第26話 感化
扉付近のテーブルの下、左右を獣人に固められ震える彼女がいつもより小さく見えた。
「無事か。」
驚いた顔で私を見る三者三様の表情に等しく怯えが混ざる。
私が違和感を覚えた瞬間、彼女の顔が恐怖に染め上げられた。
「ぃ、いや…いやぁぁぁあああ!!!!」
聞いたことのない金切り声に思わず一歩下がる。
何だ?今私は何をした?
私は原因を探ろうと視線を動かすが、何も思い当たらない。
何故。何が。どうして。
現状を理解できない視線が彷徨い、奥にある窓に自分が反射していた。
瞳の色。変えるのを失念していた。
もしやそれが原因か、と呼吸の仕方を忘れたように息を切らす彼女を見る。隣にいた獣人たちが必死に名を呼ぶが、その焦点は合っていない。
精神が焼き切れそうになっている。
このままでは、廃人になってしまう――
私はとっさに右手を伸ばし、その両目を覆った。
害のある精神的苦痛を取り除くため脳が処理している記憶に魔力を流し込む。
それと同時に彼女の記憶や感情が流れるように返ってくる。
「…な――――。」
普段の穏やかな、朗らかな彼女からは想像もつかない、途方もない絶望。
興奮状態から正常に戻っていくのを感じて手を離し、また扉付近まで後退る。
彼女が目を覚まし、小さい獣人が私を責めた。
「まおう、さま…?」
茫然と顔を上げた彼女を見てようやく我に返る。
慌てたように青い顔で小さな獣人の口を覆った獣人へ軽く手を挙げた。
「…………いや、良い。済まない。私に非がある…」
まさか、こんなにも傷を抱えていたとは。
触れなければ、知ることはなかっただろう。
そして我に返った今、記憶を勝手に覗いてしまったことの罪悪感に苛まれた私は無意識にまた後方へ下がり、扉を開けて極力顔を、特に目を見せないように半分隠した。
「強い精神分裂が起きていたようだから、崩壊しないよう引き戻しただけだ。」
口ではそう言ったが、本当のことを言えずに歯噛みした。
そんな私に、彼女は礼を言った。
何かを恐れて言い出せない私にだ。
返す言葉も適切な言葉も浮かばないまま、いまだ顔を真っ青にしている少女が、酷く淀んだ目をして言った。
「私、やっぱり…要らない…ですよね?」
仕方ないと諦めるような口調で、それが当然と言わんばかりの諦めた笑みで。
そんなことはない、と言いたい。
それなのに言葉が出てこない。
私はゆっくりと顔を出し、彼女のそばまで行って腰をかがめる。
なるべく目を合わせないようにして手を差し出した。
「……シェリーちゃ…」
隣から聞こえた不安げな声に顔を上げず、ただその手が重ねられるのを黙って待つ。
私の次の行動が読めているんだろうか、彼女を渡すまいと必死に左右からしがみ付いているのが視界の端に映る。
「…だいじょうぶ。だいじょうぶよ。」
安心させるような穏やかな声と手が、やんわりとふたりを拒絶する。
そして、小さな手が重ねられた。
同時に視界が切り替わる。
「っ!――ここ、は…」
「私の部屋だ。」
日のあるうちに戻ったことはなかったが、こんなにも質素であったかと私自身驚く。
豪華な調度品や家具とは裏腹に生活感がないというか、飾り気のない部屋だ。
「………なぜ……」
茫然と、本当に意味が分からないとでも言うような表情に私は深く頭を下げた。
「あなたの記憶を覗いてしまった。申し訳ない。」
まだ重ねられたままの手を握りながら言う。
「え…」
この謝罪は、自分の為だ。
情けない。
魔王ともあろう者が、ただこの人に拒絶されたくないが為に頭を下げるなど。
その手を離せないなど。
魔素で構成されたはずの私が、たったひとりの記憶を見た程度で揺らぐなど。
そのせいで、涙を、流すなど。
「私は、例え意味は異なろうと酷い言葉を投げかけてしまった。どうか、許さずとも続きを知って欲しい。」
私は、彼女を見限った家族や元婚約者とは違うことを知って欲しい。
顔を上げれば、今まで感じたことのない熱い雫が熱を奪いながら頬を伝う。
「あなたに向けて言ったのではない。貢ぎ物など要らないと、言いたかったのだ。返してきなさいと、続けるつもりだった…決して、あなたが思ったような意味ではない…!」
あの料理屋で、どれ程努力して苦労してすり減らして、それを全て飲み込み我慢して気丈に振る舞っていたのだろう。
知らぬ土地で、殺されていたのかも分からない状況で、どんな思いで毎日を生きていたのだろう。
料理屋を自分の居場所だと言った彼女は、自分で一から築いた場所で彼女は、どんな思いで、私に自分のことを要らないだろうなどと言ったのだろう。
「どうか、自分に価値が無いなどと思わないでくれ…!!」
彼女の記憶に感化されてしまったのだろうか。
それでも良い。
伝わって欲しい。
「恐れられるだけの私を笑顔で受け入れてくれたあなたは、何よりも代えがたい存在だ…!」
今まで驚きに見開かれていた薄茶の瞳が、揺らいだ。
揺らぎが震えになり、ついには端から零れ落ちる。
「…ありがとう、ございます…」
淡白に呟かれた言葉に私は言葉を飲み込む。
届かなかったのだろうか。
不安になる。
まだ、彼女は全てを諦めてしまいたいのだろうか。
「ありが、とう…」
ポタポタと雨のように落ちていく涙を見ながら恐れに似た気持ちを抱く。
彼女の手が、私の手を握り返した。
強く。
爪が食い込むほど、強く。
「ありが…っぅ」
沈みかけていた気持ちが浮上していく。
今までせき止めていたものを解き放つように、体を折り曲げて泣き叫ぶ彼女の手を優しく握り返す。
「……少しは、伝わっただろうか…」
小さく尋ねれば、同じくらい小さな声ではい、と応えてくれた。
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