ってしまった。
彼はスーツ姿のまま部屋で死んでいた。
心臓発作だったらしい。一人暮らしだった彼の死体を発見したのは、次の日に無断欠勤をした彼を心配した会社の同期の人だった。
なんであの日、私は帰ってしまったのだろう。
私が帰ってしまったから彼は死んだのか。
私が家へ行っていたら今頃、彼は…
『世那』
一週間高校を休んだ末に、親や親友に支えられながら高校に行った。
けれどやはり授業を受ける気も起きず、保健室に向かおうと、西校舎から東校舎へとつながれた渡り廊下を歩いている時…声が聞こえた。
その声に導かれるように、私は上履きのまま外へと走り出した。雪が積もっているなんて、どうでも良かった。
東校舎の裏へと走って行った先には、彼が立っていた。
私の大好きな笑顔を浮かべながら、腕を広げてそこにいた。
『世那のせいじゃないよ。本当にごめん。愛してる』
彼の腕の中で、その言葉を聞いた時。
やっぱり好きだ、と心から感じた。
ボロボロと彼の顔が崩れていくのを、私は見ていることしかできなかった。
彼の目は大きく見開かれ、口は何かを叫ぼうとしているようだった。
しかし、彼の声は私には届かなかった。けど何を言いたいのかはなんとなく分かった。『い や だ』 と。そう、口が動いているようだった。
いやだいやだいやだいやだ。
いやだ、いやだ、いやだいやだいやだいやだ!!!!!!
彼はひたすらにそう叫んでいて、その目は私を見ていなかった。
ただ憎しみのこもった目で、真白君を見ていた。
真白君につかみかかろうとしたのか、彼の腕が上がる…しかしそれが届く前に、彼の腕も次第に砂のように小さな破片となって風に乗ってどこかへ行ってしまう。
しにたくない!!!
彼の声が、聞こえた気がした。
それを最後に、彼の姿かたちは全く見えなくなってしまった。
残ったのは私と真白君と、塵のような何かが少し空中を舞っていた。
思っていたよりも、私は彼が消えたことを受け入れることができていた。
涙は私でさえ気づかないほど静かに流れていた。
彼に二度と会えないことはとても辛いし、苦しいし、悲しい。また彼を失ったあの時のような日々が始まるのかもしれない。悲しみは案外、遅れてやってくるものだ。
でも…きっとどこかで、こんな日が来ることは分かっていたんだと思う。
彼が死んだことを知っていたような、知らなかったような…いや、知っていたけれど、後から生きているという錯覚を上塗りしていたのだ。
どれぐらいの間そのまま立ち尽くしていたのだろうか。辺りはもう真っ暗で、ふと我に戻ると真白君と目が合った。
「やっぱり、知っていたんですか。彼が死んでいること」
真白君の言葉に、私は否定も肯定もしなかった。
ただ左手の薬指に残る、シルバーのリングを見ていた。
「彼がここにいることができたのは、あなたの生気を奪っていたからです。
実はこの高校、霊が現れやすい場所なんですよ。彼はそれに気づいたんでしょうね。ここの高校にいれば、自分は生きられるかもしれない、と…
死んだ人間は死んだままだというのに、何を勘違いしたのか」
真白君がそう言った後に、小さく鼻で笑うのが分かった。
「…彼が死んだのを知っていた、とは言い切れない。生きていると思い込んで接していたのも事実だから。
でも、会った後は地面に倒れ込んでいることも多くて…彼と会うことに体に悪影響があるのはなんとなく分かっていて、それでも私は彼に触れることを選んだ。
彼と会えるのなら、それでよかった。彼がそれを望むのなら、そうしたいと思ったの」
「彼はいわゆる”良い彼氏”ではなかったと聞きましたよ。
なのになぜ…彼にそこまで献身をしたのですか。あなたの命が危なかったのですよ」
「そんなの、愛していたからに決まっているじゃない。
私もなんで自分がこんなに彼を愛しているのかは分からない。
酷いことをたくさんされたことを覚えてはいるけれど…私は今でも彼のことを愛してる」
私のことを人は愚かだと笑うだろう。けれど、愛していたその記憶と感情を簡単に消すことなんてできるわけがない。
確かに彼は本当に最期まで、私のことなど心から愛していなかったのかもしれない。でも、それでもいい。
『世那、大好きだよ』
それでも、私はあなたを愛している。
「でもね、世那先輩。
忘れないということだけが、愛ではないんですよ」
真白君はそう、静かに言った。
少し難しい。言葉の意味を噛み砕こうと脳を働かそうとしたところで、ふと思った。
「…そういえば、真白君。
あなた、私の彼氏のことを誰から聞いたの?」
私の言葉に真白君はちょっと考えこむようなそぶりを見せたが、すぐに私に向き直った。
「依頼者、ですよ。
あなたを救ってほしいと、頼まれたんです」
「依頼者…?」
「はい。
ほら、髪の毛が明るい、あなたの親友の…」
「宮本…」
真白君は微笑みを絶やさずにそう言った。
薄暗がりの中でもその美しい笑顔がぼんやりと見えていて…でもなぜかその美しい顔が少し不気味に感じた。
なんだか変な迫力のようなものを感じて話しづらい中、それでも私はよくよく考えた後に口を開いた。
「私、多分…その子とあまり仲良くないよ」
「…そうですか。それはよかった」
私の言葉に、真白君は満足そうにより一層美しく笑って、そう言ったのだった。
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