クロスチャイルド 第1章 ミラク編 1 [3/3]
クロスチャイルドは生物学上どこにも属さない。
もちろん人間でもなければ、それぞれの元となった動物の仲間にもなれない。
「世界で10体しかいないんだよね。」
「ええ、とても貴重です。」
その中の一体であるユキをアーサーは恍惚とした顔でまじまじと見た。
「一度でいいからユキが戦う瞬間を見てみたいよ。君が戦うなんて想像つかないよ。肌なんか真っ白で、手足もしなやかで、君が痕跡が無い。」
ユキは、座ったまま足を180度開脚し、そのまま背中を丸めて前に倒れた。
手のひらから胸まで、ぺたりと地面に押し当てた。
冷たい床の感触が、肌を伝った。
「戦いの現場はアーサーには似合わないよ。」
エキゾチックな南国の顔立ちで褐色肌のアーサーには、あの血生臭い現場は似合わない。
灼熱の太陽の下で、屈託のない笑顔で笑っているのが最も似合う。
率直にユキはそう思ったからそのまま伝え、それと同時に大体のストレッチを終えたので、ランニングマシンへと移動した。
「ユキはこの施設直属のクロスチャイルドだから、任務がたくさんあって大変だよね。この施設とガーランド博士の護衛と、外の任務に。眠る暇もなさそうだ。」
「そんなことないよ。レグルスが管理してくれている」
レグルスは優しく頷いた。
「そう?なら良かった。ユキに負担が無ければそれでいいさ。この施設には世界に10体いるはずのクロスチャイルドのうち、2体しかいないんだから。」
世界に散らばったクロスチャイルド達は、基本的に国の要人の護衛や生物兵器として、第一線で活躍している者がほとんどだ。
ユキはハダルというクロスチャイルドとともに、この施設を守るクロスチャイルドとしてこの場所に住み生活している。
「しかし…人間と他の生き物を掛け合わせて新たに命を作るなんて大胆なことするよ。しかも意思をしっかり持っていて、見た目は完全に人間だ。まぁユキ達クロスチャイルドの身体能力は人間平均数値からかけ離れているけどね。」
オリンピックに出たら全ての種目で君が優勝さ!とアーサーは笑う。
屈託のない笑顔が眩しく、ユキは苦笑いをした。
アーサーはいつもそんなふうに誉めるけれど、ユキはそんな特別な存在でないことを嫌というほど知っているからだ。
プロフィールは時に残酷だ。少しでも人と異なるところがあれば誇張して特別な存在に見えることもあるし、または異質なものとして排除の対象となる。
世間一般のブロフィールからかけ離れた自分。
ただひたすら、何も考えず、何も感じずに毎日を過ごす日々。この一年、何をしたかと聞かれると何も答えられない自分。
時にそれがどんな凄惨な現場でも心の中には何も残らない。
何もない日々を繰り返していつかこの命の終わりが見えた時に、自分は何かを残せていたのだろうか。誰の記憶にも残らないであろう自分の未来を想像するだけで怖かった。
ユキはその言葉の先を考えることはせず、ただ意識を走ることに集中させた。
一歩一歩進むにつれ、どこまでも走れるのではないかと思うほど足取りは軽い。
生まれからして人間を遥かに超える身体能力と、受け継いだ野生の本能が、どこまでも神経を集中させる。
ランニングマシンの時速は60キロメートルまで達していた。
ユキにはアーサーもレグルスも視界に入らなくなっていた。
クロスチャイルドは作られた生物兵器であるため、遺伝子をゲノム編集技術により人為的に操作し、1+1は10にも20にもなり、通常では考えられないほどの高い身体能力を持って生まれてくる。
ユキの場合は、どこまでも高く登れるしなやかなバネのような体と、通常時は人間と同じ平爪だが、戦闘時には鋭く尖った切れ味抜群の爪に瞬時に変わり、近づいて来るものを八つ裂きにするという、どう猛な性質を持つ。
さきの摩天楼での任務もこの爪一つで仕留めたのだ。
「人間の頭脳を持ち、生物の身体能力を持つ…か。天は二物を与えたようだ。」
ー天ではなくて、博士だけどね。と茶目っ気を帯びた目線でレグルスに訴えると、「都市伝説化していますがね、それがかえって良かったのでしょう」とレグルスは返した。
それから少しだけ間をあけて、レグルスは続けた。
「…前回の任務は、少し人目にふれてしまったそうです。」
「噂になってる?」
アーサーは何かを打ち込んだり、細々としたことをやっていたが、手を止めてレグルスを見た。
レグルスは常にユキから視線を外さないまま、話をさらに深めた。
「多少は。しかし、我々には世界政府が後ろに控えていますからね。」
「なるほど、情報操作はお手の物だ。迷宮入りさ」
「抗争の末にマフィアのボスとその側近の死という事で今朝方ニュースになっていましたよ」
「仕事が早いね。」
「死人に口なし、とでも言いましょうか。」
「恐ろしいな。」
この世界で生きていくには何よりも必要なものであるものが情報だ。
それでも人々は作られた情報に踊らされていることを本当は知らない。
クロスチャイルドが自ら率先して誰かを襲うことはないが、管理元である雇い主の命令は絶対であり、敗北は死へと直結するため、常に死と隣り合わせの任務を日々こなしている。
疲れたと言ってやめてしまえば、または任務で後遺症でも残ってしまえば、最悪死んでしまったとしても、すぐに新しい後釜が用意される。自分からやめるという選択肢はない。そのために生まれたのだから。
「ユキ様にとっては、何のことない、任務のうちの一つに過ぎないのでしょう。」
「ジェフリー博士の命令は、ユキにとっては絶対だからね。」
無心で走っていたため、60分はあっという間に過ぎた。
ランニングマシンがクールダウンのため速度を急激に落とした瞬間まで気づかなかった。
「ユキ、お疲れ様。」
スポーツドリンクを手渡しながら、にこやかな表情でアーサーが労う。
その真後ろにユキが今朝訪ねた人物がいた。
「おはようユキ、調子は良さそうだね。いつも言っているけど、朝食はちゃんととろうか。」
レグルスが今朝のユキの状態を誦じ、それを確認しながら、その男は柔らかな笑みを作った。
この男こそが、クロスチャイルドの生みの親、遺伝子工学の権威であるジェフリー・ガーランドだ。
60歳はゆうに越える年齢なはずだが、常に自分の体を研究材料にし、30歳程度の年齢を保っている。
皮膚移植や臓器移植・はたまた不老不死の薬の開発など…噂は一人歩きし、彼のオリジナルのパーツは脳以外、すでにないという噂だ。
しかし、彼自身が元々幼い容姿をしているため、そもそもが年齢不詳であり、さらに噂なのでどこまで本当かはわからない。
噂を信じるたちではないが、実際にそうなのだろうな、と思わせてしまうのがこのジェフリーという男だ。
サラサラの枯茶色の直毛に、垂れ気味の優しげな瞳に黒縁の眼鏡をかけ、いつも白衣を着ている。
青白い顔にこけた頬が儚さを強調して、弱々しさを演出していた。
何を考えているのかよくわからない、柔らかな物腰とは対照的に腹の底が見えない男だった。
「ジェフリー、今日は3日後の任務の打ち合わせって聞いたんだけど。」
「そうそう、その件で来た。日程が早まったんだ。ちょっとバタバタしていてね。ここではなんだから研究室で話そう。トレーニングが終わったら来て欲しい」
ジェフリーの表情はあまり良いとは言えない不思議なニュアンスを含んでいた。
今月入ってすぐに言われた任務で、内容も場所も何も知らされておらず、他言無用のシークレット案件だと言うことは聞いていた。
ユキの飼い主はジェフリーである。
ジェフリーの命令は絶対であり、ジェフリーが右といえば右で、赤と言えば、青いものも全て赤となる。だから何の任務であってもユキに拒否権などなかった。
ただ与えられた仕事をこなして生きていれば、それでよかった。
「ガーランド博士。ユキのトレーニングはあと筋トレとクールダウンのストレッチだよ。待たせず行けると思う。」
アーサーは先ほどユキにも見せた笑顔をジェフリーにも作った。
彼は誰に対しても平等で態度を変えない、明朗闊達な男であった。
「…アーサー。君も来てくれるかな。」
アーサーは鳩が豆鉄砲を食ったような表情を見せた。ユキも驚いた。
基本的に彼はこの施設のパーソナルトレーナーで、任務に関わることはほとんどと言っていいほどない。
それが呼ばれるとなると、やはり何か構えてしまうのは仕方がない。
レグルスも驚いたように目を丸くしていた。
「…オーケー、わかったよ。ではユキとレグルスと向かうよ。」
一瞬の間を置いてから、アーサーはいつもの調子で答えた。
「ありがとうアーサー。ユキ、レグルスでは後ほど。」
独特な雰囲気を持つ男だ。と思う。
ユキがしんしんと降る雪のような静かなイメージだとしたら、ジェフリーはさらさらと流れる小川のような、清流が柔らかな陽の光を浴びているようなそんな姿を想像させる。
どちらにせよアーサーのような男らしさとはかけ離れている二人だ。
ジェフリーは普段研究室にこもっているため、肌は透明に近いのではないかと疑うほど青白く、運動もほとんどしないため、華奢を超えて骨が浮いている。
ユキと同じくらいの身長なのだが、その細さゆえに、ユキよりもひとまわりほど小さく見え、とても頼りない印象を与えるのが彼だ。
もっとも、彼の見た目の話なだけで、彼の研究はその外見とは180度真逆の血生臭いものである。
クロスチャイルド研究施設は、存在そのものがこの世界のことわりから逸脱している。
優秀な遺伝子を探し出し、その命と命を掛け合わせて生物兵器を生み出し、それを国家の軍事予算を遥かに上回る金額で売りつける。
はたから見たら夜叉以外の何物でもない。
命を弄ぶマッドサイエンティストだという声も少なからずある。
それでもそんな噂からは逸脱したような、浮世離れした雰囲気がジェフリーにはあった。
不思議な男だ。一言ではとても言い表せない。
ユキは一通りのメニューをこなしたのちに、三人揃って研究室まで向かった。
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