ある少女の耽溺
七海蓮
前編
「やめておきなよ、あんな男」
一つ一つの言葉を確かめるようにゆっくりと、けれどはっきりとした口調で目の前の親友はそう言った。
明るい茶色の髪に、強気そうに見える大きなつりがちの目に惑わされがちだが、彼女は典型的な”根が真面目”なタイプである。殊に、恋愛というジャンルにおいては。
「
「…覚えてるよ」
「いや、覚えてない」
聞いてきたくせに、バッサリとそう言い切られる。なら聞かないでよと言いたくなったけれど、その強い視線に対して口を開こうとは思えず目線を下げた。
そんな私を見て深くため息をついた親友は「あたしが教えてあげる」と言った。
「約束をドタキャンして深夜まで連絡をしない。
財布を忘れたと言って世那に金をせびる。
用事があると言って他の女の所へ遊びに行く。
勝手に酔った挙句世那に暴力をふるう…もっと言おうか?」
黙り続けている私を見て、もしかしたら言いすぎたと思ったのかもしれない。
私達の間にしばらくの時間沈黙が走った。その沈黙を破ったのは、いつもとは違った親友の少し弱弱しい声だった。
「人の恋愛に口を出すなんて、本当に勝手なのかもしれない。でもあたしは世那が不幸になるのを、黙って見ていられないの」
「でも…私、彼のことがやっぱり、好きなの」
世那の言葉に、彼女の開きかけていた口がゆっくりと閉じた。
そしてその大きな目を世那へと向けた。とても優しい目だった。
「…あたしも世那のこと、本当に大切に思っていて、大好きなんだよ。
お願い。それだけは、覚えていてほしい」
そう言って椅子から立ち上がり、教室を出て行ってしまった。ただ一人教室に残された私は、ぼうっと窓の外を見ていた。
ちょうど見えるグラウンドでは、まだ野球部が練習をしている。さすが県で一、二を争う強豪校の部員だ。夜の七時に近づいているというのにまだその声には疲れを感じさせない。
五月になったばかりのこの時間は少し肌寒い。カーディガンの袖を伸ばして指先を覆う。その時に、左手の小指にはめられたピンキーリングに触れた。
彼が初めてくれたプレゼントだった。決して高い物ではないと知っているけれど、値段なんてどうでもいい。彼が私を縛り付けてくれているようで、私が彼の物であるという証明のようで…このリングを見つめる度に心の奥底が麻痺したかのように、ぼうっとするのだ。
そんな感情を教えてくれたのは、間違いなく彼なのだ。
分からないのならそれでいい。価値観を押し付けることがどれだけ人に不快感を与えてしまうのか、年相応には分かっているつもりだ。
机の上に置いていたスマホで時間を確認すると、ちょうど七時を回ったところだった。
「やばい、時間だ」
彼との約束の時間は七時半。今教室を出たら、五分後には待ち合わせ場所に着くだろうけど…急がなきゃ。
でも…その前に、あの子に謝っておこうかな。
あの子が私のことを大切に思っていることは知っている。たった一人の親友なのだ。でも昔から、あの子は彼と私の交際のことを良く思っていない。
あの子にも彼の良さを分かってもらおうと何度も試みたけれど、彼の話をすると決まってあの子は眉をひそめ、反対した。彼の話をすることは避けていたのだが、今回ばかりは珍しくあの子の方から話してきたのだった。
電話をかけるボタンを押して、耳に当てる。コール音はただただ響くだけで、なんとなく『出ないだろうな』と思った。あの子は通知音を基本的にオフにしているタイプだったのを思い出す。
耳にスマホをあてたまま小走りで教室を出た瞬間に、ドンと肩に衝撃が走った。ぐらり、とそのまま世界がぐるんと揺れ、手からスマホが離れる。
あ、倒れる。本能がそう叫び、私はぎゅっと目を閉じていた。
しかし、想像していた衝撃は訪れなかった。その代わり訪れたのは、がっしりと誰かに腕ごと抱かれ、そこに全体重を乗せているという感覚。足先だけが床に一瞬ついていたが、それもふわりと浮いた。膝の裏にさらに腕を入れられ、さながらお姫様抱っこのようになっているのだと気づいた。
回転した世界に頭が追い付き、目の前の景色に焦点が合う。
私を支えているのであろうその人の顔がはっきりとしていくにつれ、あ、と思わず声を出してしまった。
「
闇を連想させるほど黒い髪に、相反するような白い肌…少し涼やかな雰囲気を与えるその目は私をしっかりと捉えている。
「僕のこと、知っているんですね」
もちろん。そうは思っていてもなぜか言うことはできず、少しうなずくことしかできなかった。そんな私の様子を見て、真白君はにこりと微笑んだ。その笑顔だけで何人の女子生徒が倒れてしまうだろう、と思ってしまうぐらいの破壊力を持つことを、彼は知っているのだろうか。
真白君は間違いなく、この高校の有名人だった。私の一つ下で、今年二年生になったのだが…入学した瞬間にその美貌で一躍有名となった。
『カッコいい』だとか『イケメン』なんで言葉はむしろ似合わない。
『美しい』という言葉だけで構成されているような人を見るのは、初めてだった。
見た目に反して、相当力があるらしい。私を支えていた手をゆっくり起こしていき、そっと私を元の姿勢へと戻した。まだ少し速い鼓動を抑えながら真白君をもう一度見る。すらりとしたその体躯はとても華奢で、女子一人涼しい顔で支えられるとは想像もつかない。
「僕も知っていますよ。世那先輩、ですよね」
「え、あ…うん」
「世那って、名前ですよね?ごめんなさい、突然名前で呼んでしまって。
気持ち悪いですよね」
「いや、全然!だいじょう、ぶ」
「そうですか。良かった」
ふ、と再び微笑まれる。真白君というのは、こんなにも優しそうな人だったのか…知らなかった。私が聞いた噂では、彼はあまり周囲に人を寄せ付けないタイプだとか、ミステリアスで何を考えているか分からないから怖いだとか…その美貌を持っているからこその噂ではあったのかもしれない、と今なら思う。
「世那先輩、有名だから。名前ぐらいなら、こんな僕でも聞いたら知っていました」
話を続けてきたのは想定外だった。ただ悪い気は一切せず「悪い噂じゃないといいけど」と返した。
「僕の友達が、貴女のことをマドンナだとかそういえば言ってました。
去年のミスコンでも賞を取ったと聞きましたよ」
聞いた、というその言い方に嘘は感じられない。つまり真白君は知らなかったということなのだろう。そうゆうものに興味はなさそうだ。
去年、クラス代表という形でほぼ無理やりミスコンに出されたときのことを思い出す。あまり乗り気はしなかったが、今思えばクラス中から応援され、みんなで優勝に向けてクラスが一つになれたのは楽しかったし、良い思い出となった。
「準グランプリだけどね」
「いや。その時のグランプリだった当時三年生の方は、人脈による投票だけでグランプリを取ることができた、とか」
「それも実力だからね。私に友達が少ないことは事実だし」
ミスコンという懐かしい単語に、去年の文化祭の映像が頭をよぎる。
そうだ、あの時…ミスコンが終わってクラスで集まっていた。みんなが熱狂していて、私もそれに充てられてだいぶはしゃいでしまった。慣れないことをしたせいか、突然疲れてしまって…私は少しクラスから離れたところへと一人で休みに行った。そしてその時、彼が私に声をかけてきたのだ。
『良かったら、連絡先を教えてくれませんか』
みんなから美人だとかかわいいだとか、そんな分かりやすい誉め言葉は確かに今までよく言われてきた。でも、あんなにもストレートに男性から誘いを受けたのは、実は初めてのことだった。
だから私は浮かれてしまって…そのまま連絡先を交換したのだ。
「先輩はあのミスコンに出て、良かったと思っていますか」
「…え?」
「ごめんなさい、変なことを聞いてしまって。ちょっと、気になっただけです」
真白君が変わっているというのは、やはり本当なのかもしれない。
黒々とした目からは、その感情を読み取ることはできない。ただなんとなく答えなきゃいけないような焦燥感に駆られて、とりあえず口を開いた。
「えっと…良かった、って思ってるよ。本当に」
だってきっと、ミスコンがなかったら彼に出会うことはできなかったのだから。
慣れないことをしてしまって疲れはしたけれど、あの時私をミスコンに推薦してくれたクラスメイトには今では感謝をしているぐらいだ。
「そうですか。それは良かった」
では、と言って真白君は私に背を向け、さっさと歩いて行ってしまった。
その背中は、もう私に興味がない、とでも言いたげだ。
やっぱり真白君は変わっている。あの美しい容姿に一種、救われている部類だろう。
「…あ、時間」
そうだ、彼が待っているのだ。
私はすでに発信先の不在を知らせているスマホを拾い、真白君が行った方向とは逆方向へと駆け出した。
走って行った先は、東校舎裏だ。私と彼の待ち合わせ場所は、いつもここだ。
薄暗くて冬は寒いけれど、彼が来やすい場所を待ち合わせ場所にしたかった。少しでも長い時間、彼に会うために。
十五分前に着いた私はスマホを開く。
『今日は行くよ』
ちょうど二分前に、彼からそうメッセージが来ていた。
良かった。彼は社会人で、昔から学生の私なんかに比べて忙しかった。都合が合わず、ドタキャンされることもしばしばあった。
でもこの時間にこのメッセージが来たということは、今日は来てくれるだろう。
彼と会うのは三日ぶりだ。本当は毎日でも会いたいけれど、忙しい彼にそこまで付き合わせるわけにはいかない。だから私は今、週に一度か二度、彼に会うのを楽しみに毎日を生きている。
些細でつまらない悩み事は、私より頭一つ以上背の高い彼に抱かれるだけで不思議と消えていくのだ。もちろんその手に、身体に私の身体が痛めつけられることがしばしばあったのは事実だ。でもそれは昔のこと。今では暴力も振るわなくなったし、他の女の子と遊ぶこともおそらくなくなった。
過去のことは過去のこと。彼も今はそれを反省していると言っていた。
人は誰しもが間違いをすると思うし、それに対して本当に反省して、やり直そうという意思を持っているのならば私はそれを許そうと思うのだ。
「世那、お待たせ」
男性らしい低めの良く通る声が私の耳に届く。
後ろを振り向くと、スーツ姿の彼がこちらに向かって歩いてきていた。その手には通勤用のバッグが握られている。スーツ姿の彼は、何度見ても大人の男な感じがしてかっこいい。同世代の男子には見ることのできないような色気で溢れている。
「ううん、全然待ってないよ」
彼の右手がこちらに向かって伸ばされる。私もそこへと手を伸ばし、指先同士が絡みあった。そのまま私達の身体は引き寄せられるように近づき、彼は絡ませた指先をほどくと今度は私の頬へと手をやった。
大きくて私の頬を包み込むようなその手は、ひどく冷たかった。けれどそんなの、彼の目に至近距離で顔を覗きこまれるだけでどうだってよくなるのだ。愛しいという思いが溢れて止まらない。近づいてくる顔に、キスされる、と瞬時に体が理解し、私は目をゆっくりと閉じた。
私の唇に、彼の少し乾燥した唇が触れる。相変わらず荒れやすそうなその唇にさえ愛しさを感じた。
「世那、好きだよ」
ほら。彼は私にたくさんその唇から愛を注いでくれる。それは出会った時から変わらない。
時々不安になることもあったけれど、彼は愛情表現が昔から豊かな人だった。だから私はいつも、そんな不安なんてすぐに消え去った。
「私も。私もあなたを、ずっと愛してるから」
「ああ、やっぱりそうだった」
彼以外の声に、反射的に顔を向けた。
その先にはこちらを見て微笑んでいる…真白君がいた。
「世那先輩。そんな男、やめた方がいいと思いますよ」
ある意味聞きなれてしまったその言葉に不快感をそのままあらわにした。いくら真白君でも、ほとんど初対面の私に何を言っているのか。私と彼のことなど何も知らないくせに。
「僕が彼とあなたの縁を、切ってあげましょう」
「何言ってるの。変なこと言うのは、やめて」
「…お前」
彼が鋭く真白君を睨んでいる。彼は、真白君のことを知っているのだろうか。けれど、社会人の彼と真白君が、なぜ?
「愛というのは僕にはよく分かりません。なぜ人は、人を愛しいと思うのでしょうね。だからこそ人を愛している人を見ると、羨ましく思うし…とても尊いものであると思うのですよ。
だから本当は世那先輩、あなたの愛を
けれど相手が悪いんですよ。だって…」
「…やめて」
真白君はこちらにすたすたと歩いてくる。その自然さは、先ほど私に背を向けて歩いて行ったときと同じようなものだった。私の方に目もくれず、彼の方にだけ視線を向けている。
「やめて、」
私の声なんて聞こえていないのだろうか。真白君は彼の元へと歩いていき、手を伸ばした。
「やめて、やめてよ!」
真白君の白くて細長い指が、彼の顔へと伸ばされていくのを、私はなぜか見ていることしかできなかった。
「ほら」
真白君はやっと、私の顔を見た。その顔を見た瞬間、私の全身に寒気が走った。その顔は…恍惚という言葉が似合うほど、何かに対しうっとりとしている顔だった。
「死んでるじゃないですか」
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