第2話 六所明神
そこへ廊下を歩く足音と衣ずれが聞こえた。
「これは、これは
長源は恭しく六所明神と呼ばれるその男を迎えた。その男は明日に予定されている
その男は、先客である恵吉のことなど気にする様子もなく鷹揚な態度で本堂の中にずけずけと入り込んできた。
恵吉としては到底納得しえない気分だったが、仕方なく立ち上がった。そしてその訪問客に一礼して退出しようとしたところ、すれ違いざまにその男に呼びかけられた。人を小馬鹿にしたような目つきである。
「そなた、どこかで会ったことがあるのお」
恵吉はじっと見返した。そして返答した。
「いえ、お人違いかと」
——嘘である。三十年ほど前に会った。しかも同じこの寺で。
父とともに呼びつけられたのだ。まだ恵吉が十歳の頃である。論社を主張する
建前上の会合の趣旨は、あくまで府中にある武蔵総社の長者が公平にそれぞれの主張を聞くとのことだったが、はなから一人の若い男があたかも各社の主張の理非をただそうとするかのように雄弁かつ論理的に圧力を加えて来た。座の人間は若者の勢いに気圧され皆押し黙ったが、恵吉だけは、場の空気を理解せず、大杉社こそが正当な式社であると突如口火を切り、その証拠に龍福寺の境内で黄金の龍が大棚社の神璽である龍の玉から立ち登るところを目撃した話をしようとした。父以外の周りの人間はそろって怪訝そうな反応を示した。しかし座の中央にいる白髪の男だけは恵吉の話に真摯に耳を傾けた。
お陰で恵吉はその時の話をすべて話し終えることができた。帰り際に、その白髪の男の傍らに座っていた若い男に肩をつかまれ、「お主は嘘がうまいのお」と言われた。忘れられない言葉である。——その言葉を発した冷ややかな男の顔を忘れるわけがない。
後で聞いた話だが座の中央にいた白髪の男が武蔵総社六所明神の大宮司である
六所明神にも恵吉はいい印象がない。それから七年後、幼なじみの良造と府中まで暗闇祭りを見に行ったことがある。くらやみ祭りとは六所明神が毎年四月の
恵吉と松治郎は遠巻きにけやきの木の陰から神輿のお渡りを眺めていた。息を呑むほどに勇壮で神々しい祭事だった。しかし、その感動はやがて、そこかしこでうごめく男女の息づかいによってかき消された。恵吉は急に怖くなった。気色悪さも感じた。隣にいる松治郎に声をかけようとしたが、松治郎はいつのまにか小太りの娘をともなって近くの小屋に姿を消していた。その直後、恵吉にもねぎ臭い息を吐く年増の女が背後から抱きついてきた。恵吉はたまらず女の体を跳ねのけ、そして逃げた。
——不埒だ。
まだ女を知らなかった恵吉にとって、それは忘れられない出来事だった。自分の善良な精神だけでなくこの国のすべての神社の神域が穢されたような気がしてならなかった。……
長源は立ち去ろうとする恵吉を引きとめ、恵吉を猿渡容盛に紹介した。その際、恵吉が大棚杉山社の氏子総代であることを付け加えた。
「ほう、大棚の者か」
猿渡容盛は知っている——。大棚の栗原一族が、いかなる手を使ったのかわからないが大棚社をして他社に先駆けて式社としての証書を得さしめたことを。
容盛は、西八朔の杉山神社こそが正真正銘の式社であると信じて疑わない。だから、大棚社が白川伯王から得た認証状の存在も決して認めるつもりはない。なぜなら、この八朔社は武蔵総社六所明神が認めた武蔵国の六之宮なのだ。
一之宮は小野神社
二之宮は二宮神社
三之宮は氷川神社
四之宮は秩父神社
五之宮は
いずれも平安時代の武蔵国を代表する錚々たる神社である。そして掉尾をかざる六之宮に杉山神社が列していた。
六所明神はその六つの式社を束ねる、文字通り総社である。
尚、武蔵総社の大宮司家である猿渡氏はもともと都筑郡佐江戸を拠点とする鎌倉幕府の御家人であり、近在の杉山神社の氏子だったと言われている。武蔵国内に四十四座ある式社の中から杉山神社が武蔵総社の六之宮に選出された背景はおそらく同氏の出自と無縁ではないと思われる。
しかし、杉山神社の式社がどこなのかということは猿渡家にも伝わっていなかったようで、猿渡盛章は文政年間に息子の容盛を連れて論社各社を巡り実地検分を行った。その結果盛章は西八朔の杉山社を式社と比定した。同社は幕府からの御朱印も得ていた。
しかし、どうしても延喜式の式社であるというお墨付きだけは手に入れることが出来なかった。
それは他の有力論社も同様だった。三十年前の極楽寺で開かれた会合での猿渡親子の説得の甲斐もなく、その直後に吉田社と茅ヶ崎社があいつで式社の証書を得るべくそれぞれ神祇管領吉田家に直接談判を決行した。しかしいずれもお墨付きを得ることはできなかった。それを大棚社のみがやってのけた。その立役者が栗原一族であると後で聞かされた。容盛はあの時の少年の顔を忘れていない。
——そしてその少年がいま目の前にいる栗原恵吉と同一人物であることも認識している。猿渡容盛も恵吉のことを忘れていなかった。それどころか大棚社快挙の一番の切り札は恵吉の純粋な瞳ではないかとずっと考えている。容盛自身は勉学の力を信奉しており、自分ほど博識な学者は昌平坂にもいないと信じて疑わない。しかし、一点の曇りすらない信念と決死の行動の前には、博覧強記の学者でも決して太刀打ちできないことはよくわかっていた。そのことをあらためて想起させるほど、あの時の恵吉の目は狂気を帯びていた。そして強烈な印象を容盛の心に残した。
実を言うと猿渡容盛はあの時も少年の言葉に嘘がないことはよくわかっていた。しかし、あまりに純粋無垢な眼差しを前にして、あえて侮蔑の表情であざける以外に太刀打ちするすべがなかったのだ。あれから三十年、驚くべきことに少年はあの時と同じ目をしていた。内心、身震いを覚えるほどに恐怖した。
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