式社の森(幕末杉山神社騒動)
床崎比些志
第1話 極楽寺
松治郎から渡された紙を手にした恵吉は、怒りをあらわにした。
「坊主め、たばかったか!」
恵吉は、幼馴染である松治郎の制止もはねのけ、戸板をけやぶるようないきおいで、表に飛びだした。そして家の前を流れる早渕川沿いの畦道を泥をはねながらかけ始める。
西に五町ほど行くとすぐに中原街道に出る。そして中原方面に向かって早足で歩みはじめた。目指すは
街道といっても道は寂しい。江戸方面ならまだしも反対方面となると道行く人も少ない。民家は十町にひとつあるかないかである。ほとんどは鬱蒼とした杉や竹の林が生い茂る山道だ。まさか盗賊に襲われることはないだろうが、蛭や虻に首筋や足元の血を吸われることはしょっちゅうである。帰り道ともなれば、道中ほとんど漆黒の闇に包まれることを想像すると、提灯を持ってこなかったことを恵吉は心底後悔した。
やがて東方村の高台から続く長い坂道を下ると佐江戸に差し掛かる。佐江戸は中原街道の
通り沿いに立つ二階建ての宿屋からはぼんやりとした灯りと人々の談笑や三味線の音が漏れ、魚や飯の匂いも漂う。しかし恵吉は辻に立つ宿の客引きの声にも耳も貸さず、佐江戸の辻を右に折れた。そしてそのまま屈曲した日野往還の山道を進み、貝の坂の三叉路を左に折れ、鶴見川の支流である谷本川を渡る。しばらく行くと、右手に寺が見えてくる。極楽寺という。極楽寺は隣接する西八朔杉山社の別当寺である。そこに恵吉がその夜のうちにどうしても訪うべき男がいた。名前を長源。その寺の新任住職である。長源はもともと龍福寺の住職だった。龍福寺は大棚村の
長源は十日ほど前に大棚の龍福寺から八朔の極楽寺へ転住してきた。
山門に続く石段の両脇には提灯が吊るされていた。明日に迫った杉山社の例祭を控え、各方面からの来客を迎える準備のようだった。明日は
「おい、長源。長源はおるか!」
山門を抜けるや本堂に向かって大声で叫んだ。しばらく待っても応答がないため恵吉はしびれを切らし、乱暴に玄関の引き戸を叩いた。やがてごそごそと歩み寄る人の気配とともに咳払いが戸板の背後から聞こえたので、恵吉は引き戸から一歩下がった。そして戸が空いた。
「どうした?恵吉。こんな時間に?」
真新しい法衣に身を包んだ長源は見るからに不機嫌そうな顔で不意の来客を迎えた。
「どうもこうもあるか!」
といって恵吉は仏頂面のままずかずかと玄関へと進んだ。そして
「いいか、上がって?」
「何を言う?もう上がっているではないか」
と長源は苦笑した。
「相変わらず、忙しい奴よ」
と言いながら、嫌がっているわけではない。むしろ古い友人との再会を喜んでいるようにも見える。
恵吉は本堂の板間に腰を下ろすなり、懐から一枚の紙を取り出した。
「これは何だ!神璽はどこへやった?」
恵吉の目の前にあぐらをかいて座った長源は、その紙を手に取ると、困った表情を見せた。
「実はな、五年ほど前のことだが、小僧が一人逐電してのお。まあ、根性の座らぬ甘ったれの小僧だったが、それなりにかわいい奴でな——少なくともわしの目の前ではの——が檀家の前では必ずしもそうではなかったらしい。それゆえ、もしやとおもって行李の中をあらためたら神璽の入っているはずの御霊璽箱が空になっておった」
「適当なこと言いやがって」
恵吉は顔を真っ赤にして長源の襟をつかんだ。
「うそではない、本当だ」
長源は、そういっておもむろに恵吉の腕をほどく。そして襟を整えながら体を斜に構えた。
「実は、小僧が寺を出る前の日、唐突に自分は将来絵描きになりたい言ってきた。
と言って絵を恵吉に突き返した。恵吉はしわくちゃの絵を広げてもう一度神妙な表情でみつめた。
「見ろ、こんな落書きにも仏の魂が宿っておる。小僧が神璽を盗んだかどうかはわからんが、もしそうならいつにの日にか御仏のお導きで返しに来ることもあるだろうと思って箱の中に入れておいたのよ。仮にも仏の絵じゃからな。裸で置いておくのも忍び難かったのじゃ」
日頃から神にも仏にも信心深い恵吉は腕を組んで目を閉じた。
「その絵はお前の好きにしてかまわん」
恵吉は口を真一文字に結んだまま絵を懐にしまった。
「そもそもわしは神璽など見たこともない。ほんとうにあったのか、わしにもよくわからん。お前は見たことがあるのか?」
恵吉は遠い目をした。
「ああ、見た。あれは龍の玉であった」
「間違いないかの?」
「ああ、ぜったいだ。龍福寺で長伝和尚に見せてもらったのだ。神璽の玉から龍が立ち昇っておったわ」
長伝とは長源の前任の龍福寺住職だった。
「遠い昔であろう。人間の記憶や思い込みほどあてにならぬものはない。色即是空じゃ」
「ふん、たばかりよって。くそ坊主め」
「くそ坊主ではあるかもしれぬが、たばかってはおらぬ」
「あれがなければ大棚の杉山神社はただの祠になる。神璽があったればこそ、式社と認められたのだ」
「白川伯から賜った扁額や証紙があるではないか」
大棚杉山社は、長伝和尚の頃に京の神祇官白川伯王から杉山神社の扁額と一緒に、
「あれだっていつかは朽ち果てるし、燃えれば灰になる。ましてや盗まれでもしたら跡形もないではないか」
長源は耳の痛そうな顔をした。
「よいか恵吉よ、村人の信仰さえたしかであれば心配など要らぬ」
恵吉は大棚の村人のことを思った。杉山神社のことを本気で考えている村人はごくわずかである。むしろ村の中央の連中は村はずれに立つ杉山社の存在を疎ましく思っているぐらいだ。——恵吉は首を小刻みに横にふった。
「ではどうするのだ?」
「うるさい。俺はあきらめない。小僧をとっ捕まえてやるわい。国はどこじゃ」
「たしか、みちのく——と言っておったが、しかとはわからぬ。親の名前も本人の名前もとうに忘れてしまったわ」
「くそ坊主め!」
恵吉はそう毒づきながら寒村をあてどなくさまよう自分の姿を思い浮かべて急に気持ちが沈んだ。
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