第6章 さっそくの強敵

「お……おうぇぇぇ……」

 

 若い乙女にはあるまじき声を漏らしながら、ハルは大きな木陰で横になっていた。


「しかしまさか魔物どころか野兎のうさぎ一匹まともに狩ることができないとはな」


「…………」

 

 ジルの呆れ返った言葉を聞いて、ハルは上半身を起こすとギロリと鋭い目で彼のことを睨みつける。が、すぐに気持ち悪くなってしまい再び横になる。


 結局魔物との記念すべき初対戦は、恐怖のあまり白目を向いて気絶してしまったハルの完敗となってしまった。

 その後すぐにジルが二匹の幼虫を倒し、さらにはハルが気を失っている間に周囲に集まってきた他の芋虫たちもすべて倒してしまったのだ。

 再び意識を取り戻したハルは辺りに散らばっている幼虫の死骸を見てまたも気を失いそうになるも、ジルから「早く手伝え」と怒られて幼虫の体液を袋に詰める作業を嫌々手伝っていたのだが、その代償として気分が悪くなってしまい今に至るのである。


「し、師匠……もうちょっと……もうちょっとだけ待って下さい……」


 顔を背けて弱々しい声でそんなことを呟くハルを見て、ジルは返事の代わりにただただ大きなため息を吐き出す。

 果たしてこんな情けない奴が本当に一人前の魔巧師になんてなれるのか? なんて疑問を頭の中で考えていた時、ふと背後の茂みの中から何者かが近づいてくる気配に気づいた。


「ほう……珍しいな」


 突然そんな言葉をぼそりと呟いたジルに、「え?」と何だか嫌な予感がしたハルが慌てて彼の方を振り返る。

 そしてその直後、視界に飛び込んできたものに驚いた彼女は気持ち悪さも忘れて一瞬で飛び起きる。


「お……おお……」

 

 恐怖のあまりまともに言葉を発することもできないハル。そんな彼女の視線の先、茂みの中から突如姿を現したのは、立派な爪と牙を持つ一匹の狼だった。

 

 そしてもちろん、普通の狼などではない。

 

 全身を覆う灰色の毛並みは鎧のように硬く、その鋭い牙と爪は岩をも砕くことができるといわれている魔物の狼だ。


「バッヘルウルフか。こんな時間帯に出くわすとは珍しいこともあるもんだな」


 相手が芋虫から凶暴な狼に変わっても、ジルの落ち着いた口調は何一つ変わらない。そんな彼とは対照的に、慌てふためくハルが大声をあげる。


「な、な、なに呑気なこと言ってるんですか! 狼ですよ狼! 今度こそ早く逃げないとっ!」

 

 そう言って一目散に逃げようとするハルの腕をジルが力強くガシっと掴む。


「ちょっ、ちょっと師匠! なんで邪魔するんですか!」


「馬鹿かお前。バッヘルウルフに背中を向けると餌と勘違いされてすぐに喰われるぞ」


「……」

 

 ジルの忠告を聞いてピタリと動きを止めたハル。だが内心気が気ではない彼女は、冷や汗をだらだらと流しながら震える声でジルに問いかける。


「で、で、でもこのままだと二人とも結局食べられちゃいますよ! ど、どうするんですかっ!?」


「お前はいちいちうるさい奴だな。少し黙ってろ」

 

 今にも泣き出しそうな顔をするハルに向かって、ジルが面倒くさそうに答える。その間もバッヘルウルフは低い唸り声を漏らしながら、敵意剥き出しで二人に近づいていく。


「し、師匠っ! 来ましたよ! もうダメですっ!」


「だからうるさいって言ってるだろお前は」


 ジルは苛立った口調でそう言い放つと、自分の腕に必死になってしがみついてくるハルを無理やり引き放す。


「いいか、バッヘルウルフと鉢合わせした時に背中を見せればまず間違いなく飛びかかってくる。だがこいつらは自分に向かってくるものに対してはすぐには襲ってこない」

 

 まるでこれも修行の一環だといわんばかりに落ち着いた口調でそんな説明をするジルは、今度はあろうことかバッヘルウルフに向かって自分から近づいていく。

 そのあまりに衝撃的かつ無防備な姿に、「し、師匠っ!」とハルは思わず目を見開いて声をあげる。

 けれどもそんな彼女の叫びなど無視して、一歩、また一歩とジルは確実に距離を詰めていく。


「あぁ……どうしよう……」

 

 ブルブルと身体を震わせながらそんな言葉を呟くも、恐怖のあまりハルはまったく動くことができない。

 まさか修行初日が師匠の命日になってしまうのかと一人恐れる彼女だが、ジルにとってはこれもいつもの日常なのか、魔物の狼を前にしても表情一つ変わらない。

 それどころか先ほどの戦いの時とは違い、ジルは即席で魔具を作り出す様子さえ見せない。


「なるほどな……先に誰かと戦ってたというわけか」

 

 異様なまでに自分のことを警戒しながら足を止めてきたバッヘルウルフの様子を見て、ジルはぼそりとそんなことを呟く。

 彼の言葉通り、魔物の前足からは鮮血が流れ出ていた。

 本来であれば夜行性のバッヘルウルフがこんな昼間から行動しているのは、おそらく寝床を襲われたのかあるいは縄張りに侵入者がやってきたからだろう。

 ただジルにとってはそんなことよりも、その傷が同族や他の魔物から受けたものではなく、明らかに人間の手によって付けられたものだということが気がかりだった。


「ったく……あのガキといい、ここも最近は随分と賑やかになったものだな」

 

 今もこの山にいるのかわからない相手に向かってジルはそんな言葉を口にすると、バッヘルウルフの間合いを計るかのように足を止める。

 葉擦れの音だけが響く中、まるで互いの命を削り合うかのように激しく睨み合う二つの視線。

 激しく睨み合う二種類の瞳。その一方がほんの一瞬瞬きをした瞬間、牙を剥き出しにした魔物が勢いよく相手に飛び掛かった。


「師匠っ!」

 

 ハルの必死な叫び声を背中で聞きながら、ジルは襲いかかってくる魔物を真っ直ぐに見つめる。直後、鋭い爪が彼の身体を貫こうとした瞬間、ジルは咄嗟に右足をずらしてその一撃をいとも容易くかわす。そしてすぐさま右手を握って拳を作った時、その手首にはめている腕輪が赤く光った。


『キャウンッ!』

 

 それはほんの一瞬の出来事だった。

 

 ジルが放った強烈なアッパーが魔物の腹部を捕らえた瞬間、まるで子犬のような声を漏らしてバッヘルウルフが宙へと舞う。

 そのあまりに衝撃的過ぎる光景に思わず言葉を失ってしまうハル。 その直後、どさりと大きな音を立ててバッヘルウルフが再び地面へと戻ってきたときには、ジルの一撃があまりにも強烈だったのか、横たわったままぴくりとも動く気配はなかった。


「とりあえずこいつも素材として使うか」

 

 そんなことをぼそりと呟いたジルは、横たわる魔物の呼吸が完全に止まっていることを確認すると、自分よりもはるかに大きいその身体を軽々と持ち上げる。そして呆然と突っ立ったままのハルに向かって「帰るぞ」と一言告げると先に歩き始めた。


「……」


 おそらく百キロ以上の重量はあるであろう魔物の死骸をかつぎながらも、足取り変わらず悠々と下山していくジルの後ろ姿を見てハルは思う。


 あれじゃあどちら化物なのかわからない……、と。

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