第5話 都筑郡杉山神社

 杉山神社は現在の横浜市、川崎市、町田市、稲城市などに点在する神社である。江戸時代には73社あったといわれている。どういうわけか多摩川より東には一つも存在せず、その所在地は旧郡制だと武蔵国都筑郡、橘樹郡、久良岐郡、多摩郡の河川流域に限られていた。由緒や起源などはよくわからない。おそらくおおもとは鶴見川水系の土豪や住民により信仰された土俗の神だとおもわれる。いずれも川沿いの小高い丘陵地に祀られていることから、川の流れが途絶えないことと氾濫が起きないことを祈念する農村の守り神的な神社だったと思われる。またヒエラルキーや横の連携はほとんどなく、それぞれが独立し、明治以降の一村一社令の後も全体の半分以上が郷社や村社として大事に祀られてきた。


 平安時代中期に「延喜式神名帳」といわれる全国神社一覧表が日本で初めて神祇官の手によりまとめられた。


 そこに記載された官社のことを式社と呼ぶ。その中に杉山神社も含まれる。全国には官幣、国幣合わせて2861社あるが、横浜市と川崎市、町田市をあわせた一帯地域の中では杉山神社が唯一の式社である。ただし、


 都筑郡杉山神社一座


 という記載しかない。それにより都筑郡にあったことだけは間違いないのだが、いわゆる元祖というべき式社がどこなのか今もって比定されておらず、横浜市文化史最大の謎の一つとされている。ちなみに座とは祭神のことを指すが、多くの杉山神社は日本武尊やまとたける五十猛神いそたけるを祭神としているものの、おおもとの祭神となると今もって特定されていない。 

 

 都筑郡というのは現在の横浜市都筑区と青葉区、旭区、緑区と港北区、保土ヶ谷区、瀬谷区、川崎市内麻生区の一部を含む広大な地域である。江戸時代には都筑郡だけで25社の杉山神社が存在した。そしてそのうち少なくとも5社が今なお、延喜式に掲載された式社にあたる有力論社だと主張している。有力論社5社とは西八朔、新吉田、勝田、大棚(現大棚・中川)、茅ヶ崎である。いずれも古い年代に創建された神社であることは間違いないのだが、神社創建に関する明確な記録はどこにも残っていない。しかも古代においては郡域そのものが曖昧であった、もしくは鎌倉時代以降とは異なっていた、でなければ、文献そのものに誤解があったとの解釈に基づき、都筑郡以外でも複数の神社が論社を主張している。鶴見(現鶴見神社)、星川、戸部、三輪などがそうである。

 

 恵吉の住む大棚村というのはちょうど旧大山街道(現国道246号線)と中原街道との間に挟まれた早渕川流域に位置する農村である。東海道がまだ整備されていなかった古代において、旧大山街道と中原街道はいずれも周辺の国府や郡衙ぐんがとを結ぶ重要な幹線だった。少なくとも古代において大棚は、二つの主要幹線道路が早渕川という水路を通じて交わる交通の要衝であったことから必然的に人や物の往来が多い村だったと予想される。


 実際、このあたりからは後年多くの遺跡や貝塚、古墳が港北ニュータウン開発の際に出土した。恵吉の家のすぐ近くにも弥生時代から平安時代までの集落の痕跡を残す権田原遺跡や北川表の上遺跡が発見されているし、家の背後の丘には平安時代の巨大な邸宅跡である神隠丸山遺跡が見つかっている。

 恵吉が生きていた江戸時代にはもちろん遺跡の存在は知られていなかったが、日ごろよりあたり一帯から瓦や土器が出土することは珍しくなかったため、恵吉は、そのあたりに古くから巨大な集落があったと信じていた様子であり、実際「和名類聚集(「延喜式神名帳」とほぼ同時期に編纂されている)に記された都筑郡の八郷(郷は50戸以上の集落を指す)のひとつ店屋(まちや、もしくはたなや)が大棚の起源なのではないかと考えていたぐらいである(ただし今現在この店屋は町田市内にある町屋付近だとほぼ比定されている)。


 大棚村は早渕川の流れに沿って東から北西へ約一里あまりにわたって細長く広がっている。川沿いに南斜面の耕地が広がることから、石高は近隣の村の中では最も多い。戸数は四十軒弱であるが、幕府領、旗本領が入り組む相給あいきゅうであるため複数の名主が存在し、村全体にかかわる重要事項はそれぞれの名主による寄合の合議で決められるのが慣わしである。恵吉の家も代々名主の一つである。ただし大棚村の一番東に位置し、しかも勝田、山田、吉田の三つの隣村に近接する村はずれにあった。それゆえ川の上流に位置する西の果の村民とのつながりはほとんどなく、それどころか水問題などで揉めることすらある。むしろ隣村に住む近所の住民との交流の方が多かった。

 村の南側を流れる早渕川は、平静は網の目のように広がる無数の細い支流から注ぎ込む清水を湛えてゆったりと蛇行しながら周辺の土地を潤す命の川である。ただ、流れが緩やかであるため支流との合流地点に淵ができやすいという特徴をもつ。そして、その淵が大雨などで堰をこえて一気にあふれると、手のつけられない暴れ川に変貌するため早渕川と呼ばれているのだ。

 一方、村の北側に面する小高い丘陵地は杉木立が鬱蒼と生い茂り、北風除けの役割を果たしている。多くの村人はそうした杉木立ちの丘に抱かれた谷戸やとと呼ばれる谷間に身を寄せ合って住んでいた。谷戸は崖から雨水が濾過されてにじみ出るため、井戸掘りをしなくても水に困ることがない。そして川沿いの田畑は、名前の由来どおり日当たりのよい南斜面の棚地となって広がっていることから、非常に肥沃な土地だが、早渕川の水害にもよく悩まされた。


 特に恵吉の住む鵜目うのめと呼ばれる地域は、勾配がほとんどない湿地が広がっていたため、急流が一気に押し寄せると途端に氾濫する災害区域だった。そのため江戸時代以降、川の流れを変えるなどの治水工事が幾度も行われたが、台風の季節になるとしばしば恵吉の家や田も浸水した。よって恵吉の家から見て、川向こうの南側の丘陵地に立つ、川の守り神ともいうべき杉山神社は、代々栗原家にとって日々の生活や家族の生命を守るために決しておろそかにすることのできない大切な存在だった。


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