第16話 初、初、初


「失礼します。…魔王様?」


 小料理屋から帰ってきてすぐ、例の如くバゼルが報告に入室してくる。

 あれからあの区域周辺の情報を色々資料をまとめてくれたらしい。


「聞いている。」


 私は顔を上げられずそのまま続きを促すように言った。


「……あの女、魔王様だと気付かなかったようですね。」


 しれっとした顔で私が考えていることを言い当てられ、私は顔を上げる。すると彼はまたいつもニヤついた笑みを浮かべていた。


「……………そうだな。」


 魔王様の命令で、というようなことを彼女は言っていた。

 つまり、彼女は瞳の色を変えていただけの私を当の魔王だと気付いていなかったわけであり、それを良いことに私は店主や従業員に魔王であることをできる限り内密にせよと命じてしまった。


「面白いでしょう。」


 そうバゼルに言われても、私は肯定も否定もできない。


「面白い…よりかは、不可思議だ。」


 あるいは変、とも言い表せるだろうが、本当に不思議に思った。

 最強と謳われる飛竜種ですら私に怯えるというのに、魔力をいくら抑えようが瞳の色を変えようが私を見れば怯えた顔で走り去っていくか失神する魔族で溢れているというのに、

 彼女は、私に微笑み、笑いかけたのだ。


 初めてのことだった。


 非力な者と普通に話すことができる。それだけでもどれ程貴重な経験か。


「人間だと魔力差が分からないから平気なんですかね。それとも、単に愚…鈍いだけでしょうか。」


「バゼル…」


 半分以上思ったことが出てしまっているが、本人は全く悪びれもなくその場に立っている。

 私は咳ばらいをして頷いた。


「まぁ、そうだな。その可能性は高いだろう。だが、それでも――」


 それでも、彼女と謁見室で対峙した時は私の顔を見てこの世の終わりのような表情をしていた。

 魔王国へ来て魔族に対しての免疫がついたのか、それとも関係なしに私を魔王ではないからと警戒心を解いていたのか。


 考えれば考えるほど分からない。


『感謝を噛み締めておりました。』


 魔王である私の前で、神に祈るかのように両手を組んでいた彼女を怖がらせまいと、初めて笑いかけてくれた人を怖がらせまいと、私は嘘をついた。

 

『今から念話で話をする。内容は今まで私たちが話していた内容と変わらないから安心するといい。』


 そう言うより他、どうすれば彼女が怯えずに済むか…いや、どうすれば普通に私が他者と話ができるか分からなかったからだ。


 私は彼女を利用している。


 バゼルにも他者と交流を図るために自ら出向こうと言えば、何も言われなかった。

 バゼルがいなければ国を回すことができない魔王がいてたまるものかと常々思っていた私にとって彼女は渡りに船。必要だと思った。


 月日が経ち、小料理屋へ通うことも慣れた私は悩んでいた。


 どうすれば交流を広げられるのか。


 最初は大分距離も大きく開いていた隣のテーブルには普通に客が座るようになったし、常連であろう客からは畏怖の目で見られることも少なくなった。

 しかしそこからなかなか進まない。


 まずは目を合わせるところからと視線を動かしてみても、誰も私と視線を合わせようともしない。


 それは城内では慣れた光景ではあったが。


 毎度倒れられたりしては互いに気を遣うからとひとりで食事をするようになったのが悪いのだろうか。

 だからこそ多少賑わう小料理屋はとても居心地が良く息抜きにもってこいなのだが、私はあそこへ交流を求めに行っている。

 少しでも民の心を感じ、国政へ活かせないかと。その為には話が必要だ。

 日常生活ですら ままならない私がそう言えることではないのだが、目標はそこにある。


 良き暮らしの為。私が生まれ、魔王となったことに意味を見出したいと、そう思っている。


 今のままで十分良くやっておられますとの意見は嬉しいことに意見書でも何度か見たことがある。

 では、奴隷制度が撤廃できたか、魔族間での上下関係の均衡化はできているのか、と聞かれれば嘘でも首を縦には振れまい。


 だからこそ、まずは最初の一歩として、こうして無理やり彼女を繋がりとして持ちここへ通っている。

 だがまさか彼女本人に何故私を見ても怯えないのかなど聞けるはずもない。


 邪魔する。

 うまかった。

 また来る。


 それ以外の言葉を発することがなくなってからは焦りが増した。

 それでも彼女はいつも笑顔で返してくれた。わざわざ見送りにまで出て。


 またお待ちしております、と。


 それどころか、私を見て怯えて逃げていく客を見ると申し訳なさそうに謝ってくれるのだ。

 私のせいだと言うのに、彼女はそんなことはないと。

 お世辞でも、それはどれ程ありがたい言葉だろうか。


 薄茶の瞳が私を捉える度に言葉が出てこなくなった。

 どうすれば話が、交流ができるようになるか、そればかり考えている。


 そして彼女はまた私の口を閉ざす。


 名前。


 皆持っていて然るべきもの。

 

 私にはそれが、無い。


 気が付いた時には既に生を受け、育てられるまでもなく、ただ流れに身を任せていたら魔王と呼ばれるようになったこと。

 前王から助言は貰っていた。自分で好きに名乗れば良いと。私もそう思ったが、様々な葛藤でいまだ自分の名前を持っていない。


 マーリン、ルイ、サルヴォロ、アーサー…

 自分の中の魔素が思い付く名を全て震えるほどに否定しているのだ。


 自分でも分からないが、多くの魔素が高密度に交わり生まれた体だからなのだろう。

 細胞のひとつひとつが私に知識を与え、自我を形成しているのと同じように、私は自らの魔力に枷を掛けられている。そんな感じだ。


「はぁ…」


 私は薄暗い寝所で重々しくため息をつく。


 名が無いとは言えずに、とっさに明かせないと言ってしまった。その時の彼女の表情が思い浮かぶ。

 驚いたような顔だった。だがいつも柔らかく細められる瞳が、震えていた。惑うように、怯えるように。


 私は彼女すらも怯えさせてしまったのだろうか。

 初めて顔を合わせ笑ってくれた彼女の、初めて面と向かって言葉を交わせた彼女の、初めてまた待っていると送り出してくれる彼女の、その透き通るような薄茶の瞳すら次は合わせてくれないのか。


 今はそれだけが気がかりで眠れない。


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