第9話  和解

 翌朝、松治郎が恵吉の家を訪れた。


 松治郎は石碑の費用について、自分も半分ぐらいなら出すと言ってくれた。しかし、松治郎の家にそれだけの余裕がないことを恵吉はよくわかっていた。松治郎の家も名主とはいえ、その田んぼは、去年の早淵川の氾濫でことごとく水浸しになっていたし、十人以上の子どもを抱え、しかも年老いた父母もまだ健在で、恵吉の家以上にその生活が厳しいことはあきらかだったからだ。目の前で申し訳なさそうに作り笑いを浮かべている松治郎の顔も心なしか青白く痩せて見える。松治郎は、恵吉の幼馴染であり、かつ杉山神社のすぐ裏手の杉の森に居を構える吉野家の惣領でありながら、昨晩の寄合でなにひとつ恵吉を援護できなかったことに自責の念を感じているのだ。その気持ちはひしひしと恵吉につたわった。だから恵吉はあえて松治郎の申し出を断ることもしなかったが、うのみにもしなかった。ただ心からその好意がうれしく、黙って松治郎のガサガサの手を両手で握りながら、涙がこぼれそうになった。


 そしてこれで恵吉の覚悟は固まった。


 なにがなんでも石碑を建てる――そのためにいかなる困難や辛苦が立ちはだかり、その代償として牛馬のごとき扱いと屈辱を受けることになるとしても、必ずやりとげようと心に決めた。


 昨晩、巌が水瓶の中から差し出したなけなしのへそくりは、正確に数えたわけではなかったが、一両と同等の価値となる四千文にも満たなかった。恵吉は、土間にちらばった銅銭をひろい集めながら、巌の気持ちに報いるためには、この銭が無駄にならないように、いかなる方法を使ってでも足りない銭をかき集め、石碑を建てるための費用にあてるしかないと考えた。


 その日の午後、恵吉は野良着のまま隣村の作蔵の家を訪ねた。


 作蔵はめずらしく家にいた。風邪をこじらせたらしく臥せっていた。しかし、恵吉が来たと聞いてにわかに起き上がり奥から出てきた。そして、恵吉の顔を見るなり、真っ赤な顔で「帰れ!」といった。


 土間から作蔵を見上げていた恵吉は、その場で土下座をした。額を地面にこすりつけた。

「頼む、作蔵。銭を貸してくれ」

 恵吉はよほど機嫌が悪いのか、恵吉の不意の訪問が気に入らなかったのか、鬼のような形相でぜいぜい喉をならしながら、足元に蛙のようにはいつくばる恵吉を凝視した。やがて気を取りなおしたのか、作蔵はふうと大きく息をつくと、小さな声で「上がれ」といった。


 恵吉は作蔵の背中を追い、暗がりの奥の畳のある部屋――むかしからお座敷と呼ばれた――へ通された。作蔵は正座をした。恵吉はその正面に対座しているが、頭を下げたままである。

「いくらだ?」

「……三、いや五両」

 恵吉はまだ平伏している。

「恵吉、顔を上げてくれ――」

 恵吉はおもむろに顔を上げた。汗と泥で顔がぐちゃぐちゃだった。それを見ておもわず作蔵も苦笑した。恵吉も照れ笑いを浮かべた。しかしすぐに作蔵は腕を組んだまま瞑目した。

「杉山神社か?」

 作蔵は目をつぶったままそういった。

「そうだ。それしかない。杉山神社に石碑を建てる、それに俺は俺の人生をかけることにした!」

 恵吉が毅然とそういうと作蔵は傲然と目を見開いて、恵吉をにらみつけた。が、すぐに自らの気持ちを落ち着けるかのように深く息をしてまた目をつぶった。

「質地はどうするつもりだ?すくなくとも田んぼの一枚や山の一つはもらわねえと割があわねえ」

「そんなものはねえ。俺だ!」

 作蔵の片側の口角が一瞬上がった。

「俺が岸家のために死ぬまで働きつづける」

「では借金ではなく、ただでよこせということか?」

「いや借金だ。しかし金で返すのではなく、俺が働いて返す」

「では、昌平黌通いはやめて、俺の田んぼを手伝うというのだな?」

「いや、昌平黌通いもやめねえ。俺の田んぼも手放さねえ、山も俺のもんだ。ただ俺の体はお前に差し出す。俺が必要なときはいつでも言ってくれ。どんなに疲れてようが、どんな仕事だろうが、俺はお前の言われた通りなんでもやる」

「死ぬまでか?」

「ああ死ぬまでだ」

「明日おっちんじまったら大損だな」

「ああ、大損だ。だが俺は石碑を建てるまでは死なない。安心してくれ」

 そこで作蔵は足を崩し、あぐらをかいた。

「恵吉、おまえは変わらんな」

 といって少年のような顔で笑った。

「わかった、三日くれ。それまでに銭は用意する」

 恵吉は、目を丸くし、

「すまん、作蔵。恩に着る」

 といって、また平伏した。

「必ず借りは返す」

「ああ、お前はそういう男だ、昔から。疑っちゃねえよ」

 そういう作蔵の表情は少しうれしそうにも見えた。

「悪いな作ちゃん」

 作蔵は庭先の百日紅を見つめていた。恵吉はもう一度頭を下げた。

「三日後に来る」

 作蔵は庭を見たまま大きくうなずいた。


 恵吉がお座敷から出ようとすると、作蔵が呼び止めた。――ような気がしたが、ひぐらしの鳴き声にまぎれた空耳だったかもしれない。ともかく恵吉は振り返ったが、作蔵は微笑したまま手でおいはらうようなしぐさをしたのみであった。


 これが恵吉が生きた作蔵に会った最後だった。

 

 三日後、作蔵は死んだ。風邪をこじらせてあっけなくこの世を去った。しかし恵吉との約束は忘れていなかった。枕元に五両の小判が証文とともにおかれていた。その証文にはよろめいた字で次のように記されていた。


 『恵吉どの、金子五両借用申し入れの儀、相申し渡し所の実証なり。質として今生岸家に奉仕下されるべきこと、よってくだんの如し。作蔵』


 作蔵の葬式の差配の一切を恵吉が取り仕切ったのは言うまでもない。




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