第10話  共同一致

 作蔵の野辺の送りを済ますと、すぐに収穫、例大祭、つづいて作蔵の四十九日、そして作蔵の不幸で繰り延べになっていた娘さなの婚儀とあわただしい日がつづいた。

 ようやく一息ついたので恵吉はふたたび江戸に向かった。季節はすっかり晩秋である。


 恵吉は天正の水帳を大切に竹網箱にしまい、振り分けものにして肩から提げながら道中を急いだ。


 風自楼に着くといつもどおりかつらが出迎えてくれた。そしてすぐに来意を父親である迪斎てきさいに取り次いでくれた。折よく、迪斎は家にいた。そしてすぐに応接してくれた。


 奥の書斎に通されると、恵吉は挨拶もそこそこに、さっそく天正の水帳を師の前に差し出した。なにも言わずにすぐにその古文書を手に取った迪斎はまさに眼光紙背に徹すほどの勢いで読みふけった。そして穏やかな表情で水帳を丁寧に閉じながら「本物である」といった。恵吉はほっとした。


「では石碑へのご揮毫きごうの件、ご快諾いただけると考えてよろしいでしょうか?」


 しかし迪斎はうーんと唸ったあと、長いあごに手をあてたまま柔和な表情でこういった。

「恵吉よ、お主、なんのためにこれを成し遂げたいのじゃ?」

「村の誇りと団結を取り戻したいのです」

 恵吉は迷いなくそう返答した。


 それは恵吉の本心だった。村の団結は、このところ失われつつあった。バラバラになりつつある村民の心をつなぎとめるための何かが必要なことはあきらかであるが村にはこれといった名所や行事や産物があるわけではなかった。あるとすれば、杉山神社こそが最適だった。杉山神社を式社としてひろく周囲に認知させ、神社の権威を確立することで、村の安寧を祈願するとともに村民の誇りを取り戻し、村の団結につなげたいという恵吉の言葉には嘘はなかった。


 師である河田迪斎かわだてきさいは恵吉の返答に満足気にうなずいた。しかし、目は笑っていない。

「それはよい心がけじゃ――だがのお、お前ひとりの趣味や道楽であってはならんし、もしそうならわしはこれ以上、力になることはできぬ」

 恵吉は師がなにを言わんとしているか測りかねる様子で即座に反論した。

「自身の道楽などでは決してござりませぬ。すべては村人のためでございます」

「では費用はお前がすべて負担するつもりか?」

「はっはい、その通りです。残念ながら村人の多くは費用負担してまで石碑建立への意義を感じておりません」

 迪斎はやや険しい顔つきで小刻みに首を横にふる。

「それがいかんのじゃ。お主は村人の心に寄り添っておらぬ。だから受け入れらぬのじゃ。費用負担してまで意義を感じておらぬじゃと?それは石碑のありがたみも感じておらぬということじゃろ。そんなもんを作って村人のためになると思うか?お主はただ単に自分の満足のためだけに石碑を建立しようとしているのではないか?よいか、恵吉――村民すべてが平等に負担して石碑を建てること、それのみにこそ、この事業の本当の意味があるのじゃ。お主のひとり相撲であっては断じてならぬ!」

 そういって、迪斎は水帳を恵吉の足元に返した。


 恵吉の唇はわなわな震えていた。

「出直してまいります!」

 すぐに、恵吉は水帳を振り分けものの竹網箱にしまうと編み笠を手にして帰り支度を始めた。

「おい、待て。泊まるあてはあるのかえ?定まっておらぬのなら家に泊まってゆけばよいぞ」

 とさすがの迪斎もすこし薬が効きすぎたと思ったのか、めずらしくおもねるような愛想笑いの表情で恵吉を引き留めようとした。しかし恵吉は、

「いえ、結構でございます。このまま大棚に引き返します」

 と、なかば師の好意を振り切るように立ち上がると躊躇なくきびすを返した。


 体中が震えていた。恥ずかしさでいっぱいであった。自分のやろうとしていることが、自己満足でしかないということを師に見透かされていたこと、そして自分でもそのことをうすうすわかっていながら、あえてその疑念に蓋をして、しかも本懐をわすれ、水帳開示の合意が得られたということのみで厚かましくも意気揚々と師の前に出向いたおのれのおろかさと弱さが、心から恥ずかしく、情けなかった。


 玄関から出ていこうとする恵吉をみとめたかつらが「栗原様……」とその後ろ姿に呼びかけたが、恵吉の耳には入らなかった。年甲斐もなくあふれる大粒の涙が恵吉の黒光りした頬を濡らしていた。しかし、恵吉は、その涙をぬぐおうとはしなかった。そして秋風にさらすことを自らに課すかのように夕暮れの江戸の町を前こごみになって速足でかけぬけた。


 大棚村に戻った恵吉は、数日後に開かれた寄合でさっそく石碑建立への献納金について名主衆に懇請を行った。しかし名主衆は話に耳を傾けてはくれたが、松治郎以外、誰も首を縦に振ってくれなかった。松治郎はこの時も、積極的に同意してくれたわけではなかったが、おそらく恵吉にだけわかる程度に小さな首肯しゅこうをくりかえした。


 やはり最大の難関は藤兵衛と善兵衛だった。この二人の名主を説得しない限り、これ以上の進展は望めないと恵吉はおもった。


 そこで、翌晩から毎日のように二人の家をそれぞれ訪れ、下戸げこのくせに勧められるままどぶろくを酌み交わしながら対話をもつことで二人との距離を縮めた。そのうち藤兵衛が「俺はかまわんが、年寄と百姓代が嫌がっておる」というので、それぞれの年寄と百姓代の家にも通った。ちなみに年寄というのは、いわば名主代行のような役目であり、百姓代は文字通り百姓のとりまとめ役として実務を取り仕切る役割を担っていた。

 相給の大棚村では、名主と合わせてこの三つの役職はほぼすべての所領に存在した。


 それだけでなく、昼間はほかの名主の家に足をのばし、対話をもった。いつも不意に訪問するために主が留守の場合も少なくなかった。そんな時は主が帰るまで爺婆じじばばと茶飲み話をして時間をつぶした。しかし、これは無駄ではなかった。恵吉の飾らない人柄に好意をもった爺婆たちが、息子たちの説得に一役買ってくれることになったのだ。


 さらにもう一つの副産物がこの遠出にはあった。爺婆から聞いたたくさんの伝承や地名のいわれなどである。胡散うさん臭いものやあきらかに訛伝かでんや思い違いも多く見受けられたが、どれも現地に足を運ばねば決して知ることのできない貴重な話であり、なにより面白かった。それらを厳選し、恵吉はその年から四年の歳月をかけて『大棚根元考糺録おおだなこんぽんこうきゅうろく』をあらわす。この書――いわば栗原恵吉の畢生ひっせいの書――は、大意、杉山神社、神官宝品評、碑銘、地名、寺社、山野の八項目にわけて記された大棚村の総合地理誌であった。


 やがて、恵吉の熱意に負けるような形でひとり折れ二人折れ――気がつくと難物の藤兵衛も善兵衛も恵吉の提案する共同一致事業を積極的に後押しするようになっていた。そして藤兵衛の方から軒別鐚銭のきべつびたせんを月掛けで八銭ずつ五年間積み立てる案を持ち出し、場合によってはみずから村人の説得にあたることも請け負ってくれた。

 

 やがて、年はあらたまり、嘉永四年となった。恵吉は、総勢二十五名の各所領の年寄、百姓代が集う新年の寄合の席で氏子全員から軒別鐚銭積立についての同意を正式に得た。衆議一決である。


 その年の四月、共同田植えを終えたのちに、恵吉は風自楼を再び訪れ、迪斎に会った。その前に恵吉は碑文の草稿も仕上げていた。もちろん草稿についても事前に氏子全員の了解を得ていた。


 恵吉は迪斎に対座すると開口一番、

「先生のおっしゃる通り、万事村人の共同一致を得て、とりくむこととなりました。こちらが碑文の草稿です」といって、うやうやしく草稿を差し出した。

 迪斎は草稿を手に取り、長い顎をしゃくって目を通しながら、

「よかろう。で、石碑建立の費用はどのように徴収するのじゃ?」

「五年かけて毎月軒別に八銭ずつ徴収します」


 迪斎は我が意を得たりと言わんばかりにうなずき、「五年か、ならば急ぐことはないのお」といって長い顎をさすった。


「これは預かっておく。しばらく忙しいので、そうじゃな、半年後、いや一年後にまた来なさい」


 恵吉は呆気にとられた。すぐにでも草稿に関するなんらかの意見をもらえると思っていたのだ。しかし、迪斎は恵吉の表情になどまったく我関せずの様子で、

 「初めに申しておくが、謝礼などは要らぬぞ」といった。

  恵吉は、すぐさま言いかえそうしたが、恵吉の言いたいことをすべて見越したように、

 「ただ、簡単に浄書はやれぬ、それだけは覚悟しておくように」

  と悠然といった。


 それを聞いて、どうやら師のたくらみは、あくまで村民をしてこの共同事業をやりとげさせることにあり、五年後の軒別銭の満額積立を見届けるまでは、のらりくらりと添削を引き延ばすつもりであることを恵吉は悟った。そして、きっと碑文をめぐる迪斎とのやりとりは想像したよりも長丁場となるに違いないと観念し、それはすなわち、おそらくあらかじめ試算した謝礼よりもずっと高くつくことになるだろうと思った。

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