第2章 彼女の名は、ハルリア。

 時間を確認するために太陽を見上げたのと腹の虫が鳴ったのは、ほぼ同時だった。

 その瞬間彼女は足を止めると、両手で自分のお腹をぎゅっと押さえる。


「あーダメだ……お腹減ったなぁ」

 

 疲労感たっぷりの声でそんな言葉を一人呟きながら、首筋に流れる汗を右手の甲で拭い取る少女。栗色をしたセミロングの髪に、青空の色をそのまま閉じ込めたような大きな瞳。

 汗を弾く肌は若々しさで溢れていて、編み上げのブーツと短パンの間からはそんな素肌が惜しみなく晒されている。上半身もおへそが顔を覗かせそうなほど短い服に、その上からは同じく短めのマントを羽織るだけという軽装だ。

 彼女が腰に巻きつけたレザーポーチからは歩くたびに金属が擦れるような音が聞こえていた。

 見るからにいかにも『活発』という言葉がぴったりと似合う少女なのだが、そんな彼女とはいえど朝からずっと山道を歩きっぱなしだったので、すでに両足は悲鳴を上げている。


「ほんとにこんな山奥に『工房』なんてあるのかな……」

 

 あれだけ自信たっぷりに家を出発したものの、思わず弱気な言葉が唇から溢れ落ちてしまう。ぐうぅと相変わらず鳴り続ける腹の虫をなだめるようにお腹をさすりながら、少女は自分が歩いてきた道のりの方を振り返った。

 眼下に広がるのは鬱蒼と草木が生い茂っている山の斜面と、そしてその向こうには自分が住む場所でもあり、この大陸では一番大きい王国であるレイズーンの街並み。どうやらいつの間にか山の中腹辺りまで来てしまったようだ。

 昔は隣国に向かう為の山道だったらしいのだが、山の麓に整備された下道が出来てからはほとんど使われておらず、今は人が通ることなんて滅多にない。

 つい帰り道のことまで考えてしまい、今度は盛大なため息が唇から漏れた。そんな彼女を励ますかのように、少女が胸元に付けている記章きしょうが陽光を反射して小さく輝いた。

 まだ成人にも満たない彼女だが、銀色に輝くその三日月のような形をした記章が、半人前とはいえ少女が特別な職に就いていることを示している。


魔巧師まこうし』――


 この世界に存在するあらゆる物質を素材として、『魔具まぐ』と呼ばれる特殊な道具を作り出す職人たち。

 その分野は多岐にわたり日常生活に必要な道具はもちろんのこと、医療や教育、そして時には冒険者にとって欠かすことができない武器や防具の生成なども行っている。

 かつてはガラクタ屋などと馬鹿にされていた時代もあったが、今となっては人々の生活を支えているのがこの魔巧師たちと言っても過言ではない。そしてそんな歴史ある技術と伝統を背負った一人が、ハルと呼ばれているこの女の子である。


「ん? なんだあれ?」

 

 再びため息をついたハルがふと顔を上げた時、視界の隅に屋根のようなものがちらりと映った。ぐっと視線のピントを合わせて見つめてみると、茂みと樹木の向こうには確かに建物ようなものが見えるではないか。


「ビンゴかも」と思わず喜びの声を漏らしたハルは、残った気力を両足に込めて茂みの中へと一歩踏み入れた。耳元でうるさく鳴く羽虫を手で追い払い、枝とツタに何度も足をからめ取られそうになりながらも突き進んでいくと、ふとエアポケットのような場所に出た。


「工房……じゃなくて、誰かの家なのかな?」


 突如山奥の中に現れた奇妙な建物……と、呼ぶにはそれはあまりにも質素な建物だった。

 レイズーンの街にある家々と比べると少しばかり大きいが、煉瓦造りの建物はかなり年季が入っているようではっきり言ってボロい。ましてやハルが想像していた工房のような建物とは程遠い形をしている。


「はあ」とため息と一緒に胸に灯っていた期待まで吐き出しそうになってしまった彼女だったが、ここはせめて何か情報だけでも掴もうと気を取り直し、そっとその家まで近づく。

 しかし扉の横にあった窓を覗き込んだ時、ハルは自分が歩いてきた道のりが正しかったことを知る。


「すごいっ! 魔具がたくさん置いてある!」

 

 汚れたガラス窓の向こう、人の気配がない薄暗い室内には、まるで博物館かと見間違えてしましそうになるほどの多種多様な魔具が溢れ返っていた。

 日用品として使うような調理魔具や掃除魔具はもちろんのこと、冒険者が好んで使いそうな魔力が練り込まれた剣や鎧、それに中には魔巧学校の宝物庫にもなかったようなかなり珍しい形をした魔具さえ置いているではないか。

 そんな貴重かつ明らかに国家認定レベルの魔巧師が作ったであろう魔具が溢れる光景を前に、ハルの腹の虫はすっかり姿を消していた。


「ごめんくださいっ! 誰かいますかっ!?」


 興奮のあまり見ず知らずの人間の家だということも忘れて、ハルは遠慮もなくバンバンと扉を何度も叩く。

 けれども彼女の力強いノックは人気のない室内の空気を微かに揺らすだけで、これといって何も起こらない。


 ……留守なのかな?


 ふとそんなことを思ったハルだったが、こんな山奥まで来て今さら引き返すわけにもいかない。

 なので彼女はもう一度大きく息を吸い込むと、今度は思いっきり声をあげて呼びかける。


「あのーっ! だれかいま……って、ブヘェっ!」

 

 扉を壊さんばかりの勢いでノックをした瞬間だった。突然勢いよく扉が開いてきたかと思うと、運悪く顔を強打してしまったハル。年頃の乙女にはあってはならないような光景だ。

 思わず涙目になりながら鼻の頭を両手で押さえるハルは、「ちょっと!」と扉の向こうに立っている相手をギロリと睨む。


「……」


 滲む視界の中、彼女の目の前に現れたのは見るからに無愛想な男だった。


 歳は三十代ぐらいだろうか。短髪の黒髪に無精髭、所々汚れた作業着のような服を着ているが、身体つきは冒険者にも劣らないほどしっかりとしている。両手首には何かのアクセサリーなのか、銀色の腕輪が薄暗い空間の中で僅かに光っていた。


 無愛想かつ威圧感のある体軀たいくをした男を前に、「うっ」と思わず弱気な声を漏らしてしまうハル。けれども彼女は、仏頂面で自分のことを見下ろしている男の手に握られているものが魔具を作るための道具だとわかるや否や、目を輝かせた。


「あ、あの私! この前王立ま……」


「ここには誰もいない。帰れ」

 

 ハルが喋り切るよりも前に、男は低い声でそんな言葉を言い放った。そしてそのまま今度は勢いよく扉を閉めようとした。……が、寸でのところで彼の行為が阻まれる。


「いますよね! ちゃんとあなたがいますよねっ!!」

 

 ぎりぎりのタイミングで扉の隙間に顔と両手をねじ込ませたハルが、鼻息を荒くしながら尋ねた。だがそんな彼女を前にしても、男は腕に込める力を緩めようとはしない。


「ぢょっど……ぢょっどおばなじだげでも……」


「……」

 

 ぬぐぐ、と顔を真っ赤にしながら何としてでも扉は閉めさせまいと奮闘するハル。そのあまりに必死な形相に、男は思わず呆れ返った表情を浮かべる。


「何なんだ、お前は……」


「わ、わだじば……って、うわっ!」 

 

 男が扉から手を離した瞬間、思わず体勢を崩してしまったハルはそのままズデンと地面に倒れ込む。


「いてて……もうっ、いきなり離さないで下さいよ! びっくりするじゃないですかっ!」


「……」


 再び立ち上がってこちらを睨みつけてきたハルを見て、この家の主人であるジルは非常に面倒くさい奴が現れたと思わずため息を吐き出す。というより、本来この場所に誰かが来ること自体がありえないことだ。


「それで、お前は一体何しに来たんだ?」

 

 やっかいな来訪者を追い払う方法を考えながら、ジルが苛立った口調で尋ねる。するとその言葉を聞いたハルは背筋を真っ直ぐに正してコホンとわざとらしく咳払いをすると、今度は改まった口調で自己紹介を始めた。


「私はレイズーン王立魔巧学校おうりつまこうがっこうを卒業したばかりのマスティ……じゃなくて、ハルリアといいます! この度は一人前の魔巧師になる為に、あなたの工房に修行に来ました!」


「……は?」


 ありえない来訪者がこれまた突然ありえないことを言い放ったので、ジルはあからさまに怪訝な表情を浮かべた。けれどもハルの言葉の猛攻は止まらない。


「実は魔巧学校には昔からしきたりがありまして、卒業した生徒は自分が作ったコンパスに導かれた工房で修行を……って、ちょ、ちょっと待って下さいっ!」


 再びジルが問答無用で扉を閉めようとしてきたのでハルは慌ててそれを遮る。


「お……お願いだから……話を聞いて下さい……」


 今度は扉の隙間に半身をねじ入れてきたハルを見て、ジルは大きくため息をついた。おそらくこの調子だと、話を聞くまでは帰らないつもりだろう。

 そう思ったジルは諦めて再び扉から手を離すと、とりあえずハルの話しに耳を傾けることにした。


「手短に話せよ」

 

 やっと自分の話しを聞く姿勢になってくれた相手に、「はいっ!」とハルは嬉しそうに満面の笑顔を浮かべる。そして先ほどよりも数倍気合が入った声音で身振り手振りを付け加えながら話しを始めた。

 

 なんでもレイズーンの街にある魔巧学校では昔からの風習として、生徒は学校を卒業する時に魔巧師としての志を示す意味も込めてコンパスを作ることになっているという。

 そして自分の魔力を練り込んで作ったその特別なコンパスは、持ち主にとって最も適した修行の場である工房を教えてくれると言われていて、卒業生はその工房で一人前の魔巧師になるための修行に励むことになっている……らしいのだが、


「……で、そのコンパスがこの場所を指し示したのか?」



 完全に呆れ返った口調でそんなことを尋ねるジル。それもそのはずだ。彼の視線の先、ハルが自信たっぷりに突き出してきた錆びついたメッキのような色をしたそれは、コンパスと呼ぶにはあまりにも無格好な形をしていたからだ。

 本来なら綺麗な円形をしているはずの外装はまるで山道から転げ落ちたかのようにボコボコにへこんでいるし、中の針もうねうねと曲がっていてひと目見ただけではどこを指しているのかよくわからない。

 はっきり言ってガラクタ。良く言ったところで、子供の玩具と評するのが精一杯の代物だろう。


「……」


 ここ最近……いや、今までの人生の中で最も質も見た目も悪い魔具を目の当たりにしてジルは言葉を失っていた。しかもこんなガラクタによって偶然とはいえ自分の居場所が突き止められてしまったのだから、これはもう自分の運も尽きたといえよう。

 そんなジルの心境など露も知らないハルは意気揚々と言葉を続ける。


「いやーこんな凄そうな魔巧師がいる工房を見つけ出すなんて、さっすが私のコンパス!」


 今にも飛びはねそうなほど一人喜んでいるハルに対して、ジルはただただ眉間の皺を深くした。そしてハッキリとした口調で告げる。


「馬鹿かお前。修行なんてさせるわけないだろ」


「え?」

 

 ジルの冷たい発言に、思わずピタリと固まってしまうハル。そして彼女は驚いたように目をパチクリとさせると、今度は慌てて口を開いた。


「な、なんでですかっ! 王立魔巧学校の卒業生を受け入れることはすっごく名誉あることなんですよっ!」


「知らん。だいたいここはお前みたいな奴が来るところじゃない」

 

 だからさっさと帰れ、と冷めた声音で突き放すジルに、ハルは愕然とした表情を浮かべたまま再び固まってしまう。

 彼女がそこまで驚いてしまうことも無理はない。なぜなら数ある魔巧学校の中でも最も歴史と名誉があるレイズーン魔巧学校の卒業生が修行のために訪れてくることは、工房側としても栄誉あることとして喜ばれることのほうが多いからだ。

 なのでハルも当然のごとく相手から良い返事が返ってくるものばかりだと思っていたのだが……


「いつまでそんなところで突っ立てる気だ。早く帰れ」


「……」


 まるで野良犬でも追い払うかのようにハルに向かって右手を面倒くさそうに振るジル。どうやらこれは冗談ではなく本気で厄介者扱いされているとやっと気付いたハルだったが、それでも彼女も譲らない。


「け、けど卒業生を受け入れた工房は国から色んな支援をしてもらてすっごくメリットがあるんですよ! 修行が終わるまでの間は補助金だってもらえるし、それに税金だって免除してもらえて……」


「だから何だ? 俺はそんな制度も名誉も興味がない。だいたい税金なんて払ってないから問題ない」


「いやそこは問題あるでしょ!」


 とんでもないことを言い放つ男に、今度はハルのほうが思わず呆れたような表情を浮かべてしまう。けれども彼女はすぐに我に返ると、キリッとした目つきでジルの顔を見上げる。


「お願いです! 私、一人前の魔巧師になる為にどうしてもこの工房で修行したいんです! だから弟子にして下さいっ!」


「何度頼まれても無理なものは無理だ。だいたいここは工房じゃなくて俺の家だ。工房で修行したいなら他を当たれ」


「嫌ですっ!」

 

 冷たく言い放つジルの言葉に真っ向から噛み付いていくハル。ガルルとまるで獣のように今にも飛び掛かってきそうな気迫溢れる彼女を見て、ジルは何度目になるのかわからない大きなため息を吐き出した。


「そんな顔をしても無駄だ。仕事の邪魔になるからさっさと立ち去れ」

 

 これ以上この少女と関わっていてもロクなことがない。そう判断したジルは、ハルの腕を掴むとぽいっと無理やり家の外へと放り出した。そして「二度と来るなよ」と捨て台詞だけ言い残すと、彼女に背を向けて勢い良く扉を閉める。


「ちょっ! なんでそんなに嫌がるんですかっ! 私、こう見えても結構役に立ちますよ!」


 ジルが扉に鍵をかけるや否や、バンバンとうるさい音と共にハルの叫び声が室内に響き渡る。

「ちっ」と苛立ちのあまりつい舌打ちをしてしまうジルだったが、どうせすぐに諦めて立ち去るだろうと思い直して部屋の奥へと足を進める。

 どれだけしつこい人間だろうと、こんな山奥で一人放置されれば大の大人でも不安になるはずだ。ましてやそれが十代そこそこの少女ともなれば、どうせ泣いて逃げ出すのが関の山だろう。

 そんなことを思ったジルはうるさい声から少しでも遠ざかる為に部屋の隅まで移動すると、いつものように工具を片手に作業を始める。


 しかし、ジルはこの時侮ってしまっていた。


 ある日突然やってきたこの来訪者が、実は彼が思っていた以上に根気と粘り強さがある少女だということを。

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