第8話 水瓶

 次の日、大棚に戻った恵吉はさっそく名主の寄合開催を名主衆に告げた。


 そしてあくる日の寄合の席で、河田迪斎から碑文への揮毫きごう承諾を得るためにはかの天正の水帳提出がどうしても必要になることを伝えた。予想どおり、名主の大半はその顔に抵抗の色を示した。 


 しかし、恵吉は得意の話術を弄して小一時間にも及ぶ時間を説得に費やし、最終的には水帳はあくまで河田迪斎にその場で見せるだけであり、決して預けたり、迪斎以外の他人に見せることはしないと約束することで、ようやく満場の一致を見た。


 まずは一安心である。


 しかしながら、恵吉の頭痛の種はまだあった。費用の捻出である。石碑を建てるのに、石材および彫刻、据え付け費用に加え迪斎への謝礼などで少なく見積もっても五両は必要だった。村は折からの飢饉や疫病の影響により、土地も経済も疲弊していた。


 恵吉は思い切ってきりだしてみた。費用の金額も正直に伝えた。


 予想通り、名主衆はまたも苦い顔をした。それでも杉山神社に近い東部の人間はおおむね了解してくれた。問題は中部と西部の名主衆である。彼らから見れば杉山神社は村のやしろとはいえ、日参するほど馴染みがあるわけではなく、必然的に足が遠のきがちだった。


「ひとつ条件がある。これを機にやしろを村のなかほどに移してはどうか?」

 

 そう口を開いたのは中村に住む藤兵衛だった。堂谷に住む善兵衛も無言ながら大きくうなずいている。ふたりはともに大棚村の中央部の字に住む有力名主だった。


 もし了解すれば、人も銭も出そうというのだ。


 藤兵衛が以前から杉山社を村の中央へ移設したいと考えているという噂は聞いていた。しかし実際に当人の口から耳にするのは初めてだった。神社は由緒のあるその場所にあるからこそ意味があるのであり、いかなる事情があろうと村人の都合で簡単に移設するなどもってのほかだと思っている。しかも、石碑の費用工面に困窮する恵吉の足元を見るやり方が気に食わない。それでなくても、恵吉が生まれる前、旧社が火災で焼失したのを契機に、管理がしにくいという理由で社殿を同じ山の中腹から裾へ移設していた。大棚村の住民は、どうにも社の起源や由緒を軽んじ、その地理的な利便性を優先させるきらいがあることを恵吉はかねてより不安視していた。それゆえ恵吉は今回の藤兵衛の申し出を心底唾棄だきすべきだと思った。そして、遠慮なくその感情をあらわにした。


 しかし藤兵衛もあとに引かない。

「神明社のある大塚あたりはどうであろうのお?」

 と涼しい顔でぬけぬけと言うと、となりに座る善兵衛も調子に乗って「あのあたりなら龍福寺と同じ豊山派の慈眼寺も近くにあるし、いっそのこと別当寺も変えればよいではないか」と恵比寿顔でさらりと口にした。龍福寺と杉山神社の縁起はいまや一体であると考えている龍福寺の檀徒だんとである恵吉にしてみれば、天地がひっくり返るほどの暴論といえた。


「それはなりません。杉山神社は、杉の森にあるからこそありがたいのです。それに大杉山龍福寺はその名が示すとおり、杉山神社とは先祖代々深い縁に結ばれている別当寺であり、我々の代の事情で簡単にその関係を切り離していいわけがありませぬ」


 「この罰当たりめ!!」とあやうく喉元まで出かかった台詞はすんでのところで飲み込んだものの、恵吉の言葉と表情には怒気がみちていた。しかも正論である。さすがの藤兵衛と善兵衛もぐうの音も出なかった。二人はそれっきり神社移設の話を口にすることはなかった。しかし、費用捻出の話も結局それ以上進むことはなかった。


 家に帰った恵吉は、憮然とした表情のまま、ふんどし一丁姿で囲炉裏端にあおむけになった。むしゃくしゃしていた。もともと石碑建立を機に社殿や手水舎てみずやなど神社のその他の設備も一新しようと考えていた。そしてそれらは最初から自分ひとりで費用を工面しようと思ったが、すくなくとも石碑だけは他の名主からの協力を得たいと考えていたのだ。すべては村のため――なのに、そのうえ石碑の建立費用まで自分ひとりにおしつけられる道理などあるものだろうか?――我ながら人の良さにあきれる思いがして、おかしくなった。


 田んぼを何枚か売れば五両の金もできるだろうが、家計はますます傾くだろうし、育ち盛りの幼い子供たちや年老いた母のことを考えると先祖伝来の大切な土地を犠牲にしてまでこれ以上みすみすつらい目にあわすのは忍びなかった。


 その様子を立ったまま土間から気味悪そうに妻の巌が見ている。


 その視線を感じた恵吉はすくっと起き上がった。

「石碑はあきらめる」

 そう言って気弱く笑った。

「どうした?銭かあ?」

「ああ」

「――なさけねえ…杉山さんは村のほこりだ、栗原家の守り神だとかねがねえらそうに言ってたでねえか」と巌は鼻でわらった。

「仕方なかろう。名主衆が首を縦にふらぬのだ」

 そういって恵吉は背をむけた。


 しかし、人の気配を感じて振り向くと巌の鬼のような形相が恵吉のすぐ目の前にある。そして巌は低い声でつぶやいた。

「そんなに簡単に自分の夢をあきらめなさるのか」

 恵吉はおもわずあとずさった。


 巌はそれからなにも言わずまた土間におりていった。そして台所から壁に立てかけてあったなたをひっつかみ、なにをおもったかそばにある水亀にむかって鉈をふりおろした。

 水亀はけたたましい音を立てて飛散した。それとともに一面に水が噴き出る。恵吉は思わず目を伏せた。

 しかしジャラジャラという予想外の金属音が聞こえてきた。目を開けると亀の底板から銭がこぼれているではないか。

「わしが貯めたへそくりだ。もしものときにと取っておいたが、あんたがほんとに入用なら、使いなさったらよい」

 恵吉はまるで仁王様のように鉈を片手にした巌の姿を呆然と見上げた。そして次の瞬間、恵吉は感動のあまり立ち上がって、巌の堅肥りの体を抱きしめていた。


 その間、巌はまるで少女のように体を硬直させていた。

 

 子供たちの寝息だけが闇の底に音をたて、夜空にはこうこうと輝く満月が雲間に浮んでいた。

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