第3話 三十日月(みそかづき)

 しかし恵吉は、そんな容盛ひろもりの気持ちなどつゆ知らぬまま、もう一度容盛に黙礼をし、玄関に向かった。長源がそのあとを追った。


 外はもうすっかり暮れている。月もない。

「恵吉よ、提灯を持っていけ」

 長源の言葉に恵吉は首を振った。

「強がるな。今宵はつごもりだ。月あかりのない夜道で足でも挫いたら元も子もないぞ」

 恵吉は眉をひそめたまま黙って手を伸ばす。

「返すのはいつでもいい」

 なんとなく恩着せがましい長源の言いぶりに突如心変わりを催した恵吉は手を引っ込めて何も言わずに外に出た。そしてここには二度と来るまいと思った。


 しかし、道は予想以上に暗く、足元さえ覚束ない。しかも足元の道には尖った石や枝葉が散在しているためうっかりすると怪我をしたり、足を滑らせる可能性もある。恵吉は提灯を受け取らなかったことを後悔した。


 やがて左江戸の辻の宿場町の灯りを過ぎると、民家も見当たらなくなり、行き交う旅人も誰もいない完全な闇に包まれた。ただ深い竹藪の中の長い上り坂が続いた。


 ——何かしなければならない。しかし、どうすればいいかわからない。果たして亡くなった祖父ならどうしただろうか?と恵吉は自問自答する。


 失われた神璽は大棚杉山神社の拠り所だった。あれがあったからこそ、祖父は、すでに隠居の身であったにもかかわらず自ら陣頭指揮を取り、十年前の天保五年に当時の龍福寺の住職である長伝と一緒に、大棚杉山神社へ京の神祇官統領白川伯王から杉山神社の扁額と式社である事の証書を得ることに成功した。並み居る強豪を出し抜いて、日本の神社の最高権威から正式に延喜式の神名帳に記されている式社であるとの認定を受けたのは、まさに快挙だった。


 しかし、多くの者はその事実を受け入れようとしなかった。武蔵総社の神主である猿渡容盛だけでなく、氏子以外は誰一人大棚の企みが万に一つも実現するとは思っていなかったといっていいだろう。そもそも大棚社は当時茅ヶ崎社、吉田社、西八朔社などと比べると有力論社の一角とすらみなされていなかった。


 文化文政期に昌平坂学問所地理調所により編纂された『新編武蔵風土記稿』を見てもそのことは明らかである。武蔵国の習俗や地理、歴史、神社仏閣旧跡等を各村ごとに表した同書における大棚杉山神社についての取り扱いはわずか二行に過ぎず、茅ヶ崎社、吉田社、勝田社がいずれも由緒や口伝など濃密な記述もしくは絵図とともに一頁近くをほぼ割いて取り上げられたのとは対照的だった。


 実はそれには理由があった。学問所の出役二名が実地調査のために大棚村を訪れた時、名主である恵吉の祖父六郎左衛門は案内役を買って出た。そして村の史跡や寺院の案内をする中で、当然杉山神社についても聞かれた。祖父は大棚社がきわめて古い歴史を持つ神社であると信じていた。その二年前には自ら願主となって石の鳥居を建立している。——そこでその証拠として安土桃山時代に同社が四反五十六歩の祭田を領したことの証拠となる土地台帳(水帳)の提出をしようと考えた。しかし断念した。他の名主たちが反対したのだ。実は稲荷社の前のその田は、すでに祭田ではなかった。村人は八王子千人同心の領主には廃田と偽り、隠れて収穫を行う村共有の隠し田にしていた。そのことが水帳の提出をきっかけに公儀の知るところとなり、年貢脱税の罪に問われることを恐れたのだ。

 このことが原因で『新編武蔵風土記稿』編纂のために大棚村を訪れていた地理調所の官吏は、大棚杉山神社についての資料はほぼ何も得ることなく昌平坂へ帰っていったのである。


 ——江戸時代後期は長く続いた鎖国の影響によって生じたナショナリズムの揺籃期であり、長らく仏教の勢いに押され、時には同化すら余儀なくされた神道が急激にその地位を回復する時代である。全国的に往古の神々を見直し、その復権を図ろうとする復古神道が台頭していた。

 また江戸時代は地震、飢饉、洪水、疫病などの天災が幾度となく農民や町民の生活を苦しめた厄災の時代でもある。とりわけ天保の飢饉は全国的に約七年にわたる凶作が続き、餓死者も百万人以上にのぼったと言われる大災害だった。恵吉の家でも小さな子供三人と祖父が亡くなった。小作の世帯の中には、未来ある子供たちの命を守るために杉の森の裏山に姥捨される老人もいた。人間の力では如何ともしがたい天災を前に、多くの人々がその心の拠り所として神仏にますます帰依するようになったのは当然のことといえる。結果、村々やあざのうちの公共の土地だけでなく個人の屋敷の中にも次々とやしろほこらが作られるようになった。

 一方、知識層の中には藩だけでなく国のアイデンティティに目覚め始める者が出始めた。その流れに乗って農民の村や土地への帰属意識もかつてないほどに強くなっていた。

 そんな時代を背景に全国の村々で村のアイデンティティの象徴としておらがむらの神社の由緒を明らかにしようとする動きが活発化していた。『延喜式神名帳』という江戸時代以前にはすっかり忘れられていた平安時代の古文書を典拠に、朝廷から国幣を受けた官社と認められることで郷土の象徴の格式をより確固たるものにしようというムーブメントはその最たるものだった。


 ——その結果、『新編武蔵風土記稿』が人口に膾炙かいしゃされるとともに、近村の杉山神社はますます賑わいを見せるようになったが、大棚社だけがむしろそれまで以上に寂れてしまい、少なくとも氏子以外からはほぼ忘れられた存在となっていた。


 だから白川伯王家から遣わされた役人が、同家から下附された式社認証状や扁額並びに神璽を奉納するために、御用札を高々と掲げながら、喜色満面の氏子たちを引き連れて都筑郡内を練り歩いた後でさえ、多くの近隣村民はその快挙を受け入れようとしなかった。


 とはいえ、大棚社の快挙は決して偶然の産物ではない。

 その中心人物である恵吉の祖父は用意周到だった。恵吉の祖父六郎左衛門は、大棚社の逆境と屈辱をむしろ好機と捉えて、村の長老や有力者から同意を取り付ける一方、息子である恵吉の父を使って同世代の若者たちの危機意識と村への郷土愛を巧みにくすぐりながら団結を促した。そして多くの仲間の共感と協力を得て、身銭を切り、情報を集め、つてを探し、作戦を練り、粘り強く不退転の覚悟で初志を貫徹した。だからあれは決して奇跡ではない。為るべくして為った事業といえた。


 しかし、祖父が大切にしてきた天正、文禄の水帳もボロボロになり、見る影もなくなりつつある。そのことを憂いながら父も昨年亡くなった。


 恵吉は漆黒の闇夜をただひたひた歩きながら、自分は果たして何をすべきか考え続けた。


 嘉永二年(1949年)七月三十日の夜のことだった。

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