それでも


 出会って、2ヶ月くらい経った。私の余命は、あと4ヶ月。刻々と命の終わりが迫ってくる。


 この2ヶ月は、ほとんどの時間を信と過ごしていた。朝から夕方まで。廃屋で会い、廃屋で解散する日々だった。お互い、知らないことは何もないくらいに、様々な話をしてきた。


 信のお陰で、たくさん笑えた。たくさんの知識を得た。時々持ち込んだトランプも、人生ゲームも、いちいち騒がしいくらいに盛り上がった。自分が病気だなんて忘れてしまうくらい、毎日が心の底から楽しかった。


 そして今日もまた、信と話をしていた。


「これ、可愛いねーっ。なんて花なの?」


「ごめん、花の名前は忘れちゃって。でも、かっこいい形してるだろ。南にぴったりだなって思って、買ってきた」


「わざわざ買ってきてくれたんだー!? ありがとうねーっ。だけど、どこが私にぴったりなの? こんなに可愛くないよ?」


 信が今日持ってきたのは、白い花だった。不思議な形をしていて、リボンだと言われればそう見えるし、鳥だと言われればそうも見える。綺麗で、可愛らしい花。


 共に持ってきてくれた花瓶をテーブルの上に静かに飾り、会話を交わしながらじっと見つめる。


「いや、可愛くないと言うわけじゃないんだけど……。南は、かっこいいなと思って。出来事全てを受け入れて、前向きに行動する。そんなの、簡単にできることじゃないから」


「かっこいい、かぁ。初めて言われた。なんか照れるなーっ!」


 言われたことのない褒め言葉に、テンションが舞い上がった。私にとっては当たり前なことも、信に褒められると素直に喜べる。ありがとうね。そう、笑顔を向けようとした時だった。



 信が咳をし始める。乾いた咳だ。私の言葉は咳にかき消されて届かない。



 咳が止まらない。未だ乾いた咳だ。口元を抑え、覗き込む私の視線を避ける信。



 咳は止まらない。少し湿っぽい咳に変わった。眉根を寄せ、目に涙を溜めている。立ち上がり、近付こうとする私に首を振った。



 咳は続く。痰が絡んでいるような咳。苦悶の表情に歪んでいく信を、見ていられずに背中を必死に摩る。



 咳は続いていく。喉の奥に何か詰まっているような咳。呼吸もままならず、椅子から落ちて床に伏せた。私は何もできず、呆然とその姿を目にする。体が、動かない。




 そして




 咳は止む。床に吐き捨てられた、血溜まりと共に。廃屋から、一片の音さえも消し去って。


 信は、動かない。

 信が、動かない。


 私の体が、動かない。

 動け。


 動け。動け。動け。動け。動け。動け。動け。動け。動け。動け。動け。動け。動け。動け。動け。動け。動いて。動いて。動いて。動いて。動いて。動いて。動いて。動いて。動いて。動いて。動いて。動いて。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。お願い。





 動け。



「信っ……!」


 掠れた声が出ていく。同時に、駆け寄る。赤黒い血溜まりに膝をつき、信の肩を叩く。閉じられた瞳。呼吸を確認する。








――良かった…………生きてる。



 確認を終えると、信が指先をピクリと動かす。弱々しく握り拳を作った後、目を開き、私と視線を交わらせた。


「救急車、呼んでくる」


 私が言うと、信は力なく首を横に振る。ぎこちなく上体を起こし、自分の胸元を抑えると溜息を吐いた。本当に救急車呼ばなくていいのか。不安になって様子を見ていると、察したかのようにまた首を振った。


「心配……かけて、ごめんね。……大丈夫……だよ」


 どこも大丈夫そうになんか見えない。けれど私はそれ以上、救急車について触れられなくて、信の側にいることしかできなかった。








 血溜まりに土を被せて消した後、室内の壁に持たれかかって話を聴いた。話しづらそうな信だったけど、隠すことを諦めたように、ぽつりぽつりと言葉を並べた。私は、黙って耳を傾ける。


「南から余命の話を聞いたとき、驚いたんだ。まさか余命が同じ、半年だとは思わなくて。……でも、言い出せなかった。始めは言っても仕方ないって思ってた」


「けど、一緒に過ごしてて、本当に南は死ぬことを受け入れてるんだって実感して……悔しかった。悔しくて、悲しくて、寂しくて、辛くて、怖かった」


「俺ね、明日から入院して、1週間後、手術受けるんだ」


 手術、という言葉に目を見開く。そうか、信は手術を受けて、生きられるんだ。息苦しさが解消される。味わったことのない深い安堵を感じた。私と違って手術ができることに、とにかく安心した。次の言葉を聞くまでは。



「…………成功率は、2%だって」



 思わず、え、と声が漏れる。悲し気に微笑む信。先ほどまでの安堵はどこへいったのか、絶大な恐怖と絶望が胸の内を支配した。


「そんな手術受けてまで、生きたいと足掻くことは、南にとってはかっこ悪く見えると思う。……それでも俺、生きたいんだ」


 沈黙が流れる。重く、長い、沈黙だ。私は一言も発せないまま、ぼんやりと地面に視線を落としていた。


 もし、成功しなかったら。

 98%の確率を、引いてしまったら。


 信は帰ってこない。戻ってこない。二度と会えない。そんなの、現実味がなさすぎて信じられない。信じたくない。


 離れないでよ。


 信の手を強く握る。初めて手を握ることの緊張とか、恥ずかしさとか、そんなもの一切存在しない。怖くて、怖くて、堪らないだけ。自分が死ぬことよりも、ずっとずっと恐ろしい。


「かっこ悪くなんか、ないよ」


 声を絞り出す。震えていることが自分でも分かった。どうして、こんなに死ぬことが怖いんだろう。今まで何も怖くなんかなかったのに。信が死ぬことが、どうしてこんなに怖いんだろう。


「…………ありがとう」


 手を握り返してくれた信が、優しく言った。その温もりに、また少しだけ安心感を覚えて、息を吐いた。

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