第20話 歪み。
あれは微笑みかけてくれたのかしら?
少し疑問に思うくらいの変化だったけれど、それでも柔らかくなったのは間違いないと思うと気分がまた高揚した。
一歩引いた接客をしっかりしないと、と思っていたのにこんな言葉一つで嬉しくなってしまって良いのかと複雑な気持ちになるが嬉しいことは嬉しい。
「嬉しいことでもあった?」
「え?―――ええ!」
照れたように笑うと、皆笑い返してくれる。
今日はお客さんも皆ご機嫌で体が羽のように軽くいつまでも動いていられる気がした。
私、そんなに顔に出やすかったかしら。
さすがに何人ものお客さんに言われて私は首を傾げた。食器を下げ、テーブルを拭き、新しいお客さんを迎える。
周りを見回すと、ちょうどあのひとが立ち上がった。
お会計ね、と私はレジへ回る。
「…スープも、美味かった。」
そう言われてまた私の頬が緩む。
「良かったです。少し、お疲れのように見えましたので…」
はい、とお釣りを手渡しと彼は驚いたように紫の目を丸くした。
そんな表情も新鮮で私はまた笑ってしまう。
距離を感じて、距離を取ろうと思っていたのに、距離が縮まった気がして喜んでいる自分が滑稽で、彼を見ているとそんな自分が更に誇張されているようで笑いが止まらない。
「そんなに、おかしいか?」
「いいえっすみません、私…」
私は呼吸を整えて首を振った。
「笑い過ぎてしまいましたわね。ごめんなさい。ちょっと私、変に気を張っていたみたいで…」
私のことを好ましく思っていようとそうでなかろうと、メリィさんたちのため良い給仕を目指していれば良い。
そう思っていた。
それが、今こんなに自分本位な感情でお客様と接している。
もうここではきっと、自分の心を殺してひとと接することなんてできないのね。
そう思って顔を上げる。
紫の瞳が困惑したように自分を見下ろしていて、それをとても尊く感じた。
「ありがとうございます。」
怪訝に首を傾げた彼の半歩先を歩いて、いつものように見送りをする。
「…また、来る。」
私は微笑んで頷いた。
「…いつでも、お待ちしていますわ。」
私だけのお客様。
少しだけくすぐったい気持ちが、だらしなく緊張感を失くす。
給仕を始めてから、私に会いに来てくれるお客さんも増えた。
珍しがったり、興味本位だったり、常連として仲良くしてれたり、理由は様々だ。
その中でも、私は…いつの間にか彼を待っていて、いつの間にかそれを楽しみにしていて、いつの間にか焦がれるようになっていた。
『あのお方とあまり親しくしてはいけないよ。』
デリーおばあさんの言葉が蘇る。
恐ろしいお方だから、と。確かに皆怯えたように距離を取っていたけれど、私はそうは思えない。
確かにお顔は少し怖いけれど、何か文句を言う訳でもないし高圧的でもない。
バドム様の方がよっぽど暴力的だったわ。
きっと勘違いしているのね。
「…っ?」
脳裏に黒髪の良く似た人がふっと浮かんでは霞む。
同時に痛んだ胸を押さえて、正体不明の不安に眉を寄せた。
何だったのかしら、今の。
「シェリーちゃん!?」
顔を上げて呼ばれた方を見れば、メリィさんとコボルトさんがこちらへ向かって走っていた。
あら、メリィさんの淡い黄色のカーディガンがとっても可愛いわ。
おしゃれして行って…どうして帰ってきたのかしら。まだお昼過ぎなのに。
「シェリーちゃん大変!!」
「噂だ。ただの噂なんだがな。」
二人とも慌てた様子で私に詰め寄る。
私はとりあえず落ち着いてとメリィさんの肩に手を伸ばしながら詳細を問う。
「どうしたんですか?」
「人間が、こっちに攻めてくるって…!!」
時が、止まる。
カランコロンと鳴る扉、トットちゃんの跳ねる足音、店から漂う湯気、空を流れる雲までが全て遠くのことのように思える。
「それ、は…どういうこと…です…?」
「噂よ?噂、なんだけど…」
気まずそうに言葉を飲み込んだメリィさんの代わりにコボルトさんが引き継いで説明してくれる。
「人間の国へ行くのが好きなゴブリンが耳にしたらしい。近く軍を編成し魔王国へ攻め入るって…その、それで、お前は大丈夫かと思って戻ってきたんだ。」
私は混乱した頭で考える。
大丈夫?私が?大丈夫って、何が…?
「ここか!?」
町はずれの方からたくさんの足音が響いてくる。
「ここだな!!人間がいる場所は!」
懐かしくも思える、凹凸の激しい顔、小さな体。
あれは、ゴブリン達だ。
「な、なんでゴブリンたちが…!」
メリィさんが叫んで混乱したままの私を背へ庇うように立ち、更にその前にコボルトさんが立ちはだかる。
「お前、裏切り者だな!人間を引き渡せっ!」
「馬鹿が。この子を引き渡しても人間は攻めてくるぞ。」
「そんなコトねぇ!!」
ゴブリン達は地団駄を踏みながらコボルトさんとにらみ合う。
そんな中、彼は小さくメリィさんと私を見て囁くように言った。
「早く中に入れ。なんとか誤魔化す。」
メリィさんの判断は早かった。
こくりと頷くと私の腕を掴むと大きく開いた扉に放り込んで、素早く自身も中へ身を躍らせる。
転がるように入ってきた私たちをお客さんは立ち上がって茫然と見ていたが、すぐにトットちゃんとブルさんが異常を感じてそばに駆け寄ってくれる。
「どうした!?」
「何があったの?外のゴブリン達は何?」
口々に疑問を投げかけられて、私は訳も分からずただ他人事のように周りを見た。
「シェリーちゃんを誘拐した奴らよ!また誘拐しようとしてるの!!」
メリィさんが怒鳴るように声を張り上げる。
柔らかい緑の瞳が怒りに細められ、周りの雑音が引いていく。
「何!?許せねぇ!」
私はブルさんの顔を見て思い出し、そのエプロンの裾を握った。
「外。外に…コボルトさんが…」
「何、ゴブリンだろ。構わねぇが…俺たちの土地を踏み荒らす気なら容赦しねぇぞ!」
そして次の瞬間にはたくさんの足音が地鳴りのように響いた。
お客さんが皆して外へ飛び出していく。
腰を抜かしてしまった私はそれを見送ることしかできなかった。
隣についていてくれるメリィさんとトットちゃんが、私を隠すように両側から抱き締めてくれる。
「絶対に、渡さないわ…!」
「大丈夫だからねっシェリーちゃん!」
二人が、私のために怒ってくれている。
その姿が眩しくて、まだ整理のついていない頭が勝手に涙腺を刺激する。
人間が、攻めてくる。
私はその人間なのに。
私を真っ直ぐ信じて守ろうとしてくれる。
「ふ、ぅっ…!」
ありがとう、とその言葉が口から出ない私を宥めるように二人が優しく背を頭を撫でてくれる。
しばらく続いていた騒がしい音が突然、す、と引いた。
そしてゆっくりと扉が開き、知っているような人が知らない瞳で入ってきた。
「無事か。」
その真っ黒な瞳を見て、思い出す。
『要らぬ。そんなもの。』
私は全身で、悲鳴を上げた。
「ぃ、いや…いやぁぁぁあああ!!!!」
やめてやめて。私をそんな目で見ないで。
どうかお母様、お父様。私を見捨てないで。
どうか、私の言葉を聞いて。
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