第3話
ボクは帰りの電車で席に着くと、一つため息を吐いた。リュックを足元に下ろし、背もたれに体重を預ける。
この世界に来てからもう一つ、気が付いたことがある。俺は車内を見渡すと、改めてそのことを確信した。即ち、この世界の住人は全員『幸せそうな』面構えだった。満員電車であるここでは特に顕著だ。仕事帰りのサラリーマン、背筋の曲がった老人、買い物帰りの主婦……老若男女誰しもが満ち足りたような表情でそこらを闊歩しているのだ。この点は『向こうの世界』との最も大きな違いの一つだろう。夕暮れ時の疲労感が最高潮を迎えるこの時間帯に、しかしながらそんなやつれた顔つきの人間は一人もいない。
「……あ、すいませんっ」
目の前で吊革に掴まる少女がそう叫んだ。かと思うと、彼女の手にあった飲みかけのペットボトルが宙を舞い、ボクの隣に座る中年の膝元にジュースをぶちまける。
これは酷い。こぼしたのも彼女の不注意であれば、そもそも車内で喉を潤そうとしたのもマナーに抵触している。ボクが被害者だったら怒り心頭だ。
「いえ、構いませんよ、それくらい。どうせ安物のジーンズですし、家も近いですから」
意外な反応だった。彼の方に目をやると、柔和な笑みで心の底から気にしてないような印象だ。建前というわけでもなさそうだ。
「よかったらタオル使いますか?」
その中年を挟んでボクと逆隣りの婦人が彼にそう声をかける。彼は「恐縮です」と言うと、お礼の言葉を添えてタオルを借りた。
少し遠い位置から様子を見ていた幼い子供が、首を上げて母親に尋ねた。
「ねえねえお母さん、『きょーしゅく』ってなあに?」
母親は我が子に微笑みかけると、優しい口調で諭すようにして言った。
「誰かが自分のために何かしてくれた時に、『ありがとう』、『ごめんなさい』っていう意味で使うのよ」
「ふうーん、そうなんだぁ……きょーしゅくです!」
子供のあどけない返事に、車内の人々は俄かに吹き出し、辺りは暖かい笑いに包まれた。
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