第4話  巌

 恵吉が大棚の家に着いたのはもう夜更け過ぎだった。


 妻のいわはまだ起きていた。一応戸口まで出迎えには出てきたが、笑顔を見せるわけでもなくただムスッとしている。いつもそうなのだ。


 お帰りなさいの言葉すらない。さすがにその日ばかりは古女房の陰気な態度に嫌気が差し、その場で怒鳴りつけたい気分だった。しかし恵吉には日頃から好きなことをやらせてもらっているという引け目がある。


 恵吉は、村では無類の学問好きである。それが昂じて月に一度、江戸に出て学問所まわりをしている。昌平黌こと昌平坂学問所そのものは旗本など武士の子息だけが入学をみとめられた寄宿生の官校ゆえ、恵吉のような百姓が出入りすることは認められないが、江戸に三つあった昌平黌の分校、すなわち麹町、深川、麻布の教授所であれば庶民にも聴講が許された。恵吉は麻布と麹町の教授所へよく顔を出した。そして時には地べたにしゃがみ込み、時には人垣をかき分け立見のままじっと講師の講義に耳を傾け、漢学だけでなく当時ようやく広まりつつあった洋学や地理学の断片も聞きかじった。

 恵吉は十代後半から四十過ぎになる今日までその習慣をずっと続けてきた。

 恵吉が住む都筑郡大棚村からだと江戸までは六里の道のりである。片道二時(4時間)、雨に濡れると三時(6時間)近くかかることもある。もはや登下校ではなく小旅行であった。

 教授所での聴講そのものは無料なのだが、行き帰りの道中にはどうしても飲み食いをするので多少の小遣いはいつも必要である。途中多摩川を渡るための渡し賃もかかる。栗原家では銭の管理はすべて嫁の務めとなっていた。恵吉は酒もほとんど飲まないし、食事や着物にも贅沢を好まない。しかし江戸行きにかかる小遣いだけはなにがあろうと恵吉は当然のことのように巌に無心した。さらに恵吉が不在になればなにより、丸一日、畑仕事の男手がなくなるのだ。欠けた分は、巌と子供たちが肩代わりせざるを得なくなる。それでも恵吉は、江戸行きだけは決してやめなかった。恵吉にとって月に一回江戸に出て新しい学問に触れることは、命の洗濯をするようなものであり、巌には内心申し訳ないと思いながらも、生きていく上でどうしても欠くべからざるものだった。


 だから——そうすることが嫡男の習い性であるかのように、いつも通り自然とその怒りを胃の腑に飲みこんだ。

 そして恵吉は、帯をほどき、野良着を脱ぎ、褌一丁になり、囲炉裏の前にあぐらをかいた。野良着は汗でびっしょり濡れ、重くなっている。一日中炎天の下、野良仕事をした後に三里近い夜道を休みなく歩き通したのだから体は疲労困憊していたが、若い頃から江戸との往復を毎月のように行なってきた健脚自慢の恵吉にしてみれば、苦役でもなんでもない。ただ心の拠り所を失ったことの落胆が肉体疲労以上にその心と体に重くのしかかった。

 それでもやはり腹は空いていた。恵吉は鍋からすっかり冷めた湯漬けを自ら茶碗によそい、慌ただしくかきこんだ。米と麦と少々の粟の中に刻んだ大根や芋が入ったごった煮であるが、暑い夏は冷や飯の方が喉を通る。その間、妻の巌は大きな背中を小さく丸めながら行燈の前で縫い物をしていた。四人の子供たちと年老いた母親が奥でスヤスヤ眠っている。

「油がもったいない。寝るぞ」

 そういって恵吉は茶碗を囲炉裏端へ箸と一緒に叩きつけるように置くと、一人で奥の間に入った。巌は無表情のまま何も言わずに行燈の火を消し、暗闇の中、一人で鍋を杓文字でこそぎ始めた。

 そして遅い夕食と後片付けを手際良く終え、巌が寝床に入るころには、恵吉は高鼾をかいていた。


 恵吉は——夢を見ていた。夢の中でも恵吉は仰向けに眠っている。しかし起き上がることも身動きすることもできない。顔を上げると大きな傘石の巨石が胸の上に乗っている。その巨石はみるみるうちに重くなり、胸が押し潰されそうになる。たまらず恵吉は助けを呼ぼうとするが、声も出ないし息もできない。このまま圧死するのかと観念したところでどこからともなく仏頂面の巌が現れ、軽々と胸の上の巨石を抱え上げる。それで——ようやく一息をつく。やれやれ助かったと思って油断していたら、こんどは巌が股を開いてどすんと大きな尻を胸の上に乗せた。巌は荒い鼻息を吐きながら、虚脱した全体重を放埒に自分の下半身へ預けてくる。恵吉は、今度こそ一巻の終わりだと覚悟を決めたところで目を覚ました。


 びっしょり寝汗をかいていた。隣りで寝ている巌の太い足が胸の上に乗っていた。当の本人は大きく口を開けたまま気持ちよさそうに眠っている。外はまだ暗い。


 恵吉は起き上がり、外に出た。家のすぐ前を流れる早渕川のせせらぎが耳に心地よい。

 井戸端へ行き、水を汲み上げると杓で一気に飲み干した。冷たい水が五臓六腑に染み渡る感覚。そして二杯目は頭からかけた。じわじわと目が覚め、頭の中が冴えてきた。


(あいつは岩そのものだ。雨が降ろうが風が吹こうが、梃子でもぴくりとも動くまい。それが唯一の取り柄だ)

 と無愛想な妻を持て余しながら妻がいなければ身の回りのことは何もできない自分のことを自嘲した。


 その一方で、やはり、日々の感情に良くも悪くもさざなみを立たせるだけの見た目の愛嬌や心映えの清々しさよりも、長い目で見れば我が家にとって必要な人間は巌のように丈夫で逞しい女房であることは間違いないし、我が家だけでなく、それは杉山神社にとっても同じことのようにおもわれた。杉山神社にとっては、むしろ巌のような愚直で逞しい氏子だけが必要とされているといってもよい。いや、巌そのもの——岩だ。巨石だ。


「そうだ、石碑。石碑だ。そこにすべてを刻し、神社の境内に打ち立てれば、百年後、二百年後であろうと、伝えられるべき史実も先人の偉業も、そして自分の思いも、消えることはない」


 恵吉は陶然とした面持ちで薄らと明け染める東の空を見つめていた。

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