クロスチャイルド 第1章 ミラク編 1 [1/3]
「ユキ様、おはようございます。」
気心の知れた声がして、ユキは目を覚ました。
長い髪が尻尾のように揺れながら離れていくのを、寝ぼけまなこで見つめていた。
体を起こし、窓の外を見やると、ガラス越しの世界は一面真っ白で雪が降り積もり、絹を敷き詰めたようだった。
人が通った形跡はなく、何の音もしない。
何も動かずに時が止まっているかのようだが、ユキにとってはいつもの光景なので、特に感動もなければ何の感情も抱かない。
いつも通りの朝が来た。
「夢か…」
先ほどまでの夢は先日の任務だ。夢を見るときは目が覚めても忘れることはなく、はっきりと覚えている。
今でも人の肉を食い込み、切り裂く瞬間の感触を鮮明に思い出し、自分の中に押し込んでいた獣の本性がじわりと背中まで迫ってきたような気がした。
視線を寝室に向けた。とても寒く無機質な部屋だ。
銀や白の冷たい印象の家具が並んでいて、そこに生活感はまったくない。
隣接するリビングルームも似たような印象で、一人暮らしの男性の暮らしと考えるとこんなものだが、ユキ自身が望んで買ってきたものはこの中に一つもなく、全て与えられたものを何の抵抗も無く受け入れ、そこで暮らしていた。
欲しいものがなかった。何かに執着することもなかった。
感情に揺さぶられることもなかった。
ただつまらない毎日を繰り返して生きていた。
ユキはベッドを降り、冷たい床に素足を乗せて音も立てずに歩き、ベッドの脇にあるクローゼットに向かう。
紺のスラックスと白いワイシャツにネクタイ-施設の制服に身を包み、よく手入れされた革のブーツを履いた。
ジャケットは煩わしかったので、羽織ることはなく手に持った。
リビングルームに足を運ぶと、すでに待機していたユキの専属秘書であるレグルスがお茶を淹れているところだった。
お湯は白い湯気を空へと舞い上がらせて、規則性を持ってティーポットに落ちていく。
「朝食のご用意ができておりますよ」
レグルスは眼鏡をかけた線の細い男性で、亜麻色の長い髪をいつも後ろで結っている。
いつもきっちりとしたスーツ姿なのに、長髪であることがアンバランスではあるが、そこに何故か違和感を感じない不思議な雰囲気の男であった。
ユキは彼が寝たり、食事を摂っているのを見たことがない。私生活は謎に包まれた男だ。
ユキの生活面を管轄し、食事・スケジュール調整など身辺面の補助の役割を担っている。
特にユキは生活面において、レグルスがいないと何もできない。
「…うん」
ユキは目を合わせることもなくテーブルに着き、用意されてたハーブティーとビタミン系のサプリメント、それから決められた量のブドウ糖を摂取した。
食事はいくらでも食べようと思えば食べられるが、2・3日食べなくても平気で、特に何のこだわりもない。
サプリメントもお茶も栄養士がユキの体に合わせて調合したオリジナルだ。
レグルスが用意したタンパク質多めの朝食には手をつけることは無く、手短なやりとりをして、ユキは寝室の隣にあるバスルームに移動した。
洗面台の前に立ち、手早く顔を洗う。
丁寧に洗い終えると、手に届く位置に用意してくれていた柔らかく仕上げられたフェイスタオルで丁寧に顔を拭いた。
鏡に映る自分の顔をじっと見つめると、当たり前だが見慣れた自分がそこにいた。
象牙のような肌にはシミや吹き出物一つ無く、とてもきめ細かい。
少しつり上がり気味の大きな瞳。
内側から発光しているみたいなシルバーグレーの髪と対照的に、錫色の瞳からは何の表情も読み取れない。
柔らかな猫っ毛は、今日は調子がいいようだ。
特に寝癖もなかったため、一瞥しただけでユキは踵を返し自室を出た。
「いってらっしゃいませ、ユキ様。」
レグルスが見送ったが、ユキはそれに応答することはなかった。
これがユキの朝のルーティーンだ。
生まれてから16年経つが、幼少期を除いてこのルーティーンは崩していない。
病気はおろか、風邪をひいたこともない。体が人より少し…いや、とても丈夫なのだ。
毎日、毎朝、同じことの繰り返し。
昨日もそうだったし、明日もきっとそうだろう。淡々と進んでいく毎日。
ユキの世界は色がなく、感情の起伏もなく平坦な人生だった。
つまらない。と言ったところで日々を変えられる何かを持っているとは思えなかった。
考えることなく与えられた仕事をこなして、家に帰る。
ただそれだけの日々を繰り返し過ごしてそしていつしか寿命を迎える。
きっとそんな人生だろう。
この人生に何か色があるとは思えなかった。
仕事だってそうだ。自分がいなくても代わりはいくらでもいる。
懇意にしている友人もいない。学びたい分野もない。
打ち込めるような特別な趣味もない。夢もないし願いもない。
自分が死んでも世界はまるで自分が元々いなかったみたいに回る。
宇宙の歯車の一つとして、この小さな命が消えたところで世界に何の支障もない。
ただルーティーン化された毎日をこなしていくだけの日々。それがユキの人生だった
自室を出ると殺風景で無機質な廊下に出た。
ドア、床、壁、天井に至るまで全て真っ白で統一されており、その廊下を勝手知ったる様子でどんどん突き進む。
この施設はとても複雑な構造をしている。
迷路のように入り組んでいて、また標識などもない。そのため、道は感覚で覚えなくてはならない。
廊下で何人かすれ違ったが、会釈を返すことはなく、まるでその人の事など全く存在していないかのように、ユキは目的の部屋まで表情を崩さないまま歩き目的地に着いた。
その部屋のドアの横に設置してあるインターフォンのようなものに、人差し指を重ね、「ユキ・クロード。ナンバーセブン。入室許可を。」とつぶやいた。
ユキの問いかけにすぐにコンピューターが作動し、何も全く無かったただの壁から機械音を立ててワイヤーが伸びた。
丸みを帯びた先端を持ったワイヤーは複数現れ、それらは素早くユキの眼前にポジションを構えたり手首を捉えたりした。
顔面をスキャンし、眼球分析、手からは指紋と心拍数をオートで計測し、『ユキ・クロード。確認しました。おはようございます』と、やたら滑舌の良い機械的な音声が流れ、部屋の自動ドアが開いた。
目的の部屋の開錠コードは顔・瞳・声を含むユキ自身の情報だ。
その部屋はユキの自室の必要最低限のものしか置いていない簡素な部屋に比べて、対照的だった。
ものに溢れ、古書が散乱し、空間に浮かぶ画面があちらこちらに表示されていた。
さまざまな色の液体は固まったゼリーみたいにしんとしていた。
奥に並んだホルマリン漬けの動物たちの標本は、不気味な雰囲気を醸しだしている。
ユキはその部屋の主を探したが、目視で確認できる範囲にはいないようで留守だった。
仕方がないので、トレーニングでもしようかと振り返ったときに、何やら騒がしい声が聞こえてきた。
「バイタル確認して!」
「しっかり!」
とバタバタ走る音と叫びにも似た声が近くでする。
その声を聞いてユキは、-あぁ、今回も失敗だったのかな…とぼんやり考えた。
今から人が死ぬ。
または、もう既に手遅れかもしれない。
だけどそんなことは日常茶飯事なので、心のどこも痛まない。
人は生まれて死んでいく。
当たり前のことを順番に繰り返しているだけ。
遅かれ早かれ誰もが平等に死を迎える。ただそれだけのこと。
どうやら今は目的の人物に会えそうもないな…と悟り、ユキはトレーニング施設に足を向けた。
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