第11話  ゆきと葛

 二年の歳月が流れ、嘉永六年(1853年)となった。前年の四月に恵吉は約束どおり、一年ぶりに風自楼を訪い、迪斎てきさいからの添削を受領した。しかしそれから、恵吉は江戸と大棚を六度往復し、そのたびに碑文の下書きを修正させられた。予想どおり、迪斎は時間の歩みを止め、露骨な牛歩戦略に転じたためだ。毎回毎回書き直しを要求するのだが、一回目以降、具体的な指示はあまりなく、しかも以前に行った指示と矛盾することもあれば、一巡して元に戻ることすらあったので、さすがに我慢強い恵吉もしばしば閉口した。

 一度しびれを切らして言ったことがある。

「いっそ五年後に来ましょうか?」

 師はちょっと思案顔をしたあとに言った。

「それは困る。かくも長くお主の顔を見られなくなると淋しいではないか」

 その言葉に嘘はないように思われた。それ以来、師の牛歩戦術についてとやかくいうことはやめ、流れに身を任せようと決めた。


 その年の夏のある日、恵吉はめずらしく風自楼に泊まった。


その日、迪斎はめずらしく上機嫌だった。その年十五歳になる娘のかつらの縁談がまとまり、十日後に祝言を上げることになっていたからだ。恵吉の七度目の下書きについての論評はいつもどおり片手間だったが、すくなくとも書き直しの指示はなかった。その後、ふたりで夜更けまで酒をくみかわした。普段は勉学以外のことはめったに口にしない迪斎だが、珍しく自からの生い立ちや世情について、その晩はあれこれ問わず語りした。恵吉は、本来下戸だが、緊張していたせいか、いくら飲んでも酔わなかった。やはり恵吉にとって河田迪斎という当代随一の大学者は、雲の上のあこがれの存在であると今更ながらに認識すると同時に、よしなしごとの酒飲み話とはいえ、師の謦咳けいがいに直接接することができる自分がほんとうに幸せな人間だと実感できる贅沢な時間だった。だから、心地よい酔いを徐々に覚えるころには、この時間が永遠に続けばよいとなんども思った。


 やがて迪斎は、酩酊めいていしたまま、はばかりに行くと言ってそのままとこについてしまった。恵吉は、ひとりになったら急に緊張の糸が切れ、したたかに酔っぱらっている自分に気づいた。すぐに辞去しようとしたが、足元すらおぼつない。見かねた内室の勧めもあり、というわけで、恵吉はそのまま風自楼に泊まることになった。いつもは近くの寺に泊まる恵吉にとって風自楼に寝泊まりすることは、まったくの想定外だった。


 恵吉は、すぐに寝室に案内された。そこには、迪斎の内室みずからの手によって床がのべられていた。恵吉はひたすら恐縮し、かしこまって謝辞を述べたつもりだが、足元はだいぶふらついていたし、呂律も少し頼りなかった。


 枕元に用意された浴衣に着替え、寝る支度にかかろうとすると、障子の向こうから女の声がした。――かつらだった。恵吉は嫁入り前の娘を夜分、床をのべた寝室に招き入れることに躊躇を感じつつ、着物の衿と裾を整えて、布団の傍らの畳のうえに借りてきた猫の面持ちで端座し、息を沈めてから「どうぞ」といった。

 葛はひざまずいたまま障子を作法どおりに開け、部屋に入ると深々と頭を下げた。そして、自分がまもなく他家へ嫁に行くことを告げた。恵吉は、頭を下げて心から喜びの言葉を述べた。

 そこで葛は顔を上げた。ほんのり上気した顔は、すでに大人の女性を思わせた。内心恵吉はハッとした。しかし、その次の葛の行動はさらに恵吉を動揺させた。葛は、そのまま恵吉の目の前ににじり寄ってきたのだ。恵吉は想定外の葛の行動に呆気にとられていたが、気がついたとき、葛の顔は恵吉の顔と目と鼻の先にあった。葛の息がかすかだが恵吉の顔にかかる。

 

 恵吉は思わずのけぞった。しかし、葛はさらに驚く行動に出た。小さな白い両の手で恵吉の無骨な手を取ったのだ。恵吉は驚愕に顔をひきつらせ、思わず天井を見た。


「恵吉様……どうかご悲願でらっしゃる杉山神社の石碑を無事建立されるようかつらもお祈り申し上げます」

 そう言って、葛は恵吉のひざ元にうずくまったまま、上目遣いでじっと恵吉の目を見た。

 その少し濡れた揺れる瞳を見たとき――恵吉は、一瞬で全身が凍りつくような感覚に襲われ、そして、とあることを確信した。それは、今から三十年以上も前にこの世を去った、妹のゆきに関することだった。


 ゆきは恵吉の二つ下の妹である。兄弟の中でもひときわ元気がよく、気もつよく、賢く、そしてなによりも長兄の恵吉を慕っていた。どこにいくにも兄の後をついてきた。早淵川で遊ぶときも、杉山神社の境内で相撲を取るときも、柿を取るときも、焚火をするときも、野山を駆け回るときも、龍福寺や清林寺の寺小屋で学ぶときもいつも恵吉の横にはゆきがいた。百姓の子供は、小さいころから野良仕事に駆り出されるので、総じて色黒なのだが、ゆきだけは、同じ兄弟の中でも雪の日に生まれたせいか、とびぬけて色白だった。そして黒目がちのくりくりとした目を輝かせながら、

「大きくなったら恵吉兄さんの嫁子になる」

 と少ししわがれた声でいつも言っていた。

 が、かわいそうに十一のころ、破傷風はしょうふうが原因で死んだ。


 ――そのゆきの目にかつらの目が瓜二つだったのだ。そして、恵吉は、これは葛ではなく、ゆき本人に違いないと思った。以前からどことなく面差しがゆきに似ているとは思っていたが、いま目の前にいる葛こそどう見ても、ゆきに違いないのである。のみならず、ゆきは、まさに今日、恵吉と対面し直接激励の言葉を届けるためだけにかつらとなってこの世に生まれ変わってきたのだと恵吉には思われて仕方なかった。そしてふいに幼いころにゆきと二人で吾妻山あづまやまの頂上から見渡した都筑の野山の光景が脳裏によみがえってきた。


 恵吉は涙をいっぱいにため、強く葛の手を両の手で握り返した。葛は満足そうに微笑んで恵吉の顔を見上げたあと「わたくしも一度、大棚村に行ってみとうござりました」と述べると、おもむろに手をひっこめた。


 一方恵吉は、その言葉を聞くと、いますぐにでも葛を大棚に連れて帰りたい衝動に駆られ、さらに気持ちが高ぶった。だから全身を震わせながらそっと葛の細い肩に両手をおき、

「ありがとう。こんどこそ幸せになっておくれよ」

 と言って、子供のようにしゃくり上げながら泣いた。


 葛はじっとうなだれたままだったが、すぐに恵吉のことを追いかけるようにぽろぽろ大粒の涙をこぼし、嗚咽しながらなんども、ありがとうございます、といった。


 ――互いにひとしきり泣いたあと、葛は部屋を出て行った。別れ際、ふたりとも言葉はなかったが、障子が閉まる刹那に互いの顔を見つめあった。その時の親しげで憂いのある、それでいて明るい笑顔も、生前のゆきの笑顔によく似ていた。


 だから葛が部屋を出て行ったあともしばらく恵吉は呆然自失だった。


 妹があの世からよみがえってわざわざ自分に会いに来てくれたのだという思いは、葛の姿が見えなくなってからの方がむしろ強くなり、しばらく興奮はさめやらなかった。もちろん、目の前にいたのは河田迪斎の娘、かつらであることもよく理解していたので、自分はおそらく幻を見ていたに違いないという冷めた思いもどこかにあった。とはいえ、葛といっしょにいたときに味わった恍惚こうこつは、いままでに経験したことのない素晴らしい感覚だった。時間も空間も肉体も、そして生と死の垣根すらも超越したからこそ行き着くことのできる境地のように思われ、正直なところ、叶うものならずっとこの恍惚に浸っていたかったという思いに恵吉は夜更けまでとらわれていた。


 ゆえに、その晩は、いつ眠ったのかよく覚えていない。




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