第4話

 電車を降りたボクは、郊外の長閑な住宅街の雰囲気にあてられて、呑気に口笛を吹きながら歩いていた。空の彼方では夕日が地平線に差し掛かり、東の空から夜の闇が滲んでいく。巣に帰ろうとするカラスがカアと鳴き、黒い影が電線から羽ばたいた。


「しーなちゃん、さよなら!」


「うん、ばいばいっ!」


 道端から二人分の小さな影法師が伸びて来たかと思うと、幼い女の子が二人現れた。一人は手を振りながらその場を駆け去り、もう一方は帰っていくその背中を見送ると、再び曲がり角に消えた。


 ボクは何の気もなしに彼女の消えた道を覗くと、すぐそこには小さな公園があった。マンションとマンションの谷間に所狭しと埋もれたそこは日当たりが悪く、夕焼けからぽっかりと切り取られたように陰になっている。道路と挟んで向かい側は線路が通っており、その奥には丘の斜面に段々畑のように立ち並ぶ住宅の群れが見える。公園にあるのは滑り台、ベンチ、砂場のみで、先ほどの女の子は奥の砂場でうずくまっていた。


「何をしているんだい?」


 ノスタルジーに浸りたかったのか、大人ぶりたかったのか。理由は定かではないが、ボクは彼女の元に歩み寄ると、そう問いかけていた。


「……おえかき」


 彼女はこちらを振り向くこともなく、そう呟いた。小さな手のひらには折れた木の枝が握り締められており、砂場の柔らかい土に緩やかな線形を描く。そこに刻まれているのはなにやら動物のようだが、四足歩行だということくらいしか分からない。画力は当然年相応の印象で、お世辞にもうまいとは言えなかった。


 彼女は黙々と手を動かしていたが「……もう一回」と漏らすと、手で足元の凹凸をならし、再び絵を描き始めた。作品の出来が不満だったらしい。


「それは何?」


「きつねさん!」


 彼女は楽しそうにそう返すが、何度も描いては消し、描いては消しの連続だった。ボクは暫く後ろのベンチから腰を掛けて見守っていたが、ずっとそんな調子だったので思わず声をかけた。


「もう遅い。そろそろ夜が来るし、帰った方がいい」


 少女は振り向かず淡々と手を動かしている。


「やだっ! まだかくの!」


「いいじゃないか、また明日で」


 すると、少女は初めてボクの方を見た。その目は凛としており、視線は真っ直ぐボクを射抜いた。


「……いま、がんばりたいの!」


 大にした少女の甲高い声は閑静な住宅街に木霊した。ボクは後ろ頭をかく。

「困ったなあ……ところで、君の名前はなんていうの?」


「……おしえない」


「どうして?」


「知らないおじさんに名前おしえたら、だめなんだもん!」


 ボクはついカラカラと笑い声をあげていた。もうボクもこの子から見たらおじさんな訳だ。確かにその通り、正論である。


「じゃあ、君のことはなんて呼べばいいんだい?」


「もう、よんでるよ……?」


「呼んでるって……」ボクは先刻の発言を思い返してみる。ボクは彼女を何と呼んだか。「君……?」


「そう、『キミ』。あたしはキミ」


 彼女はそう言うと、再び自身の足元に目をやった。どうやらまだ描きつづけるらしい。聞き分けのない子だった。


「じゃあ、もうボクは帰るけど、キミも早く帰るんだよ」



ボクは少々名残惜しかったが、夕闇に沈んでいく公園を後にした。

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