第6話

 明くる日、ボクはまた大学へ行く。


 昨晩は自炊をし、自宅で夕飯を食べた。友人曰く、この世界では『望めば目の前に欲しいものが現れる』らしいが、そんな不気味な現象目の当たりにしたくないし、そもそもそんなことは信じられなかった。ボクは公園に寄った後スーパーに行って、食材を調達して帰宅したのだ。


「ここ、この問題おまえ解けるか?」


 今は早々に全ての講義を受け終え、ラウンジにて昨日と同じ四人で勉強会をしているところだった。


「いや、分からないな……その単語を辞書で引けば分かるんじゃないか?」


 ボクはそういいつつも、彼の手元のノートに目を落とし、今しがた受けた授業を思い出す。文学部らしいボクらが教授から聞くのは、哲学、文学、心理学、歴史学といった学問だった。どれも面白く興味の惹かれる内容であったが、しかし同時にどこか不足しているような感じがした。


 ――――『ここはヒトの望む理想の世界だ』


 この世界にやって来たときに聞いた言葉が脳裏をよぎる。ここは果たして理想郷であった。人々はみな何不自由なく、穏やかな暮らしを営んでいる。言ってみれば、連続的な幸せの中にボクらはいる。だけど、いやだからこそ、何かが足りなかった。悩みの無いボクらが生きる意味を模索し、苦しみのないボクらが小説を享受し、ストレスの無いボクらが人の心を研究し、或いは困難のないボクらが偉人の業績を語る。そこには圧倒的な欠乏感が横たわっていた。


「いいや、もう宿題なんかやらなくて。どうせ授業の頭で教授が答え教えてくれるだろ」


 誰かがそう呟いた。他の二人もそれに同調するように参考書やノートを閉じ始める。


「ボーリング行こうぜボーリング」


「お、いいね! 行こうぜ行こうぜ……ほら、いつまで課題やってんだ。お前も来るだろ?」


「……ああ、もちろん。ちょっと待ってくれ」


 ボクは一瞬戸惑ったが、少しの躊躇の後、分からない問題を閉じた。そのまま荷物をまとめようかというその時、一人こちらの席に歩み寄ってくる人影があった。

「すいません、あなたが×××さんですか?」


 そう尋ねてきたのはスーツを身につけた見覚えのない女性だった。「……ええ、そうですが」ボクは訝しげに肯定する。というのも、×××はボクのペンネームだからだ。


「実は私、こういうものでして……」


 そういって彼女は懐から取り出した名刺をこちらに手渡す。左上には出版社の名前が書かれていた。編集部に勤めているらしい。


「あなたの小説を読ませて頂きました。是非、うちの文芸誌に書き下ろして頂きたいのです」


 そういえば、昨日はサークルを幾つか見学して回った。その中で文芸サークルを訪れたとき、過去に書いた作品(家に死ぬ前の形そのままでデータが残っていた)を先輩に渡していたのを思い出す。ボクが小説家になることを目指していたと言うと、彼は編集者の友達がいるから作品を渡してもいいかと尋ねてきた。ボクはひとます快諾したが、まさか本当にこんなことになるとは思いもよらなかった。


「失礼ですが、それはつまり、デビュー……ということですか?」


 彼女はその表情に微笑みを湛えた。そして、そこには明らかな肯定の色が見て取れた。


「明日のこの時間は空いていますか?」


「ええ、まあ」


「では、あなたにその気があるのであれば、是非うちの編集部にお越しくださいませ。これからのことも含めて打ち合わせをしたいと思っています。住所はその名刺に書いていますから、ご検討下さいね。では、失礼いたします」


 ボクはどうすることも出来ず、ただ去っていく背中を見送った。横合いからボクらの会話を聞いていた三人は「おお、よかったな!」「すごいじゃん、おめでとう!」と口々に祝福の言葉をかけてくれる。生前から小説家になるのが夢だったボクは、動揺する反面、興奮しているのもまた確かだった。口の端からニヤついてくるのが分かる。この後のボーリングは盛り上がりそうだった。

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