第7話  風自楼 

 恵吉が住む大棚村から江戸までは片道六里の道のりである。ゆるやかな坂道が続く中原街道をひたすら東に向かって歩くだけなので、どちらかというと楽な道のりであった。ただ丸子で多摩川の渡し船に乗るため、雨風の強い日は、岸辺の宿で逗留を余儀なくされることもある。それゆえ、できるだけ天気のよい日を選んで江戸に行くようにしていた。


 その日も朝から秋晴れの空が広がっていた。丸子の渡し船も順調に渡り、お昼前には洗足池を通り過ぎ、やがて参拝客の往来で賑わう目黒不動尊の脇を抜け、高輪台を通ってお昼過ぎには三田に到達する。このあたりまでくると江戸湾から吹きわたる潮風がすがすがしい。内陸育ちの恵吉にも、海の明るさと開放感は心地よく感じられる。少しばかり海の開放感を楽しみながら恵吉は界隈の茶屋でいっぷくした。


 そしていつもなら札ノ辻を左に折れ麻布にある教授所に向かい、そこで講義を聞くのだが、その日の目的は聴講することではなく、師である河田迪斎てきさいに会うことであった。迪斎は昌平黌しょうへいこうの塾頭なので、教授所に来ることはほとんどない。かといって旗本の子弟の官学である昌平黌へ農民の自分が直接乗り込むこともはばかられた。よって恵吉は茶屋を後にすると、札ノ辻をまっすぐ東上し迪斎の自宅に向かった。


 迪斎の邸宅は風自楼と称した。—―江戸城馬場先門の門前に立つ邸宅である。南西方向から江戸に入った恵吉から見るとそこは江戸城の外堀をぐるりと反時計回りに半周するところに位置していた。それゆえ恵吉はそのまま芝浦を過ぎ日比谷を通って外堀沿いを北上した。今の距離感でいえば箱根駅伝の最終区とほぼ同じ道のりを急ぐ。


 風自楼と呼ばれる河田迪斎の自宅は、もともとその師であり、岳父である佐藤一斎の家だった。となりには大学頭である林復斎の邸宅が建っている。このあたりは現代では言わずと知れた財閥系企業等の本社がひしめく丸の内のオフィス街である。昔も今とかわらず一等地であった。


 佐藤一斎は昌平黌の儒官である。今でいえば東大総長ということになろう。


 一斎は、林復斎の父である林述斎が生きていた時分、その一番弟子であり、昌平黌の塾長だった。それゆえに敷地内に家をあてがわれたとおもわれる。いわば佐藤一斎が住んだその家は、昌平黌の塾長である人間に付与される官舎のようなものであった。文化二年に述斎が亡くなり、一斎は儒官として昌平黌に移り住んだ。


 河田迪斎は一斎の一番弟子であり、その娘婿でもあった。一斎にも男子があったが、素行に問題があったのか、河田が学問上の後継者に指名され、学問やそれにかかわる資産をすべて引き継いだ。学問はもとより人間性もよほど師から信頼されていたのであろう。


 ゆえに迪斎はその家を引き継ぎ、家族とともに住んでいる。かといって屋敷の敷居は迪斎の人柄同様にさほど高くなく、恵吉のような百姓学生にも気軽にまたぐことができた。


 恵吉が風自楼に着いたとき、日はだいぶ西に傾いていた。


「こんにちは!」

恵吉はいつもどおり、快活な声を上げた。声の大きさと威勢のよさにかけては自信があった。ついで愛想の良さもひそかに自負していた。


 さらにもう一度大声したあとにしばらくしてから玄関に姿をあらわしたのは、年のころ十二、三歳の娘だった。口元は父親にそっくりに一文字に固く結ばれており見るからに意志の強さが感じられたが、それとは対照的に頬は赤身を帯びていて少女特有の恥じらいがにじみ出ている。目元は母親似であり鈴のように丸く、愛嬌があった。名をかつらという。葛はどういうわけか、恵吉になついていた。恵吉も葛を可愛がった。恵吉がまだ少年だったころに亡くなったすぐ下の妹のゆきの表情に心なしか似ていたせいかもしれない。そういう恵吉の思いも感じ取ってか、かつらはもしかすると厳格な実の父親以上に恵吉に親しみを感じていた。しかし、子供ながらにけじめをわきまえていた。葛は武家の子女らしく折り目正しく玄関で深々とこうべを垂れた。


「やあ、こんにちは、かつらさん」

 恵吉は葛が顔をあげたタイミングで、手ぬぐいで汗をぬぐいながら満面の笑みを浮かべた。目じりに深いしわが幾重にも刻まれた恵吉の浅黒いその笑顔は、いかにも精悍で頼もしい働く男の顔だった。葛も思わず相好そうごうを崩した。そこで恵吉は背中にかかえた籠をおろした。そこにはネギとサツマイモと馬鈴薯ばれいしょが入っていた。自らが丹精たんせいした野菜である。それを両手でわしづかみし、かつらの小さな手においた。葛の鼻先を土のにおいがかすめた。葛の好きなにおいである。思わずため息がもれた。そして葛は両手いっぱいに野菜を両脇にかかえたまま立ち上がり、小走りに奥へとかけた。


 しばらくして迪斎がおもむろに奥から姿をあらわした。いつもながらにしまりのない馬面である。もう二十年来の付き合いであるが、歳月とともにさらに下あごが長くなっているように思われた。そして、まじまじとそのとぼけた顔を見るにつけ、これが当代随一の大学者の顔なのだと思うといまさらながらに笑いがこみあげそうになった。


 迪斎はいつもどおり言葉をかけることはなく小さくうなづいただけで、玄関から立ったまま鷹揚おうように手招きをする。恵吉はペコリと頭を下げ、かまちに腰かけて草鞋わらじをぬいだ。折よくかつらが用意したの水で足を洗うと、恵吉は自分の手ぬぐいで無造作に両足の水気をふき取りながら玄関に大股であがった。しかし足の裏には水気が残ったままだった。廊下に残るその足跡を後から手ぬぐいですばやくふき取るのは葛の役目である。そうとは知らずに恵吉は、急ぎ足で奥へと進む迪斎の背中を追いかけた。


 その夜、迪斎てきさいと恵吉は、とれたてのアジの刺身をさかなに二人で酒を酌み交わした。そして恵吉は、師に石碑建立の話と碑文への揮毫きごうを願い出た。迪斎は静かに笑った。そして快く頼みを受け入れてくれた。——が、短く大学者らしい注文をつけることも忘れなかった。

「ほんとうに村民が望み、民のためになるのであれば引き受けよう。ただ、まずその証史が見たい。おぬしのことゆえ、そのあたりは抜かりないとは思うが、もちろん確固としたものがあるのであろうな?」

「はい」といって失われた印璽を恵吉は思いうかべた。

 一瞬迪斎は怪訝けげんな顔をしたが、恵吉は、自分を納得させるようにうなずきながら、もう一度「はい、あります」とこたえた。

「白川伯王殿の認証があります」

「うむ、天保五年に神祇伯からいただいたという御霊璽ぎょれいじ勧請かんじょうあかしじゃな。それはよいが、所詮しょせん、ほんのひと昔前に人の手を介して交付された紙片よ、それよりもそっと歴史に裏付けされた証左がほしい」

「ならば、天正時代の水帳があります」

 迪斎の目がきらりと光った。

 水帳とは検地帳のことである。今ではすっかりぼろぼろになっているが、免田として認められたことが記載されているのだ。免田として認められるのは、時の政府から由緒正しき神社であることが認められた証である。八朔社は三代将軍家光公のみぎりに老中久世広之の推挙により江戸幕府から御朱印を認められていることで、式社であると主張しているが、大棚社はそれ以前に時の政権から相応の扱いを受けているのだ。免田の証となる水帳は、後北条氏が治める天正の時代のものであり文禄の豊臣政権下にその特権が取り消されたが、天正時代だけでなくそれ以前も特別な待遇を受けてきた可能性もある。もしそれが本当ならそれこそ式社の証だと迪斎も直感したのだ。


「よし。では、まずそれを持ってまいれ」

「かしこまりました」

 と、恵吉は頭を下げた。が、本音をいうと不安があった。すでに水帳そのものが虫食いや墨の退色で原型をとどめないということもそうだが、それ以前に水帳の持ち出しには名主全員からの同意が必要だった。名主はぜんぶで十人いるが、水帳の持ち出しに難色を示す可能性があると思ったのだ。


 実際、文化十三年に昌平坂学問所の所員内村清蔵、石川令助の二名が杉山神社の式社調査を目的に大棚村に下ったおりに、恵吉の祖父六郎左衛門が、天正、文禄の水帳を差しだそうとしたが、結局他の名主の同意を得られず、実現にいたらなかったという実例があった。というのもふたつの水帳には、門外不出にしたいがある。昨今の水帳には登記されていない複数の隠田おんでんが記載されているのだ。

 

 隠田とは、農民が年貢の徴収を免れるために公儀には内緒で耕作をした水田である。発覚すれば、よくて土地の没収、悪くすれば当事者は追放の処分となる可能性もあった。


 言うまでもなく昌平黌の所員は役人ではない、学者である。おそらく祖父の頃の名主衆は、その違いがよくわかっていなかったと思われる。まして、今回は昌平黌の塾頭である河田迪斎に直接見せるだけであり、そのあたりのことは意と言葉を尽くせばきっと理解を得られるという楽観的な見込みもあった。しかしながら前例のないことを田舎者は嫌うものだ。そしてまわりの意見に流されやすい。とくに有力者のひとりが、万が一役人の耳に入ったらどうするのだ?という不安を口にすれば、それがたちどころに場の空気を占める可能性は十分にある。――そう考えると名主衆の説得は存外手間取るかもしれないと恵吉は思った。

 が「ぜひ、ご指導のほどよろしくお願いします」とやや思案顔ながら深々と頭を下げた。


「まずはその水帳を見させてくれ。委細はそれからじゃ」 

 といって渋い顔で手酌の盃を干した。とはいえ、実のところ迪斎にしてみれば碑文の内容に関してあまり最初からとやかくいうつもりはなかった。迪斎は二十年近く、恵吉に学問を授けてきた。その間、特定の知識というよりも学問に取り組む姿勢そのものを示してきたつもりである。事実、恵吉は正しくそれを体得していたし、それ以上に恵吉が根拠のないでたらめを書きつらね、師匠の名前を辱めるようなことをする弟子ではないと固く信じていた。少なくともそういう子弟の信頼関係がこの二人にはあった。


 

 





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