第6話 寄合
月に一度、村の寄合が開かれる。先にも書いた通り、大棚村は複数の領主が混在した。相給と呼ばれる分郷体制の中、嘉永年間の大棚村には九名の領主が存在しその管理を代行する名主もその数だけいた。いわゆる全体をまとめる村長なるものは存在しない。ゆえに村全体の行事や予算にかかわることはすべて合議で決められるのが慣例であり、情報交換も兼ねて月に一度持ち回りでいずれかの名主宅で一堂に会することになっていた。
嘉永二年の十月、村鎮守である杉山神社の宵宮と例大祭を直前に控えたその月の寄合で恵吉は初めて石碑を建てることを建議した。実はその年の春の寄合でも一度石碑建立に言及したことがあった。しかしその時は全員酔っぱらっていたし、恵吉自身もかくたる信念をもっていたわけではなく単なる思いつきを口にしただけなので、おそらく誰の記憶にも残っていない。だから今回がはじめての相談という気分だったのが、とはいえまだ具体的な構想もまとまっていない段階では、まともに取り合ってくれることすら難しいことぐらい恵吉にもよくわかっていた。
案の定、恵吉の言葉はほぼ全員に聞き流された。先の飢饉以来、皆、苦しい生活を送っている。不要不急な物入りには極力手を染めたくないというのが実情なのだ。しかも村の西側の名主は、村鎮守とはいえ村の東端に位置する杉山神社のことをさほど篤く敬っているわけではない。地理的な利便性を考慮して、神社そのものを有力名主が集まる村の中央へ遷してはどうかと臆面もなく意見する者までいる。恵吉はその手の意見が出るたびに村人の信仰心のなさにあきれるおもいだが、顔には努めて出さないようにしている。——なるべく敵を作らず卒なく物事をこなす。それこそがこの村で生き抜くための知恵だった。なぜなら栗原恵吉は大棚村の九人の名主の一人にすぎず、杉山神社の氏子総代でありながら、他の八人の名主衆の了解なしでは杉山神社に関わることでさえ、なにも決められない立場にいたからである。
寄合はいつも通り酒盛りをして終わった。
帰り際、名主の一人である松治郎が後ろから恵吉の肩に手をかけた。
「恵吉、俺は応援するぞ」
恵吉は幼馴染の兄貴分の友情に謝意を表すため、松治郎の目を見ながら小さくうなずいた。
それでもやはり恵吉は、家に戻る道すがら釈然としない思いにとらわれたままだった。やはり祖父と違い、自分の力量では名主たちの意見をまとめることは困難なように思われた。
家に帰ると、妻の巌を目の前に座らせ、正直に事の仔細を話し、場合によっては土地を売り、建碑に必要な費用を自腹で捻出することになるかも知れぬと伝えた。大棚では他村の者への土地譲渡は認められない。しかし村の者なら買う者もいるだろう、と頭の中でむなづもりしながら巌に申し渡した。
巌からの返事は予想どおり「へえ」だけだった。
巌はもともと表情に乏しい。さらに互いに連れ添って二十年近くになるが恵吉の言うことに未だ逆らったことがない。恵吉は、何か新しいことに着手する場合や重要な決断をする際にはすべからく事前に妻に相談するようにしていた。といって、巌から好意的な反応が返ってきたことはほぼなかった。また巌にしてみればこの時ばかりはそれどころではないという思いもあった。巌にとって目下の関心事は今年十九になる長女さなの縁談だった。巌の実家の岸家の取り計らいにより、ようやくまとまりそうなのだ。明日、縁談をまとめてもらった礼に隣村にある実家に出かけることになっていた。気が進まなかったが恵吉も同行することにした。
岸家の当主である作蔵は隣村茅ヶ崎村の名主である。恵吉とは同い年の昔なじみであるが、昔から仲が悪い。かつては仲が良かった。子供の頃は寺小屋で机を並べたし青年期には東方村にある私塾に一緒に通ったこともある。その縁で妹の巌を娶ることになったのだが、かつて入会地における
翌日、恵吉は巌と娘のさなを伴って紋付袴姿で岸家を訪った。
三人は奥の座敷に通された。挨拶の場には、年老いた岳父を初め岸家の面々が総出で顔を揃えたが、作蔵だけはついぞ姿を見せなかった。
やがてひととおりの口上を終えた後、恵吉は妻と娘をおいて一足先に退出することにした。やはり妻の実家に長居すると話題にも事欠くし、しかも慣れない装いなので肩が凝る。
しかし薬医門を出たところで、ちょうど野良仕事から戻ってきたばかりの作蔵にバッタリ出くわした。
(おい、恵吉、相変わらずこのご時世に杉山神社と学問にうつつを抜かしているらしいな。子供のこともそっちのけにしていつまで書生気分でいるのだ。道楽もいい加減にしろ)
と言わんばかりの冷ややかな目で作蔵は恵吉を睨んだが、作蔵はなにも言わずすぐに目を逸らした。恵吉も無視した。
作蔵の悪意に満ちた目と名主たちの無関心な態度は恵吉の心を不愉快にさせた。しかし恵吉は家路を急ぎながら、必ずや神社の境内に石碑を建てるのだと自らに言い聞かせた。闘志がむくむくと臓腑から立ちのぼるような高揚感だった。
かくなるうえは師匠に相談するしかない。
と恵吉はそう思った。
師匠とは、江戸の昌平坂学問所の儒官佐藤一斎の娘婿であり、昌平黌の塾頭でもある
河田の顔を思い浮かべたら居ても立っても居られなくなり、恵吉はその晩なかなか寝付かれなかった。そして気がつくと未明のうちに家を出ていた。翌月に控えた長女の婚儀準備や収穫作業も放り出し、恵吉は江戸に向かった。
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