或る搗色鯨の手記

搗鯨 或

2020.12.28

「どうかした?」

 22時過ぎ。駅前の蕎麦屋に僕と彼女はいた。蕎麦屋は意外と混んでいて、黒い服を着た人々が無心で蕎麦を啜っている。

「いや、ぼんやりしてた、だけ」

 黒いコートを着た彼女はそう呟き、無心で蕎麦を啜っている。労働後の人間は黒い服で蕎麦を食べる決まりでもあるのか? と鯨の僕は考えた。

 彼女は食べるのが早い。かき揚げをサクサクと食べ進め、同時に蕎麦をずるずると啜っていく。わかめを食べるときはめんどくさそうな顔をしていた。わかめは歯にくっつくから嫌だ、と文句を垂れていたことを思い出す。けど基本、彼女は食べることが好きな人だ。嫌いな食べ物も特になく、なんでも食べる。無表情のときが多くて怖いが、味を聞くとしっかり彼女の言葉で味の感想を伝えてくれる。

 僕は食べることに興味があまりない。創作するときとか、適当な菓子とエナジードリンクを買い貯めて、それを鯨のようにゆっくり消費していく。小腹が減ったら何かつまんで、眠くなったらカフェインを入れる。

 執筆時はそんな爛れた食生活をおくっているが、彼女と食事をするときはなるべく固形物を食べるようにしている。今日はミニカツ丼を頼んだ。僕は少食だからミニサイズが丁度いい。この蕎麦屋のカツ丼は、カツに卵がとろとろと絡んでるやつだった。僕としては、サクサク感があるほうが好きなのだが、美味しいものは美味しいので、これはこれでいい。

「あのさ、」

 とろとろとした黄色い卵を白米とかき込みながら僕は彼女に話しかける。

「書きたい小説があるんだ」

「どんな?」

 最後の一口のかき揚げを咀嚼しながら彼女は僕の顔を覗き込む。その茶色の瞳から期待の色を感じた。

「少女と老人と音楽の話」

 まだ、あまり内容は考えていないのだけど、と小声でつけたす。

「音楽か! いいね」

音楽はいいね。彼女は笑った。


 その後僕たちは、同じ自転車に乗って家まで帰った。頬をきる風は冷たい。冬の夜の街は賑やかだが、寒い。そんな冬の夜の中、コート越しにつたわる彼女の体温がとても恋しかった。

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