第36話 ハルの力
打つ手がない。
永遠とも思えるような刹那の中で、ハルは山蛇と対峙しながらそんなことを強く意識させられてしまう。
自分が今まで学んできたこと、経験したことを全て注ぎ込んだとしても打開できるような状況ではないことぐらいわかっている。
それどころか、今もこうやって生きていること自体が奇跡ともいえるような状態だ。
それでもハルは、命を繋ぐことを諦めようとは思わなかった。
こんなところで両親から譲り受けた夢を、そして何より自分自身の憧れを、手放そうとは思えなかった。
目の前に迫りくる死への恐怖心に必死に抗いながら、化物を見上げ睨みつけるハル。
極限にまで研ぎ澄まされていく意識が、彼女の世界から音を消した。
何もかもがスローモーションになっていく不思議な感覚の中、ハルは自分の心の奥底よりも遥かに深い場所で、誰かの声が聞こえていることに気づく。
――シエテ……ヤル……
「……え?」
不意に心の奥底から響くように聴こえてきた言葉に、思わず声を漏らす彼女。
けれどもそれは錯覚などではなく、確かに語りかけるように再び言葉を紡ぐ。
――タマ……シイノ……ツカイ……カタ、ヲ……
何者かはわからない。
けれども、何故か懐かしさを感じさせるような声。
ハルは腰につけているポーチに無意識に右手を入れると、母から譲り受けたナイフを取り出してその刃先をシースから抜き取る。
そして精神の奥深くから聞こえてくるその声に導かれるかのように、そっと唇を開く。
【
詠唱を唱え始めると同時に、彼女が握るナイフが青い光を帯び始めた。
その光景を見た瞬間、危険を察知した山蛇が瞬時に牙を向けて攻撃を仕掛ける。
【(混入)――】
けれどもハルは逃げ出すこともせず詠唱を唱え続けると、その刃先をバッヘルウルフの腹部から流れ出てきた鱗へと向けた。そしてーー
【
結びの言葉を唱え、ハルがナイフを突き刺した瞬間だった。
突如青白い閃光が彼女の手元から生まれ、それは一瞬にして闘技場を駆け抜けていく。
そのあまりの眩しさに、咄嗟に目を瞑ってしまう受験者たち。そして同時に起こった強烈な魔巧反応に、観客席にいる熟練の魔巧師や冒険者たちでさえ無意識に身構える。
「――くっ」
かつて経験したことがないほどの魔巧の光を前に、ハルも思わず目を瞑った。
何が起こったのかまったくわからない中で、それでもナイフだけは必死に握り続ける。
『シャァァッ!』
突然、山蛇の威嚇するような鳴き声が鼓膜を揺さぶった。その瞬間、ハルはびくりと身体を震わせて身構えたが、何故か相手が攻撃を仕掛けてくる気配はない。
閃光が徐々に収まっていくのを感じた彼女は慌てて目を開けると辺りの状況を確かめる。
「なに……これ……」
思わずそんな言葉を呟くハルの視界に広がっていたのは、先ほどとほとんど変わらない光景だった。
ただ一つ、彼女が握り締めているナイフの先端にあるもの除いては。
己が生成したものを、覗き込むかのようにハルは見つめる。
ついさっきまで鱗があったはずの場所に突如現れていたのは、一見すると小さな人形のようなものだった。
長い尻尾を持ち、寸胴な胴体から伸びた四肢と頭部。
それは山蛇と同じく、今や絶滅寸前となりその姿をほとんど文献でしか見ることがなくなった魔物を象ったもの。
ハルが一枚の鱗から創り出したのは、『トカゲ』の形を模した小さな人形だった。
作り手であるハル含めて、闘技場に立つ他の受験者や観客席にいる腕利きの魔巧師たちでさえ、彼女が作り出したのものが一体何なのかがわからなかった。
それどころか、果たしてまともな魔具なのかどうかさえ判断ができない。
奇妙な沈黙と注目が自分の背中にのしかかるのを感じながら、ハルがゴクリと唾を飲み込む。
そして、その直後だった。
彼女が見つめる視線の先で、ナイフの刃先がかたりと僅かに動いた。
「え?」と間の抜けたような声を漏らすハル。
けれども彼女は、その後続け様に起こった変化に今度は思わず目を見開く。
「うそ……」
呆然と声を漏らすハルの視線の先、トカゲの形を模したその小さな人形がピクリと動いたのだ。
見間違いだと慌てて目を擦るハル。けれども再び開いた視界の中で、今度は確かにトカゲの前足が前進するようにゆっくりと動き出す。
それはほんの僅かで、小さな一歩だった。
しかしその小さな一歩が、どれほど大きな意味を持つのかということを、観客席にいる熟練の魔巧師たちにはわかっていた。
だからこそ彼らは驚いたのだ。
まだ見習いの立場である彼女が、経験も歳も浅いはずの少女が、いまや言い伝えと化している、魔具に『命』そのものを宿す生成方法を成し遂げてしまったということを。
『シャアッ!』
突然鳴き声を上げた山蛇が、警戒するかのようにハルから距離を取り身構えた。姿勢を低くし、牙を剥き出しにして敵意を向ける先には、自分の身体よりもはるかに小さな人形の姿。
けれども、山蛇には確かに見えていた。
その鱗の持ち主であったであろう、巨大な魔物の姿が。
同じく竜の末裔とされて、そしてまた自分よりも遥かに色濃くその血を受け継いでいる巨大なトカゲの姿が。
たとえ鱗一枚から創り出された存在とはいえ、竜に最も近い種族とされるトカゲの気配を感じさせる魔具を前に、山蛇が最大限の警戒姿勢を取る。
『シャッ!』と威嚇を続けて一向に近づいてこない相手に、ハルは何が起こっているのかわからず戸惑っていた。
その間も自分が作り出した小さな人形のような魔具は、まるで本当に生きているかのように足元で動き回っている。
「一体……どうなってるの?」
自分が作り出したものとはいえ、ハルは呆然とした表情を浮かべてしゃがみ込んだままトカゲのことを見つめる。恐る恐る右手を伸ばしてみると、トカゲは懐くような動きで彼女の手のひらへと飛び乗った。
そしてハルが立ち上がるのに合わせてトカゲは彼女の腕へと上がっていくと、肩の上で足を止めた。
そんな光景を、山蛇はじっと動きを止めたまま見つめていた。
古来より竜族は魔物の中でも知能が高く、群れを成して他の生物を圧制してきた。
その為、力のある者が群れを率いる長となり、そこには実力差によって明確な上下社会が築かれていたともいわれている。
だからこそ山蛇は感じていた。自分よりも遥かに格上の存在であるトカゲを手懐ける一人の少女の姿を見て。
この闘技場の場において、最も力を持つ者が誰なのかを。
自分のことをじっと睨みながらも動こうとはしない山蛇を見て、ハルも同じく固まったままゴクリと唾を飲み込む。と、その時。肩に乗っていたトカゲが小さく飛び跳ねて、彼女の足元へと着地した。
「あっ……」
ハルが思わず声を漏らした、その直後だった。
足元に着地してハルと山蛇の間に割って入るように動いていたトカゲの身体が徐々に崩れ始めたのだ。
込められていた魔力が底を尽きたのだろう。
トカゲは山蛇と対峙するかのように足を止めると、そのまま粘土が崩れていくかのように輪郭を失っていき、やがて砂のような状態になってしまった。
自分が生み出した魔具の最後を、不思議そうな表情を浮かべて見つめていたハル。けれどもその直後、再び山蛇が動き出したことに気づく。
「――っ!」
先ほどまで距離を取っていたはずの山蛇が、ハルの方へとゆっくりと向かっていく。
その瞬間彼女は慌てて身構えるも、恐怖のあまり両足が動かずその場から逃げることができない。その間にも、眼前まで迫ってきた山蛇はまるで獲物を吟味するかのように、ハルのことをじろりと観察し始める。その鋭い牙が僅かに動くだけで、「ひぃっ!」と彼女は思わず叫び声を漏らした。
「お、お願いだから食べないで下さいっ!!」
魔物相手に、思わずそんな言葉を口にして命乞いをする彼女。
もはや誰が見ても絶望的な状況だった。
山蛇はまるでハルの逃げ道を塞ぐかのように、その長い身体で彼女の周囲を囲んでいく。
それでもハルは辺りをぐるりと見渡して、何とか逃げ道を見つけ出そうと必死になるのだが、もちろんすでにどこを見渡しても逃げ場など無い。そしてその直後、山蛇の尻尾が彼女の身体を捕らえる。
「ぎゃっ!」
ぬるりとした感触に包まれて、ハルが思わず叫び声を上げる。慌てて逃げ出そうとするも、痛みはないとはいえまったく身動きが取れない。
ゆっくりと自分の身体が持ち上げられるのを感じながら、ハルは恐怖のあまりぎゅっと目を瞑る。どう足掻いたとしてもここで食べられてしまうのかと己の運命を呪った、その直後だった。
「……へ?」
不意に自分の身体がどこかに降ろされたことに気づき慌てて目を開けたハルは、視界に飛び込んできた光景に思わず声を漏らした。
彼女の視線の先に広がっていたのは、先ほどと同じくコロシアムの光景だったのだが、何故か他の受験者たちを見下ろす形になっているではないか。
「なんで……って、うわぁっ!」
突然足元が揺らぎ、ハルは慌ててその場にしゃがみ込む。そしてその直後、自分が山蛇の頭の上に乗っていることに気づいた彼女は驚きのあまり思わず目を見開いてしまう。
あれほど凶暴だったはずの山蛇が、まるで自分に従うかのように大人しくなっているではないか。
そんな光景をハルだけでなく、コロシアムにいる誰もが騒然とした様子で見つめていた。
その命を奪うことも、傷付けることもなく、魔物の中でも凶悪とされている蛇の種族を従える少女の姿を。
「もしかして私……助かったの?」
一向に襲ってくる気配もなく、ただ静かに自分のことを頭に乗せている山蛇に対して、ハルが驚きを滲ませた声で呟く。
そんな彼女の姿に、他の魔物でさえ驚いたのだろう。生き残っている魔物たちの中で、彼女に敵意を向けるものはすでにいなくなっていた。
予想外の形で闘技場の戦いに終止符を打ったハル。
熟練の魔巧師たちでさえも驚かせたその生成方法と、そして山蛇を手懐けるという奇跡ともいえる偉業に、静まり返っていたはずの観客席から一斉に歓声が湧き上がった。
万雷の拍手が鳴り響く中、ハルは呆然とした表情を浮かべながら観客席を見渡す。
けれども胸の内側から込み上げてくる喜びを抑えきれず、彼女は頭上に輝く太陽よりも明るい笑顔で、彼らに応えるのであった。
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