第27話 名前。


 こんなにもたくさん泣いたのはいつ振りかしら。


 ああ。家を逃げ出した日以来だわ。


 思い出せばいつも痛んでいた胸が、今は懐かしいと思う以外何もない。

 あんな過去を、受け入れられたのだろうか。

 それとも、必死になって私を慰めてくれた彼の言葉が支えになってくれているのだろうか。


 私は涙を拭って、その顔を覗き見る。


 濡れた黒い瞳に恐ろしさはもう微塵も無い。

 むしろ、とても美しい色だと思う。

 黒く長い睫毛に縁取られた切れ長の目は、鏡のように私を映す。


 あまりにも酷いその顔に、思わず笑ってしまった。


「…どうかしたか?」


 すんっ、と鼻をすすった彼が子供のようで、恐れ多くも噂に聞くあの冷徹無慈悲な魔王様とは思えない。


「いいえ…魔王陛下。」


 泣き顔を見られた羞恥よりも、感謝の気持ちが強くてまた涙が湧きだす。


 忙しいお立場だろうに、毎週のように料理屋へ足を運んでくださった大切なお客様がまさか魔王様だなんて。


 私は思い返す。


 だから皆ビクビクしていたのね。

 そうね。私が粗相でもしてしまえばどうなるか分からないものね。


「…済まない。あまりにも…自然に接してくれたのはあなただけだった、もので、な…」


 歯切れが悪い魔王様に微笑んで見せる。


「そうなのですか?」


「ああ。魔物は皆、私を恐れてまともに顔を合わせてはくれない。」


 きっととても慕われる王なのだろうと思っていたが、どうやら違ったらしいと私は言葉を失った。


「魔王は、多くの魔物からすれば絶対的な存在。だからこそ、うかつに行動してはならないのだが…。」


 そこで一度口を閉じた彼に私は頷いて見せる。

 各所で感じていた違和感が、今なら全部納得ができた。


「だから、お名前も隠されていたのですね。」


 どこであっても権力者というのは大変なのね。

 そりゃあ、国民でもない私においそれと名前なんて明かせないわ。


「いや、そういう訳ではない。」


 気まずそうに目を逸らされ、私は肩を落とす。


 やはり魔族の筆頭である高貴なお方は、人間風情に名を明かすなんてあってはならないことなのでしょう。

 こんなにお世話になってしまって私が勝手に親近感を抱いてしまうのがいけないのよ。

 仕方がないけれど、魔王様と呼ばせていただけるだけありがたいことだわ。


 私は自分の中で気持ちを整理して顔を上げる。

 しかし魔王様は何故か不満げに眉を寄せていた。


 とても表情が分かりやすくなられたわね。


 呑気に思っていた私に彼は告げる。


「また何か諦めたような顔をしている。何故だ。」


「い、いいえ。そのようなこと、は…」


 あら。おかしいわ。


 私も誤魔化すのが下手になってしまっている。

 見透かしてしまいそうな黒の瞳と視線を合わせられず、逃げるように徐々に顔が下を向いてしまった。


「……ああ、この禍々しい目が恐ろしいのか。失礼した。」


 そう言って自分の目を覆う彼の手を引き留める。


「いいえ!私が悪いのです!…取り乱してしまったばかりに、不快な思いをさせてしまって……」


 吸い込まれそうなほど綺麗な黒なのに。


「このままでも、大丈夫なのか…?」


 私は大きく頷いた。


「むしろ、今まで配慮してくださって…ありがとうございます。」


「いや…」


 驚いたように見開かれたまま、彼は不思議そうに恐る恐ると言った様子で私と目を合わせる。


「…なら、どうして先程は肩を落としていた?」


 見過ごして頂けないのね。

 鋭い視線は私の一挙一動を逃さずに見ていて、今度こそ逃れられずにまた肩を落とした。


「ぇえと…失礼ながら…寂しかった、とでも言いましょうか…」


 言っていて恥ずかしくなって、頬が勝手に熱を持つ。

 けれどあまりにも真剣に聞いてくださるものだから、少しずつ私も言葉にする。


「勝手ながら…親近感を、抱いてしまって…その――お名前を聞けないのは、寂しいことだな、なんて……」


 言いながらいたたまれなくなってしまい、顔を両手で覆う。


「いえ!何でもありませんっ忘れてくださいまし!!」


 なんて非礼をお詫びすればいいのかしら。

 生意気にも名前を知りたいだなんて我がまま、きっと困っていらっしゃるに違いないわ。


 そう思って指の隙間からそっと盗み見ると、彼はこれ以上ないくらい目を開いていた。


 そうよね。驚かれるわよね。

 どうしましょう。

 土下座でもした方が良いのかしら。

 こちらでの最上級の謝罪はどんな形なのかしら。


 羞恥と後悔で別の涙が出そうになった私の手がそっとどかされる。


 相変わらず分かりにくい表情をしているけれど、どこかその瞳が輝いているように思えた。


「好きに呼んでくれ。」


 そう言うわりには、私の両手首を掴んで離さない。


 好きに呼べと言われても、私はその呼び名をひとつしか知らない。


「え…魔王、様…?」


 しかし彼は静かに首を左右に振る。


「私の名を、あなたが決めてくれ。」


「はっ?」


 今の声はどこから出たのだろうと疑いたくなるくらい間抜けな声だった。

 私は意味が分からず小さく首を振りながら傾げる。


「魔素が凝縮されて生まれた私には、名前が無いのだ。」


「どういう…ことですの?」


 それよりも、手が、手を自由にしてくださいませ。


 そう言いたくてもご自分の出生について語る彼の邪魔はできずにそのまま何度も相槌を打って聞く。

 あまりよく分からないけれど、名前も、家族も、無いのね。


 少しだけ冷静さが戻って私は瞬きを繰り返す。


 どういう生活をしてきたのかしら…

 魔王として恐れられてきた孤独な魔王様。


「バゼルという者がいただろう。彼だけが私と他の者の架け橋となってくれている。」


「まぁ。そんな…」


 私は言葉を失った。


 こんなにも優しい方なのに。

 こんなにも思いやれる方なのに。

 少しお顔が怖いというだけで、あまりにも酷いことではないのかしら。


 私がいくら想像してもその苦しみや孤独感は分からないけれど、今目の前にいる彼はただ期待を込めたような眼差しで私を見ている。


「私で…よろしければ……」


 その瞳を見て思い浮かんだ古語を口に出す。

 

「ノクス…様はいかがでしょうか?」


「ノクス?」


 私は安直過ぎたと思いつつ、答える。


「古語で、夜という意味です…。その、目が…夜空のように思えたので…」


 恥ずかしい。今すぐ自分の部屋へ戻って布団を被ってしまいたい。

 そう言えば料理屋の皆は大丈夫かしら。


 現実逃避をしたくなったからか、薄情にも今更心配になってくる。

 

 私のために時間を浪費させてしまうのも恐れ多いし、そろそろ帰していただかないとと彼の方を見れば、まるで気持ちを押し込めるかのように唇を噛んで微笑む歪な顔をしていた。


「あ…お嫌、でしたか…?」


 何か別のを、と考えようとした途端、視界が暗くなる。

 握られていた手首が少し冷たくなった。


「…ありがとう。」


 低い声が間近に聞こえる。

 状況が飲み込めず私はいいえと応えたが、自分の声がくぐもってきちんと言えたか分からない。


「あ、よか…良かった、ですわ…っ?」


 抱き締められていると認識した途端、まるで火を付けられたように全身が熱くなった。


「ありがとう…っ」


 小さく震えた大きな肩に、私は控えめに手を回す。


 私と同じように、いえ。それ以上に、この方にも色々なことがあったのね。


 そう思うと、大きな背中が小さく感じられた。


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