笑顔と君と嘘

よこはらなづき

笑顔と君と嘘

常軌を逸した人間



 大きなカバンに手を突っ込んで、中を見ずに水筒を探す。感触を見つけ引きずり出すと、少し小さめの水筒が手にあった。一発で取れたことに満足しながら、蓋を開けて中身を喉に流し込む。冷たい感触が喉元を伝った。

 六時間目終了後すぐに掃除があるけど、私は一番前の席。さらに、後ろの席のやつらが机を下げるのが遅いせいで、水筒を探し当て、飲むくらいの余裕があった。むしろそれで余るほどだった。思わず指で机を叩いてしまう。

 やっと下げ終わったあと、掃除場所へ向かうために廊下に出ると彼がいた。

「今日は、綺麗に晴れた天気だよね。こんな日は外で遊びたいよね」

 笑顔で言う。私にしか聞こえないくらいの小さな声で言った上に、周りが掃除中のくせにうるさかったが、充分聞こえた。

 彼はクラス内どころか学年内一番の人気者だった。文武両道、眉目秀麗、さらにどの人に対しても平等に扱い、嘘を決して吐かないということで、女子からも男子からも先生からも人気が高い。

 ただ、私はそう思えない。

 文武両道と言っても、私より頭が良いわけではないし、私は彼のことを眉目秀麗とは思わない。もちろん彼は先生ごとに態度は少し変えるわけだ。

 さらに、彼は私にだけ当たり前のように嘘を吐く。挨拶をするかの如く。

 今日の天気はどしゃぶりの雨。梅雨前線停滞中。こんな天気の中、晴れたとか、外で遊びたいという人は、考えていることが常識より逸している人のみだ。彼は私の中でサイコパスのような立場に立っている。

 彼はそれ以上言わず、そのまま立ち去った。

 いつもこうだ。彼は一つ嘘を吐くだけで、私の返答も待たずに人気者の立場に行く。まるで、仕事の大好きなサラリーマンのようだ。人気者という立場が好きなのだろう。

 そう考えるたび私は思うのだ。なぜ、私に人気者という立場を作らせないのか。

 私はクラス内最優秀だが、学年内と言われるとそうでもない。顔は平凡だと思うし、人とのコミュニケーションは大嫌いなタイプだ。休み時間は読書か次の授業の予習だ。

 何人か私に話しかけてくる強者はいるがすぐに玉砕する。私の返答がいつまで経っても来ないからである。大体のやつらは仲良くなろうとする気持ちが強すぎて、話を膨らませようと返答を待つ。私は話を膨らませる気はさらさらない。だから、目も合わせないまま強者は自分たちのグループに戻っていく。

 大体は返事をしないだけで、解決するが、さらに強者は一方的に話し続ける。そんなときは生まれつきの釣り目で睨みつけてやれば、すぐに顔を真っ青にしてどこか行く。前のクラス一年間はこれだけで過ごすことができた。

 ただ、進級した新しいクラスで例外を発見し、対処に困った。

「やあ、俺の名前はグラス・ジュリエーションだよ。よろしくね」

 決して彼の名前はそんな奇抜な名前ではない。中路 惇(ナカジ ジュン)という平凡な名前である。ここまで綺麗に嘘を吐かれると逆に清々しい。ただ、返答しなくても、睨みつけても無理そうな雰囲気を感じ、普通に困る。

 いよいよ返答しなくちゃならないのか、と思った瞬間、彼はすぐにどこか立ち去った。悲しそうな顔も、真っ青になることなく、普通に立ち去る。この日から毎回会うたび、嘘を吐かれ、すぐに立ち去られた。

 しかも、彼はうまい具合に計算しているらしいのか、私と会うときは必ず彼が一人の時だ。だから、周りの人にさえ聞こえなければ、私に言っていることがばれさえしなければ、彼は、私という周りの人間から見れば常軌を逸した人に話しかけているようにならないわけだ。

 と、私はうるさい廊下を無意識に歩いているうちに、掃除場所を通り過ぎてしまった。もうとっくに掃除が終わってるはずだと思ったので、そのまま教室に向かった。



 あ。

 声は出さないように、心の中で呟いた。弁当を食べ終わった後に、学校の手洗い所で歯磨きをしようとしたときに歯磨き粉が相当少ないことに気付いた。しばらく買おうとは思っていたものの、毎度忘れてしまうのでどんどん減ってしまう。

 誰よりも早く食べ終わっているのと、誰とも関わりを持たないために歯磨き粉をもらおうとする相手がいない。仕方ないので、歯磨き粉のチューブを限界まで押し込んで絞り出した。何とか少しだけ出てきたのでそれを歯ブラシに付けた。

 正面の鏡を眺めていると、人影が見える。いやな予感がして眉をひそめた。いつもの笑顔を見せる。

「やあ、怜奈さん。食べるのめちゃめちゃ遅いね」

 そしてそのまま立ち去った。どうやら購買に行くようだ。後ろから何人からグループっぽいものが来て同じ道をたどって行ったので、さすが人気者と思いながら歯ブラシを動かした。

 と、また嘘を吐かれてしまったことに時差で気付いた。歯磨き中ながら深いため息を吐いた。そこから考えるにもう一度同じところを通らなくてはいけない。その時彼が一人だけだとしたならまた嘘を吐かれる可能性がある。少し考えてからいつもより数倍早く歯を磨いてさっさと教室に戻った。


 そんな行動しても、簡単に彼は私に近付く。放課後何気なく最後まで教室内に残っていたら、彼は本を持って笑顔で歩いて来た。笑顔はいつものではなく嬉しそうだった。昼より深いため息を吐いてから荷物を持つ。その様子を見た瞬間彼は異様に慌てた。

「ちょっとちょっと、怜奈さん!?」

 声を荒げる彼のことを普通に無視して、教室から出ようとすると目の前の扉が思いっきり強く閉じられた。扉と壁のぶつかり合った音が私の耳を攻撃した。彼は額に汗を滲ませ、少し息を切らしながら扉のふちを持っていた。思わず少し彼を睨みつけてみせたものの、彼は一切怯まない。

「怜奈さん。ちょっと待ってよ?」

 必死に笑顔を向ける彼は私から見ればひたすら鬱陶しい人間だと判断できた。それが全て顔に出た。彼は少し困ったように笑う。そのまま私はさらに睨んでみるが、それでも彼は怯まなくて、ちょっと苛立った。

「ねえ、怜奈さん。あの…」

 彼は何気なく、悪意無く、話を続けようとした。そのわずかな油断を私はすぐに感じ取った。そうだ、教室にはもう一つ扉がある。出入り口から遠い方の扉を閉められているのなら、廊下で邪魔をされる可能性はない。それに賭けてみる。

 彼の表情に変化がないことに気付いてすぐに、もう一つの出口に向かって駆け抜けた。どうやら彼は一瞬判断できなくなったようだが、すぐに気付き私の方へ駆け出す。私が一足早く教室を飛び出ると無我夢中で廊下を走り抜けた。ただ、彼の方が足が速いのが事実。どんどん足音が近づいてくる。

 正直思った事。彼は絶対に女子の扱いを知らない。こんなことは、他人との関わりがない私でも、これがほぼストーカーと何ら変わりのないことを知っている。

 途中で私の体力が尽き始めると、彼が横に来るようになる。彼はそうなると私のペースに合わせて走る。さらに鬱陶しくなるけど、ただこのままだと埒があかない。試しに突然止まってみると彼は見事にオーバーランをした。驚いた顔でこちらを振り向いた。

「………ついてこないで」

 思わず出た本音は彼に刺さったらしい。少し悲しそうな顔をした。私は少し息を切らしながら彼の横を通り過ぎてそのまま別れた。


 

 そんなことがあった後でも、彼はいまだに嘘を吐くことをやめない。さらに私に話しかけることがさらに増えるようになった文月の中旬。ただ鬱陶しい日々が続く。

 溜息が止まらない毎日のせいで頭が痛くなりそうだ。頭痛の止まらないせいで学校に行くことが億劫になる。それでも少し行く気になれるのはかなりの種類がある上に、図書室は本当に物静かな場所。私のお気に入りの場所だ。ただ、そこすらも彼に汚された。

「怜奈さんって、綺麗だよね」

 彼はいつも私に見せる笑顔で言った。この笑顔のときは大体嘘を吐いているときだ。

 ちなみにレイナというのは私の名前。神無 怜奈(カンナシ レイナ)。まるで二次元にいそうな名前。彼よりも圧倒的に奇抜である。だからと言って恥を感じたことはない。

 たまたまこのとき、放課後の上に、あまり誰も通らない廊下。人一人いない状況だった。返答しても私に損害はなさそうだ。

 彼もそれを狙ったらしい。すぐには立ち去らず、私に話しかける。

「怜奈さんは、俺のことどう思う?」

 初めて彼は私に質問をしてきた。仕方がないので、返答することにする。

「別に。普通の人」

 突き放すように言ったら彼はさらに笑顔を深める。

「そうなんだ。普通の人に綺麗って言われてるのに、なんも思わないんだね」

「嘘だと思ってるから」

「嘘じゃなかったら?」

「そうじゃなくても、信じない」

 そう言い切ると、彼は少し悲しそうに言った。

「怜奈さんは、自分に自信もっていいと思うけど」

 そのまま彼は立ち去る。私は返答しなかった。

 私は他人とのコミュニケーションで三言喋ったことはほとんどない。そういう意味では少し特別になったのかもしれない。



 なぜ?お前は私と関わりを得ようとしている?

 必要ないだろう。お前には沢山の仲間がいる。

 私に吐く嘘を交えて会話すれば、さらに仲が深まるはずだ。

 私に構う必要などないだろう。

 どっかに消えてくれ。関わったらどうなる。私がどうなるかも、お前がどうなるかも。

 消えてしまえ。邪魔臭い。


私にだけ嘘を吐く人



 先生が話を無意識にずらしながら教卓に体を預けている間、私はひたすら提出課題をやっていた。先生の無駄話はほとんどが私以外のクラスメイトに関する話ばかりなので、クラスメイトに興味のない私にはひたすら暇なだけ。

 と、後ろからとんでもない視線を感じた。多分彼なので私は無視をし続ける。彼でなくても無視はするけれども。

 7:3の割合で先生の無駄話と授業が展開された。ただ授業の内容もすでに予習の終わっていたので、はっきり言うと寝ていてもいいんだけど、さすがに一番前の席。堂々と寝れるのは度胸の持ち主だけだ。

 休み時間になるとすぐに本を取り出す。私は外国文学が好き。フランスのサン=テグジュペリが特に好みである。名前だけ言ってもはっきりしないだろうから言っておくと『星の王子さま』『南方郵便局』など有名である。別に宣伝でも布教でもないので安心していただきたい。

 さて、そんな休み時間中に彼はまっすぐ私の席のところへやってきた。

「今日すごいじろじろ見てたね。こっちが見てたの気づいたの?」

 いつもの笑顔でそのままグループの中へ戻っていった。また見事に嘘を吐かれた。言い返す暇もない。

 毎度思う。なぜ彼は常軌を逸した私に話しかける上に、ほとんどの人に絶対に吐かない嘘を吐いている理由を。知りたいとは思うけど、聞く気はさらさらない。

 彼との関係はただ私にだけ嘘を吐く人というだけだ。そして、私はそれ以上の関係を求めない。彼はそれ以上の関係になると周りの人間がうるさいはず。そう考えると、私が返答をすることは必要のない事である。

 休み時間の終了のチャイムが鳴っても、クラス内は騒がしいまま。耳をつんざく金切り声が何度も何度も聞こえる。うるさくてたまらず、耳を塞ごうとしたとき、先生が入ってきた。タイミングが狙っているようにしか見えなかった。

 こっちの先生は真面目な授業をしてくれる。私はそっちの方がいい。ただ、後ろのクラスメイトは真面目すぎる授業が嫌いらしい。喋り声が前の席で届いている。

 

 放課後図書室でめぼしい本を探していた。部活や遊びに夢中な高校生がほとんどの学校なので図書室には一人もいない。たまたま先生もいなかったので私は一人の図書室を過ごしていた。本に囲まれるのは嫌いではないが、好きな本のタイプが偏っているので好きではない本もあると考えると嫌だと思う。

 めぼしい本を見つけることができず、大きなため息を吐く。私の持っていた文庫本を出して椅子に座って開く。椅子の反発性が変に低かったため思わず背もたれに強めに倒れ込んでしまった。

 そんな椅子にちょっとイラついたとき、図書館の入口の方で人気を感じた。いつも通り無視を決め込もうとしたとき、それよりも先にそれが誰か認知した。

「俺は大病なんだ。今年中に死ぬんだよ」

 彼はいつも通りの笑顔で言った。私が無視をしていると彼はまた私に話しかける。

「とんでもない話だよ?怜奈さんはクラスメイトが死にそうなのになんとも思わないの?」

 仕方なく私は本から彼の方へ視線を向けた。

「中路が嘘ばっかりついてるから信じられない」

「呼び捨てな上に毒舌だね。じゃあ僕怜奈って呼ぶね」

「勝手にどうぞ」

「怜奈は俺の言うこと全部信じないの?」

 私は大きくため息を吐いた。

「中路の笑顔が嘘ついてる顔だから」

「俺の笑顔で判断するんだ」

「正しくはグループ内で出す笑顔とは違うとき」

「…それは、怜奈に見せる笑顔が嘘ついてるときってこと?」

「違うの?」

 彼は少し悲しそうな顔をした後、またいつもの笑顔を見せた。

「怜奈に見せてる笑顔は本音の時だよ?」

 私はもちろん嘘だと判断した。彼は嘘を吐いている、日常的に、私に。嘘だとわかる嘘を吐き続けていた。信じられなかった。そのつもりで私は黙り込む。

「怜奈は、どこまでが嘘だと思っているの?」

 彼は私の持っていた本を取り上げて私の顔を覗き込む。私は思わず顔をしかめると、彼はまた少し悲しそうな顔をする。どこへ視線を向ければいいか分からず、彼の手元を見る。私は彼の腕にあった、私のものと違う本を見つけた。

「その本は?」

 すると彼は私の本を机に置きその本を嬉しそうに私に向けた。その本の表紙は私が飽きるほど見ていた本。フランス文学で有名で、私の好きな著者、その中でも一番好きな話。

「俺、これ好きなんだ。内容よくわかんないけど」

 いつも見る二つの笑顔とは違う顔で彼は自慢げに言った。ただ、私は最後の言葉に落胆した。

「内容分からなかった意味がない」

 思わず声に出してしまった。

「まあ、そうなんだけど。怜奈はこの本知ってる?」

「有名だから、流石に」

 私はあえて一番好きな話ということを伏せた。

「怜奈は好きでしょ?その本」

「え?なんで知ってんの」

 思わず素っ頓狂な声と間抜けな質問が私の口から飛び出した。なんで知ってんの。私と彼しかいない図書室に少しながら私の声が響いた後、静寂が訪れた。その静けさを打ち破ったのは彼の笑い声だった。

「だって、いつも読んでるじゃん。俺が知らないとでも思ってたの?」

「思ってた。中路は私に嘘を吐くだけだと思ってた」

「好きな人のことなら何でも覚える」

 いつになく真面目な顔で彼が言うので、私は思わず口を開けた。

「それは誰に向かって言ってんの?」

 そう言うと、彼はいつもと同じ笑顔で言い放つ。

「怜奈だよ」

 私はすぐに、頭の中で探し回った。私と同じ本が好きな女子、または男子。確実に彼の言った事が嘘だとわかったからである。

 理由は二つ。私にそんなルックスも性格もない。素っ気なく、ただ冷たい人間が好かれるはずがない。もちろん、他人を好かぬものは他人から好かれるはずがないというように、私は一切他人を好こうとしない。そして、二つ目は、確実に彼の笑顔にある。

「嘘だね。誰かいるの?こんな難しい本読む人聞いたことない」

「俺の言った事信じないの?」

「この本読む人いたらちょっと興味持てるね」

「俺読んでるよ。興味持ってるの?」

「中路以外だね。内容分かってないくせに読んだとは言わせない」

「冷たいね」

 彼は苦笑いする。

「人に告白されてるのになんとも思わないんだね」

「嘘だって信じてるから」

「怜奈は、バッサリ判断しすぎだよ」

「そっちの方が楽だから」

 私は本気で言い切った。

「だから、人付き合いが苦手なんだね」

「苦手じゃない、面倒くさいから関わろうとしないだけ」

「じゃあ、なんで俺とは関わるの?」

「珍しいから」

「ん?」

 彼は豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をした。

「それはどういう意味でとらえていいの?俺は怜奈にとって特別でいいの?」

「特別。まあ間違いはないけど」

「正解でもないんだ…」

「珍しいのは、中路が私に一方的に話し続けていたこと」

「へえ、だから心開いたってことでいいの?」

「心は開いてない。一人もいなかったから、無視する私にめげなかったやつ」

「だって、アプローチって大事だろ?」

 私は思わず顔をしかめた。そんな分かりやすい人間いると思ってなかった。私自身も、彼も。もちろん私自身が嫌悪感をそこまで出すとは思ってなかったが、彼自身が嘘だと分かりやすすぎる嘘を吐いてること。結果驚きと嫌悪感を混ぜた顔になった。

 私はその顔のまま彼の手にある私の本を見た。

「…返して」

「嫌だよ、返すと怜奈との会話が打ち切られるから」

「私は中路との会話が嫌なんだけど」

 私は彼の手の中にある本を掴もうとする。彼は小学生のように身を翻して本を取らせ無いようと必死だ。私は久しぶりに椅子から体を離すと、彼に近づく。

「お、お、本気になった?」

 彼がさりげなく煽ってくる。私は苛立ちが限界値に達しかけたとき、どうやら顔に出たらしい。彼は、少し驚いたような顔をして、すぐに悲しそうな顔をした。

「ごめん、怜奈。ちょっと、ね?」

「分かってんならさっさと返して」

 彼は切なそうに私の本を差し出した。私は奪い取るように本を受け取ると図書室の出口へ向かう。私の言葉から音を忘れた図書室は、私を見送ってくれてるようだった。しかし、図書室は、音を思い出す。

「また、話そ?怜奈」

 私は返事をせず、また音を忘れた図書室を後にした。彼のことは、見なかった。



 また?

 知らない。お前がどうするかの話じゃない。私がどうするかの話だろう。

 だったら、話す気も全くない。またの機会を与える気はない。

 それなのに、なぜかお前を探しかける。



珍しい人種



 そんなことがあってから、放課後の図書室が彼との落合場所みたいな形となった。正直彼が勝手にやってくるだけだ。入ってきた瞬間に立ち去ろうとすると彼が出入り口をブロックする。明確に顔をしかめると、彼は悲しそうな顔をしながら、「お話しよ?」という。めんどくさくて無視しようとすると、彼はすぐに私の本を取り上げようとする。

 私がその隙を見て出入り口を走り抜けると、彼は私より速い足を存分に使って追いかける。ただ、人の通りの多い所に行くと彼は消えてくれるのでそれでいい。まあ、私にとってはストーカーだ。彼はそんなつもりはなさそうだが。

 ただ、今日はそうはいかない。彼も工夫してきた。

 彼はいつも通り出入り口に立ち尽くしてると思ったら、そうじゃなかった。彼はいない。人気はあるのに、彼がいない。

 思わず立ち上がって探すと、彼は外国文学のところにいた。彼は必死になって何かを探していた。さっさと図書室から出て行って欲しいのと、何を探しているのか私は気になってしまった。彼は私を見た瞬間に、とろけるくらいの笑顔を見せた。

「わあ。怜奈から来てくれるなんて嬉しい」

 その言葉で私は彼の作戦に乗せられたと気付いて、思わず眉を顰める。彼はいつもとは違うとろける笑顔で、立ち上がった。

「怜奈なら知ってるかな?ほら、あれ。あの、最後に書かれたやつ。ジュペリが書いたやつ」

「『星の王子さま』?」

「あ、違う。完成してないやつ」

「『城砦』?」

「それそれ、どこにある?」

「それ図書室に置いてない」

 そう言い切ると、彼は驚きを隠せないのか、口をあんぐりさせる。その顔はとにかく間抜けだった。

「図書室置いてないの?『城砦』が?」

「ない」

「でも怜奈読んでるじゃん」

「持ってるから」

 すると、彼はまたとろける笑顔を見せた。

「貸して!」

 これは本心なのはすぐに顔で分かったのだが、嘘を吐かれるよりよっぽど嫌なことだった。私はまた眉を顰める。私が人に簡単に本を貸すなど、人にどんな期待をされてもあり得ないことだ。私もその気はさらさらない。

「嫌」

「そう…」

 悲しそうに彼は言った。彼はすぐに立ち上がるといつもの笑顔で言った。

「にしても、怜奈はやっぱりかわいいよね。割とモテてるよ」

「嘘だね」

 私はスパッと言い切るとそのまま出口へ向かうと彼は私の横に歩いて来た。わざと速く歩くと彼は余裕そうに足を速める。めんどくさいので足を止めると彼は少しオーバーランをした。

「何?」

「まだ、話し続けたいなって」

「だからついてきてるの?中路女子の扱い方知らない?」

「ん?どうして?」

「中路の行動半分以上がストーカー」

「マジ?」

 彼はまた同じ顔で驚いた。

「え、マジか。ごめん」

「今更」

 私は足早に彼から離れようとしたら、彼は私にいつもの顔で笑いかける。

「前も言ったけど、俺大病持ち。先が短いからさ、好きなことして死にたい」

 彼は私より先に離れて行った。それは楽でいいけど、嘘を吐かれたのは嫌でたまらない。本を貸すことも嫌悪感を示せる。ただ、最近彼が嘘を吐くことが減ってきていることに気付いた。その分嘘の限度がおかしくなってきている。

 


「お姉ちゃん、ここ教えて」

 二つに束ねられた長い髪を揺らして、彼女は私に本を見せた。数学の問題集だった。一つだけ空欄になっているところを見つけた。

「これ、分からないんだ」

「そうだよ、分かんないの」

 妹の里奈(リイナ)が口を尖らせながら言う。私とは違って、フレンドリーで、優しい人気者。中路に近い存在。ただ、彼と違うのは表情の種類が極端なこと。彼のように笑顔にも種類があるわけでなく、笑うなら笑う、怒るなら怒る人間だ。

「ここなら、この公式を使う」

「あ、なるほど。そっか、ありがとう!」

 妹は私には無い八重歯を見せてちょっと垂れた目尻が光る運動部スマイルをした。いつもならそのまま部屋へ戻るけど、妹はずっと私のベットの上で座り込んでいた。私は何か用があるのかと、妹を見ると、大きな瞳で私のことをじっと見ていた。

「何?」

「お姉ちゃん、久しぶりに人と関わり持った?」

 彼女は小悪魔的な顔をしながら、首を傾げる。毎度毎度思うけど、私と妹は色々違う。妹の方が素材がいい。私に劣っていることは成績程度。他に妹に勝てることなど一個もない。人のことを見透かす能力は私には持っていない。

「どうしてそう思うの?」

「だって、なんか、雰囲気」

 私は首を傾げる。意味の分からないことだったから。

「理由もないのにそう思うの?」

「お姉ちゃんは現実主義だね。ロマンチストもくそもない」

「うん」

 私はその一言で会話を終わらせる。妹もそのことを察した様子で「おやすみー」と言って部屋を出て行った。



 夏休みを迎えた八月。彼と会う回数は格段に減る。私は補習を受けるような器ではないらしいし、学校に行くことはなかった。

 ただ、そんな外出のしない夏休みを迎えさせてくれそうにはなかった。めんどくさい叔母を持ったことに少し自身の血を呪いかけた。

 夏休みの終わりごろに夏祭りがあり、叔母はいつも出店を出す。いつもならそのお手伝いに妹が呼ばれていたものなのだが、なぜか今回は『美人姉妹』という名目で一緒に呼ばれることになってしまったのである。

 昼頃から嫌々手伝っていた。

「いやー、今年は暑いよねっ、水分補給必ずやってね」

「はぁーい」

 叔母と妹の軽いやり取りを横目に私は黙々と準備を進める。日差しの強すぎる中で屋根もなしに力仕事をするものだから、タオルが欠かせない。白いTシャツに少し汗が滲み出すころ、やっと組み立てが終わった。妹はあまり汗をかいていないのが少しむかついた。

「お疲れー、これあげるわ」

 叔母から冷凍されたスポーツドリンクを手渡しされると妹はすぐに開けて、飲もうとした。私は熱のたまったコンクリートの上に置いた。融かさないと飲めやしないから。

 しばらく準備をした後、ちらほら夏祭りを楽しみに来た人が現れた。私は、会話することはめんどくさいため、妹に接客を任せ、鉄板役を務めた。叔母は時折様子を見ながら材料を運んだり、アドバイスをしたりしていた。

「いらっしゃいませー、お姉ちゃん、焼きそば追加追加!」

 異様に混み合う私達の出店は大繁盛と言っても過言ではなかった。鉄板はフル稼働のせいで休めない上に熱い。妹も時々疲れを表す。それでも得意の笑顔を絶やさない。本当にこういう所だけは妹に劣る。客の顔も見ないまま鉄板作業に勤しむ私とは全く違う。

 そこからしばらく同じようなことばかりだった。ずっと忙しいものだったのだが、さすがに目玉の花火を見るためなら一気に人間が減った。広場の方が見やすいからなのが普通だ。

「ねえ、お姉ちゃん。店番任せていい?」

「……は?」

 突然の妹の提案に私は苛立ちを込めた声で返答してしまったが、妹は気にせず話を続けた。

「だってさ、花火みたいもん。友達と約束してるからさ」

「ああそう、じゃあ行って来れば?」

 適当に返しておくと、妹は礼を言って走って広場に向かった。気づいたら叔母もおらず、客もいなかった。そこまで花火が人気なんだろうなと思いながら、やっと鉄板作業から離れて水分補給していると、聞いたことのある声で名前を呼ばれ、思わずペットボトルを吹っ飛ばしそうになるほどの勢いで振り向いた。

「……なんでいるの」

 そう訊ねると、彼は照れくさそうに笑った。

「いや、だって。祭りに遊びに来るでしょ?そしたら怜奈いたんだもん」

 私は酷くため息を吐いた。めんどくさいのもあるけれども、ここは図書室ではなく夏祭りの出店。会話をするところではない。

「…………なんか買うの」

 彼は少し驚いたように見せた後、いつもの笑顔を向けた。

「怜奈の出店でしょ?全部買えるなぁ」

「そんなこと聞いてない。何買うの」

 私は冷たくあしらうと彼は、少し悩んでから答える。

「じゃあ、焼きそば一個でいいよ」

 私はそれに返事することもなくちょっと冷めた焼きそばを差し出した。彼はおつりなく代金を私に渡すと、いつもの笑顔でこう言った。

「……やっぱ全部買った方が良かったかなあ」

 そう呟いた瞬間、夜空を酷く鮮やかに彩った轟音が私たちの耳に届いた。思わず音の方へ見るために出店から軽く飛び出すと彼も見上げていた。わずかに光が残っていた空を見上げていると、すぐにまた同じような轟音が頭を揺らす。

「……わっほ、綺麗だあ」

 彼は見上げたまま笑顔で言った。私は特に何も感じなかった。花火が綺麗かと言われれば綺麗なのに間違いはないが、私は大きな音があまり好きでない。花火なら線香花火の方が好き。そう思っていたら、彼は私の方を見て、いつもの笑顔で言った。

「でも、俺はうるさい音嫌いだなあ」

 私は眉を顰めると、彼は表情変えることなく立ち去った。見えなくなったことを確認すると深いため息を吐いた。まさか夏休み中に会うと思ってなかった。疲れで苛立った私にさらに追い打ちをかけた気がした。



 暑かった八月も夏休みも終わり、初秋の候を感じられない残暑に苛立ちを感じる。私は他人より長袖を愛するタイプなので、無駄に暑さを感じる。教室に入った瞬間に冷房の冷気が私を包む。

「おお、神無。今日も早いな」

 早いのは先生です。どんなに早く来ても担任に勝てることはない。それでも、私はクラス内の生徒よりは早い。遅く来るよりは早く来る方が担任とかの受けはいい。生徒との関係を保つより、通わせてもらっている側としては受けを得ないと就職でも生きていけない。

 ただ、今日はいつもと違う。誰もいないことを確認しようとしたら見事に目が合った。

「ただ、今日は中路もいるぞ」

 とりあえず無視して鞄を机の横に掛ける。大きな鞄から必要な教科書類を取り出し、机の中に入れる。すると、一冊余分な教科書を持ってきてしまった事に気付き、少し苛立つ。その苛立ちを彼が気づくとめんどくさいことになるので、なるべく顔に出さないように気を付ける。

 ポーカーフェイスを装いながら、本を取り出す。後ろから彼の視線を感じた。多分読んでる本を確認しようとしているのだろう。私は読まれないように、隠そうとしたが、先に担任が勘付いた。

「お。中路。神無見ててどうした?」

 担任が興味を持つ目で彼と私を交互に見る。

「あー、先生違うんすよー。ほらー、二人しかいないからー」

 中路が私と話すときとは違うテンションで担任と話す。

 ふと、彼の言っていた嘘を思い出す。

『怜奈に見せてる笑顔は本音の時だよ?』

 もしそれが本当ならば、彼は私に吐く嘘よりも遥かに多い数の嘘を私以外の人に吐いていることになる。ただ、それが成立すると大きな矛盾が発生する。彼の言っていることの半分以上が、しょうもない嘘。しかもその時はあの笑顔を見せるときだ。しょうもない嘘もすべて本当になってしまう。そして、大病も、私への好意も本当になる。私は一切信じる気はない。

 彼は担任と楽しそうに会話していると、何人かクラスメイトが入ってきた。知らない顔、覚えてないだけだけど。必要のない他人の顔を覚えるほど無駄なことはないと思う。ただ、中路のことは、普通に嘘を吐き続けてたのと、人気者だったから名前と顔は不可抗力で覚えてしまった。

 そのクラスメイト達は中路と担任の話に混ざる。中路の声色は全く変わらない。途中でクラスメイトが冗談を言って笑い声が響く。図書室とは違って、教室内は音を忘れることはない。廊下との対が明確である。もちろん私は廊下の方が好きだが、廊下よりも音を忘れた図書館の方がもっと好きなので、文庫本を持って教室を出た。

 少しまばらに人のいる廊下を歩いていると、後ろに気配を感じた。まさかとは思いながら、後ろを向くと、彼は誰かと一緒に歩いていた。が、ちらちら私を見ている。もうストーカーである。

 偶然であると願いながら、廊下を進む。図書室の近くに近付くにつれて、人気はさらに無くなっていく。後ろをなるべく確認しないようにしながら、図書室の扉を確認する。開いていることを確認すると、迷うことなく入る。先生すらいない、音の忘れた図書室は、少し大きめの窓から入ってくる朝日で変に幻想的に見える。

 朝日の当たらない席を探して、そこに座り込むと栞を目印に文庫本を開く。いつも読んでいるフランス文学ではなく、日本文学を読んでみた。と言っても、内容はもちろん理解できているし、その著者の作品もしっかり覚えている。つまり、私は文学オタクと言っても過言ではないと思う。現代は除く。

 ゆったりと、静かな時間が流れる図書室に人が来たのは、SHR始まる20分前だった。それまでの幸せな時間を忘れさせるが如く、彼はいつも通りの笑顔を見せながら颯爽とは言えない足取りで私のもとへ歩いてくる。

 いつもならば、私はすぐに立ち去ろうと本を閉じ、立ち上がって出口に向かうのだが、今日はそうはいかない。彼は、私の向かいに座り、本を開いた。私は、彼の読む本に興味を持った。

「『山月記』?そんなの読むんだ」

私は彼の本にだけ目を向けながらそうつぶやいた。すると彼は顔を軽そうに持ち上げて、というより頭が吹っ飛ぶくらいに振り上げた。そこまで?と思った。しかもその顔は、かなり驚いた顔だから私も驚く。

驚いた顔から、すぐにとろけるような笑顔になると、甘そうな声が飛び出す。

「怜奈から、話しかけてくれたぁ~」

「何?ずっと待ってたの?」

 私はそう訊ねると、彼はさらに笑顔を深める。

「待ってたよ。いつも俺からだもん」

彼は文庫本を開いたページのままひっくり返して置いた。私は思わずそれに顔をしかめる。彼はしばらく私の顔の意味を理解できないままの、間抜けな顔をしながら首を傾げた。しばらくして彼はその真意を理解すると、すぐに本を元に戻す。

「ごめん、怜奈。俺栞持って無いんだよ」

「本読むなら栞を持つのが基本でしょ?」

「…ごめん。そこまで怜奈が怒ると思ってなかったんだよ」

「もう二度としないで」

「もう一度したら、もっと怒る?」

「……嫌いになる」

 そう言うと、彼は悲しそうな顔をしてすぐに決意したような顔をする。何を決意したのだろう。そう思ったあと、すぐに彼はもう一度いつもの笑顔をする。

「栞、買うね。怜奈が好きだから、嫌われたくないから」

 また彼は嘘を吐く。栞はどちらでもいいんだけど、私に好意を持っていることに関しては嘘判定としているので、やはり彼の笑顔のことを信じられなかった。

「ねえ、中路」

「何?怜奈」

「中路の言ってること、どこからが本当なの?」

 真面目に訊ねた。

「嘘だって分かること以外は嘘じゃないよ。本音。最近はあんまり嘘吐かないなー」

 彼は椅子の背もたれに全体重を預けながらいつもの笑顔で言った。私はそれも嘘だと判断した。信じられなかった。私がずっと信じていた『他人を好かぬものは他人から好かれるはずがない』という定説が覆されるのが嫌なのと、あり得ないということも含めてだ。

 私は少し浅めの溜息をついてから、彼に言い放つ。

「中路のこと、嘘つきだって思ってるから」

 冷たく言い放ったら、彼は一切傷付いた顔をせず、真顔で答えた。

「うん、俺嘘つき」

 私は、凹むか怒るかの予想しか用意していなかった。そのため、その答えに私は混乱する。私はしばらく、止まって、声を漏らす。

「え?」

「怜奈の言う通り。俺は嘘つきだよ?」

 彼は一切悪びれることも、躊躇も、罪悪感も、何もなくはっきり言いきった。

「俺は、嘘つきだよ。でも、怜奈の前では嘘つきでいないようにしてる」

「…………なんで?」

 本気の疑問を彼に打ち付けた瞬間、SHRの予鈴が鳴る。彼は私より早くに立ち上がると、駆け足で図書室を出ていく。私もそれについていく形で図書室を出ると、ちょっと遠くに行った彼が、こっちを向いた。その笑顔は、今までに見たことない笑顔だった。



「お姉ちゃん、それ素敵な人じゃないの?」

 妹に相談をすると、真顔でそう答えられた。

「素敵じゃないよ。嘘つきだから」

「……」

 私の答えた内容に妹は気に食わなかったのか、口を尖らせる。そして、溜息交じりに「これだから、一匹狼は…」と呟く。

「ああ、私もお姉ちゃんと同じ高校行けばよかった。そんな人が二年生にいるなんて、知ってたらちょっと無理してでも受験したよ」

「余裕のあるところの方がいいと思う」

「……」

 妹はさらに口を尖らせる。

「お姉ちゃんは青春を知らないの?お父さんとお母さんの出会いも高校って言ってたじゃん」

「胎内で取り忘れたら、里奈が全部持って出て来たよ」

「そうかもね、結構残ってたから」

 そんなことを話しながら今日も私は唯一の趣味をしている。

「もうそろそろ冬だね。ねえ、お姉ちゃん、今年も作ってよ」

「マフラー?セーター?選ぶなら早めにして」

「マフラーがいいなあ、私服を着る時間がなさそうだから」

 妹は私のベットに寝転びながら言った。妹は吹奏楽部。冬の時期は演奏会が多いらしい。かくゆう私は、迷わず帰宅部を選んだ。

「お姉ちゃんの作った編み物、めっちゃ温かいんだよね。編み物の上手い姉を持ってよかった」

「ふーん」

 生返事をしながら、妹用のマフラーの構想を始めた。どんな色を使うか、柄をどうするか、考えていると、ふと彼のことを思い出した。

 そういえば、彼は帰宅部だった。運動も、文化も両方できそうな人脈と能力はあるのに、帰宅部だ。なぜだろうと考えてると、妹の能力を思い出す。

「お姉ちゃん、今その人のこと考えてたんじゃないの?」

 妹の方を見ないようにしながら編み物を続ける。

「図星?お姉ちゃんって割と顔に出るよね」

 そうなのかもしれない。彼にも妹にも読まれてしまう。その分思ったことをはっきり伝えられるだけ悪いところはないはず。嘘の吐けないタイプの人間、中路とは違う。私は妹のことを見なかった。妹の高めの声が後ろから聞こえる。

「私は嘘吐いちゃうな、顔にも出ないようにできやすいし」

「ふーん」

 私は特に何も考えないようにしながら編み物を続ける。今年作るのも、家族の分だけで充分だろう。友達もいない私には他にあげる人間はいない。

 妹が部屋に出て行ってから、時計を見ずにひたすら編み物を続けていると、遅帰りの親二人が帰ってきた。少し驚いて時計を見ると日にちが変わっていてさらに驚いた。

「なんだ、怜奈まだ起きていたのか」

 父がドアを開けて覗いて来た。

「編み物していた」

「今年もまた作るのか」

 父は呆れ顔で言い放つ。どうやら父の分は作らなくてよさそうだ。すると母も覗く。

「今年も何か編むの?」

「妹にマフラー」

「………」

 母は少し悲しそうな顔をしてすぐに下手な作り笑いをする。

「友達にも作ってあげたら?」

 私は母に向けてた視線を編み物に向ける。

「お母さんはいる?」

「ごめんね、要らない」

 そう答えた声は少し悔しそうでもあり、鬱陶しそうでもあった。私は今年の作る数がマフラーと自分用の二つだけだった。趣味が少なくて少し物足りなく感じた。



 九月の十五夜。お月見にはぴったりの日。暑さの自己主張が収まりはじめ、ついに初秋の候と言えるようになってきた。ただ、教室のクーラーが使えなくなり、教室内は少し暑く感じる。

 今日も朝の暇な時間に図書室で本を読む。そしてその向かいには彼がいる。彼は本と私を交互に見ながら過ごしている。それで読書がはかどるのか不安になるのだが、相手は彼なので不安に感じる必要がない。

 もっと不安になる要素があったことは、見逃してしまっていたのだが。

「ねえ、怜奈ー」

 彼は私をただ見ていたのではなく、話しかけるタイミングを探っていたことを理解すると、自分の鈍さを叱咤する。

「怜奈って、やっぱりテグジュペリ好きなの?」

 私が喋るとさらに面倒くさいことになるので、適当に頷いてみせると、彼は話を続けようとする。

「中路は、外国より日本の方が好きなの?」

 彼はいつも日本の有名文豪の本をいつも読んでいる。私はいつも外国文学だ。

「うん、俺日本の方が好きだから。もちろん怜奈の読んでるやつも好きなんだけど、日本も面白いからさ」

「内容分からないくせに」

「それは言わないでよ…」

「日本文学は分かるの?」

「日本文学ならさすがに分かるよ。舐めるなよ、クラス順位一桁を!」

「私は一位だけど」

「そこまではっきり自慢されると逆に清々しいよ…」

 彼は苦笑いを浮かべながら、言った。彼の本の近くには新しいプラスチックの栞がある。私は古い木製の栞。プラスチックの栞も紙製よりは値は張るが、木製の方が圧倒的に本好き感が出る。

 ただ、私はそんなことよりも手持無沙汰になってしまった今年のやることを彼に提案してみようか考えていた。ただ、彼とは友達でも何でもない、ただ暇潰しとしてやるとしか考えていない。ただ、考えてみればそもそも彼に提案してみようかという考えを浮かんだこと自体がおかしいと思った。

 彼はいつもの笑顔を見せると突然言い放つ。

「ねえ、怜奈ってさ、俺の持ってる大病に関して分かる?」

「大病のこと信じてないけど?」

「俺さ、悪性腫瘍が体中に散らばっちゃったんだ」

「話聞く気ある?」

「……若いから進行早いんだって」

「調べたの?」

 私は嘘のクオリティが上がったと思った。彼は苦笑いを深めた。

「……怜奈はもっと人に関わってた方が良かったと思うよ」

「そう?」

「嘘と本当の区別がつかなすぎ」

「中路が嘘を吐きすぎて信じられないだけ」

「じゃあお互い様かな」

 思い返せば、私は普通に彼と話すようになっていた。もちろん、クラス内でも、人がいる中でも話すことはない。ただ、図書室付近なら人がいないため、そこにいるときだけ彼と会話する。彼は私と話したいのか、私より早くに来るようになった。

 彼は私と話す時だけ、人気者でいるときとは違う笑顔を見せる。いつもの嘘を吐いた時の顔も、とろけるような顔も、人気者でいるときは絶対に見せなかった。もちろん、嘘も吐くのは私にだけだ。

 なぜかなんて考えたことはなかったけど。

「俺は、死ぬんだな…」

 彼は物悲しそうに言った。

「それは当たり前。人間いつ死ぬか分からない」

 本音だった。正直人が死ぬことにさほど大きな悲しみが生まれることはないと思っていた。死ぬことは生きることと同じで避けられぬこと。それにいちいち恐怖や悲しみを感じている暇はどう考えてもない。彼がどうして物悲しく言う理由が意味わからなかった。

「まあ、そうだね」

 また彼は苦笑い。

「でも、嫌だな。だんだん弱っていって死ぬのは」

「別にどっちでもいいけど」

 このタイミングで、予鈴が鳴る。彼はまた同じように私より早く立ち上がる。いつも通りのローテーションだ。互いに振り返ることなく、目も合わせることなく図書室から去って行く。いつも通りのこと、だったはず。

 最近彼はしょうもない嘘を吐かなくなった。少し楽な感じもするが、どこか寂しいと感じる自分もいた。意味が分からなかった。


 

 少しずつ彼との会話を繰り返していくにつれて、私は何かしら、彼に特別な感覚を持っていた。ただ、これが何なのか、理解できたのはとっくに遅いときだったわけだけど。

 


 秋から冬の変化を感じられるようになったころ、最近彼は体育をサボるようになってきた。私はいまいち理由がはっきりしなかった。ただ、少しづつ彼の足が重そうに動いてることに気付く。

 まさかとは思っていたものの、自分の信じ続けた彼に関する定説を覆すことも今更できない。私はずっと彼の笑顔を信用しなかった。ただ、その信用も少しずつ揺らいでいる。

 それでも、信じていたかった。

 今まで他人と関わりを得ないと決めていた心が邪魔をしていたのもあるし、ここで信用が完全に崩れ去ってしまえば、今までの私がどれだけ惨めで、酷かったか自覚してしまうことが怖かった。

 

 結局何度も図書室に足を運んでしまっていた。いつも通りの席に座って、同じ著者の本を読んでいると、彼は栞の挟まった本を持って、私の向かいに座る。彼の本は基本、私と同じか、日本の有名文豪の作品が多い。

 そんな彼は、図書室にいることの方が多くなっていた。

 基本外にてサッカーやバスケットボールで友達と汗を流すことが多く、図書室に来るのは朝やたまに放課後しかなかったのだが、最近は放課後どころか昼休みすら図書室にいて私の向かいで時間を過ごす。運動を避けているように感じられて、私の信用はさらに揺らぐ。

 そんなことを気にしながら彼を見ると、彼は勘違いを起こし笑顔を向ける。正直面倒くさいのもあるのだが、笑顔を信用していないせいなのか、複雑な気持ちを持った。そのせいか自然と目を本に逃がす。

 もちろん、図書室にいるときに必ず会話するわけでも、絡むわけでもなく、ただ、向かいで本を読み、時間になって戻るときもある。むしろ絡む方が珍しいのだが、そんな時間はほとんど彼が行動を起こす。私が行動を起こすなど、珍しい中の珍しいが発生する可能性、相当低いことくらいならわかる。私自身そんな意思がない。

 でも、そんな硬い意思も少しずつひびが入っていた。

 彼への疑問が増え、膨らんでいく。私の技量では抑えきれるまでに、もちろん限界は生まれる。そのせいで、彼に聞く事だって可能だが、そんな行動は私のプライドもどきが許さなかった。

 でも、後々に考えてみると、そんなものなど、捨てておけばよかった。

 

 

 いつも通り、放課後に図書室に行くと、いつもと変わらない音の忘れた図書室と、そこに差し込む夕日がまぶしい。席に目を向けると、いつもは私より後に来る彼は、いつも私が座る席に座って本も読まず私のことを待っていた。私を見るや否や、すぐに笑顔を向けた。少しぎこちなかった。

「あ、怜奈、待ってたよ」

 彼は立ち上がろうとしたとき少しふらついた。

「おっと…」

 私はその様子を見て思わず訊ねる。二回目の問。

「ねえ、中路の言ってること、どこからが本当なの?」

 彼は少し驚いた様子を見せる。私は立ったまま机に手をついて、彼の目をはっきり見る。彼は少し考え込んだ後、一回目とは違う答えを出す。

「怜奈が、判断するといいよ。俺からは何も言えないや」

 そして少し間を空けていつもの笑顔でも、少し悲しそうな顔でもなく、心の底から悲しそうに辛そうに眉を下げ、口端を少し上げた。

「もう、二度とね」

 彼は少しふらつく足取りで、図書室に私を置いてどこかへ歩いていく。

 次の日、彼は学校を辞めたことを担任の口から聞いた。


特別な人



 その日の放課後、私はぎりぎりまで図書室で待った。彼に聞きたいことも話したいこともある。でも、来ることはなく、ただ私の時間が無駄になっただけだった。

 一体、どこからどこまでが彼の嘘なのだろう。

 彼の言っていることのほとんどが本当なのか、嘘なのか。ただ私をからかっていたのかすらわからない。このまま会えないままなのだろうか。

 そして、私は妹に色々聞いた。すると、妹の考察が聞けた。ただ私はいまいち理解ができなかったわけだ。

 彼の『俺は嘘つき』の意味は、自分を偽って周りに合わせていることなのでは、だそうだ。私がどういう意味か妹に訊ねると、「もっと人と関わっていれば分かると思うけどな」と小悪魔的な顔で一蹴された。

 その言葉の意味と彼の本音が私の頭の中で繋がりさえすれば、彼の笑顔と嘘の真意を理解できるのかと思われる。ただ、そこまでの道のりは相当長いと思う。さらに、その本人がいないわけだからさらに難関になる。どんな数学のミレニアム問題よりも、人間の心理を説く哲学よりも圧倒的に難しいと考える。

 ならば、彼に会うしかないと判断した。



だからと言って、すぐには行動に移せなかった。口実だってなくはない。ただ、その行動を移す理由を見失ってしまったのである。

 半年間嘘を吐かれ続けただけの関係であり、彼が私のことをどう思っているのかは知らないが、私は彼に対しそんなに大きな感情を持っていない、ような気がする。どこか、彼のことを求める自分が小さくいて、少し鬱陶しかった。

 それでも、ほとんどの私でそれを抑え込めた。ただ、そんな中でも朝と放課後の図書室で彼を自然と待ってしまう自分に嫌気がさす。

 さらに、その小さかったはずの彼を求める自分が、どんどん膨らんでいく。必死に抑え込み続けてもなお、図書室に行き続けた私は、ついにその自分が抑え込めず爆発してしまった。

 もう、会わない選択なんて存在しなくなってしまった。

 彼がいなくなって一か月が経っていた。



「先生。中路さんが忘れ物してます」

「あれ、そうなの?ちゃんと確認したんだけどな」

 一か月後に見つかった忘れ物はどう考えてもおかしいのだが、日頃の私が功を奏し、担任は少し疑問を持たず驚きながらも頷いていた。私は彼の忘れ物と言って、自分の文庫本を見せる。人生久しぶりの嘘。本を見るなり担任はさらに驚いた。

「中路こんなの読むんだな。意外かもな」

 そう言って担任はその本をもらおうとする。私は思わず拒否する。もちろん担任は困惑するが、私の口からすぐに丁度いい言葉が飛び出した。

「いや、私が届けます。住所教えてください」

「あ、いいのか?じゃあ頼むわ」

 そこまで話が進んだ後、私は疑問を素直にぶつける。

「先生は中路さんが辞めた理由知ってますか?」

「んー」

 担任は腕を組んで考え込みながら答えた。

「知らないな、なんか家庭の事情らしいけど…」

 私はそれ以上情報が掴めないと判断した。とにかく職員室からすぐに出ようと担任に別れの言葉を告げる。

「では、失礼しました」

 担任は笑顔で「任せたぞ」と言いながら手を振る。笑顔、見るたびどこか引っかかる。



 紅葉も少しずつ散りはじめ、冬の装いの他人も増えてきた10月の終わり。

 教えてもらった住所に向かうと、割と家に近かった。私は迷わずインターフォンを押して、名字と用事を伝える。

「ありがとう、淳のクラスメイトの神無さん。ごめんね、忘れ物届けてくれて」

「いえ」

 彼の母親だろうか、驚くほど似ていた。母親の浮かべる笑顔は、彼が人気者でいるときと同じようなものだった。

 母親はその忘れ物を私が差し出すのを待っている。私は母親の期待を裏切るのを申し訳なく思いながら、表情を変えないように言い放った。私はお世辞とか、オブラートに包むとか苦手である。

「息子さんって、病気ですか?」

 他人に疎い私でもすぐに気づいた。母親の表情が一変し、警戒心が生まれ、目の色が大きく変化し暴れる寸前であることを。

「何?どういうこと?」

 私はさすがにはっきり言い過ぎたのかもしれないけど、誤解が生まれるより圧倒的にましだと判断したまで。私はさらに続ける。

「息子さん、何度も私に言ってましたので。やめた理由もそんなところでしょう?」

 明確に意見も伝えてみると、さらに母親の顔に警戒心が増す。

「あなた、淳のなんなの?」

 その問いに私の勢いは止まる。

 『彼にとって私は何者か』?そんなこと知らない。彼は嘘ばっか吐いていた。そして私は嘘と本当を見分ける能力が劣っている。だから、彼が私をどう思っているのか。だから、嘘と本当の区別を抜きにして、彼自身が言っていたことを伝えてみせた。口にするのには恥ずかしかったけれども。

「私のことが、好きらしいです」

 少し、私はどんな反応をされるか恐いと感じたが、予想は外れる。母親の顔は警戒心を失い、すぐに目を細めた優しい笑顔に変わった。彼でも見た事ない顔だった。

「もしかして、名前、レイナさん?」

「はい。神無怜奈です」

「ふふ、本当にアニメのキャラみたい」

 少しの間。

「よく話してたのよ、『好きな人がいる』『名前が二次元』『めっちゃ可愛い』『言葉がちょっと毒舌気味だけど、嘘は吐かない』ってね。今日来た理由は嘘吐いたみたいだけど」

「まあ、はい」

「そうね。多分辞めた理由を探りに来たのかしら」

「そうですね」

「なら、教えてあげる。淳が好きな人だからね。来てくれたら少し寿命が延びるかも」

「……やっぱり病院ですか?」

「ええ」

 少し悲しそうな顔をした後、すぐに私に向き直す。

「なんて伝えたらいいかしら?」

「お母様が来ると伝えておいてください」

「サプライズもいいわね」

 母親はくすっと笑う。母親はやっぱり彼に似ている。笑顔は本当に似ていた。

「分かった、そう伝えておくわ。今週末空いてる?」

「空いてますよ」

「ええ、時間はどうする?午後でよろしいかしら?」

「はい、午後で大丈夫です」

 そう伝えて、別れを告げようとしたとき、母親は彼に似ていた、ていうか完全に一緒のとろけるような笑顔を私に向けた。

「青春っていいわね」

 私は普通に別れを告げて帰路につく。

 

 帰り道少し歩いたところで空を見上げた。

 前の私なら絶対に誰かに会うために行動をすることなんて絶対にしなかった。どこか、楽しみになっていた。彼の吐くしょうもない嘘を。どんな嘘を吐くのかも、彼と本の話をすることも。誰かのために嘘を吐くことは絶対しなかった。

 なんなんだろう。よくわからない。



 本当に分からない事。

 考えるより先に行動を起こすなんて今まであり得なかった。さらに、それが他人と関わることなんてもってのほかだった。

 私は、自然と君を探していた。

 そして、君を探し当てた。その時の喜びを忘れることはなかった。

 しばらくの間会わなかったから、君はどんな反応をするのか。サプライズの結果はどうなるのか、楽しみで仕方なかった。

 正直、こんな私を軽蔑する私もいた。

 複雑だった。


変な気分にさせる元クラスメイト



 受付で病室と用件とかを聞いたり伝えたりして、白い清潔な廊下を歩いていく。持ち物は特になし。見舞い品なんて持ってくることを考えてなかった。

 彼の病室前につくと、サプライズを仕掛けたことを思い出した。どうせなら、すぐに開けるんじゃなくて、ノックしてからにした。

 二、三回ノックをすると、久しぶりの彼の声が聞こえた。

「はーい、ママ、入っていいよー」

 間抜けな声だった。少し面白くて笑いをこらえてしまった。サプライズってこんなに面白いものだったことを知らなかった。しかも、彼が母親のことを『ママ』って呼ぶことにも笑える要素であった。

 ゆっくり扉を開けると、個室の部屋に大きなベットにいる彼の姿を認識した。そして彼も私のことを認識した。しばらく、二人で見つめ合ったあと、彼は電源を入れた掃除機のように騒ぎ始める。

「えええ!?ちょっと待っ…!なんで、怜奈が、いるっ…!?マッ…マはどこ!?」

「それ嘘だけど。私一人だよ」

 よく見ると、彼はぼさぼさの髪だ。

「怜奈!ちょっと待って、準備するから扉閉めて!」

 彼の言う通りに私は扉を閉めると、少し騒がしめの音が聞こえた。少し暇潰すためちょっとコンビニに買い物に行った。彼の好きなものは知らないので、適当にお菓子を選んで、帰ってくる。

 扉をノックすると「いいよー」と返事が来たので、入る。

「いやー、びっくりした。怜奈来るとは思ってなかった」

「私も来るつもりなかった」

「じゃあ、なんで来たの?」

「ごめん、少し言葉足りなかった。前の私なら」

「……じゃあ今の怜奈なら」

「来るつもりだったよ、よかったね」

 彼はとろけるような笑顔を浮かべる。本気で幸せそうな顔をするから、私は笑いをこらえる。

「あーーーーーーー、今なら死んでもいいや!」

「やめてね」

「いや、今死んだら怜奈と話せない」

「それでいいよ」

「うひーーーーー」

 口端を限界まで釣り上げた笑顔を浮かべて笑う。どんな笑い声だと思った。私はベットの近くの丸椅子に座る。ちょっと硬くて座り心地は良くない。

「そんな嬉しいの?」

「だって、好きな人だからね」

 私は、それを本音だと受け止めた。今回のことで彼のことを少し信用しなさ過ぎたと反省した。だから、私は新しい言葉を覚えた。

「ねえ、最近中路の冗談聞いてない。なんか言ってよ」

 冗談。しょうもない嘘を冗談と区別するようにした。きっとそれなら、私でも嘘を見抜けられる。

「冗談?今日はすごい雨が降ってるとか?」

「そう、そういうの」

 彼は少し考えこんで、私のことをいつものあの笑顔で見る。

「今日怜奈来てくれなくて本当に嫌だったよ」

 そのあと、少し笑顔がはにかむようになった。その様子に私はついに表情が崩れてしまった。口角が緩んで少し上がった。その様子を見た彼はすぐに驚いた顔、困惑した顔、そしてまたとろける笑顔に変わる。

「怜奈……笑った顔可愛い……」

 そう言われて少し恥ずかしくなる。話題を変えようとした。

「中路、『城砦』読めたの?」

「あー、この状態だと本屋行けないし言っても金無いし、買ってもらうのも申し訳ないしな」

「………」

 私はしばらく考えて口を開いた。

「貸そうか?今日持ってきてないから別の日だけど」

 また、彼は驚いた。

「今日の中路驚くこと多くない?」

「本当にそう思う。怜奈が驚くようなことやりすぎだよ。寿命が縮みそう」

「お母様と言ってること真逆」

「へ?なんて言ってた?お母さん」

「『好きな人が来ると寿命が延びそう』だって」

「じゃあプラマイゼロだね!」

 彼は子供みたいな笑顔を浮かべて、子供みたいに言い放つ。子供みたいな彼は私の手元のビニール袋に視線を向けた後、提案をした。

「中庭で食べようよ。散歩とピクニックのつもりで」

 別に嫌じゃないので頷いておくと、彼はまた子供みたいに笑う。彼は少しふらつきながらベットから降りる。その様子を私は眺めていると、彼はちょっと悲しめに笑う。

「病気って、感じするでしょ?」

「まあね」

 私は簡単に返事をする。早めに病室を出て彼を待っていると、看護師さんが通りかかった。どうやら彼の専属の看護師のようで、病室から出てきた知らない女子に少し訝しげだ。弁解しようにもどう伝えたらいいのか少し答えあぐねていたら、彼が助け舟。

「あー、看護師さん、元クラスメイトだよ。可愛いでしょ?」

 看護師さんは納得したような顔と頷きをして、作り笑顔で業務に移った。

「どんな説明の仕方?」

「伝わりやすかったでしょ?」

「私は納得いかない」

 私がちょっと眉を顰めると彼は面白そうに笑う。長袖の患者服の袖を少しだけ揺らしながら彼は歩く。私もその横をついて歩く。いつもは私がちょっと早足でいたが、久しぶりに横で歩くと、彼が弱っていることを実感できた。時々緩めないと彼はついていけなくなる。体育をサボっていた理由も分かる。

 自動ドアを抜けると冷たい秋風が私たちの頬を撫でる。私の上着はその秋風を守れるわけだけど、どうやら彼の患者服はそうはいかない。彼は腕を組んで小さく震える。

「さむ、もっと暖かいと思ってたんだけど…」

「中路、体には響かない?カイロ一応買ってきてたけど」

「おお、ナイス!怜奈」

 私はビニール袋から取り出した使い捨てカイロを彼に渡すと、すぐに揉んでいく。

「あったかー。やばー」

 カイロを頬につけたり、抱きしめたりして彼は必死に自分を温める。

「なんか上着とかないの?」

「上着ねーー。申し訳ないんだよ。厚手のやつって金かかるからさー。ただでさえ、入院とかで金かかってるのにね。中流家庭じゃきついよね」

「そうなの」

 私は、変に納得した後、手持無沙汰になった趣味のことを思い出した。

「上着くらいなら作れるけど」

「ん?作る?」

 彼は目を丸くさせながら間抜けな声でオウム返し。ベンチに座って話を続ける。

「趣味で編み物してる。今年は妹の分しかないから作る余裕しかないよ」

「そうなんだ…」

 彼はまだ驚いたままの顔で私を見続ける。しばらくして彼はとろけるような笑顔を浮かべる。

「うん!楽しみにする!怜奈の手作り…いいなあ…」

 すでにもらったことまでを妄想したらしい。先に行き過ぎてちょっと私は驚く。

「酷い出来でも許して」

「怜奈のだったらなんでも喜んで着るよ!」

「そう言ってくれると有り難い」

 私はポテトチップスの袋を開ける。コンソメの香りが襲ってきたが、秋風に連れていかれてすぐに消えた。私と彼の間に袋を置こうとすると、秋風に香りも袋も連れていかれてしまうので、ちょうどいい石を置いた。彼はすぐに袋に手を突っ込んで食べる。

「うまーーーーーー、久しぶりのコンソメうめえ!」

「どのくらい食べてなかった?」

「学校辞めてからお菓子何も食べてないや」

「人の金で食うお菓子はもっと久しぶりじゃない?」

「ちょっとそれ言われると食べずらくなる」

「大丈夫だけど、好きなだけ食べれば?」

 すると彼は嬉しそうに笑う。今日はよく彼の笑顔が見れる。笑顔を見るたびなんか変な気分にさせる。別に嫌って思ってるわけじゃなくて、自分じゃ理解できない何かしらの感情が湧いている。誤魔化すためにチップスをつまむ。普通においしい。

「そういや、飲み物忘れてた」

「そうだね」

「口の中渇くー、マジで渇くー」

「カロリーメイト買ってこようか?」

「もっと渇くじゃん!無理無理!」

「冗談。そんな慌てる?」

「怜奈って冗談言わない人だから、本気だって思ったの!」

「中路よりは言わないって言うか、私も久しぶりだった」

 割と早めにチップスが終わる。お菓子ではなく水菓子、つまりフルーツを買っておいた。数種類買っておいた。

「おお、俺オレンジ好きなんだよー。あ、パインも好きー」

 彼は嬉しそうにフルーツを選ぶ。私は彼が好きなものを取ってから選ぶ、つもりだったのだけど、彼が選ぶのに時間がかかっている。

「先とってもいい?」

「いいよ」

 彼は笑顔で答える。私はグレープフルーツとフォークを手に取って、彼の方を見ると彼は意外そうな顔をしていた。

「怜奈ってグレープフルーツ好きなんだ」

「好きだよ?」

「ほら、クールビューティーな人は割と甘いものが好きって言うイメージがあったから」

「それはイメージじゃなくて偏見。私は甘いもの苦手だし」

「そうなんだ」

 彼は納得しながら頷きながら、やっとパインを手に取った。彼はパインの薄いプラスチックの蓋をめくると、恍惚とした顔で容器の中のものの匂いを嗅ぐ。

「んんんー。いい香りだぁ」

「まあ、いい匂いだね」

「いい香りだよぉお。久しぶりの甘蜜の匂いと果汁の香りの混じり合いが幸せだよ」

「歌詞みたいだね」

「いやー、食べたいなあ。早く食べよう」

「匂いの幸せの勢いのまま素手で食べようなんて私は考えられないけど」

 彼はちょっと間抜けで阿保っぽい顔をして、やっと意味を理解したときに、慌ててフォークを取った。その様子にまた私は笑えてきてしまう。口角に力を込める。

「フォークの存在普通に忘れてた」

「フォークの存在を忘れてたとしても困ることはなさそうだけど」

「パスタ食べるときどうするのー!?」

「私パスタは箸で食べる人だから」

「イタリア人が泣きそうだね。パインおいしい」

 彼はパインをつまみながら幸せそうに笑う。私もグレープフルーツをつまんでみる。こっちもおいしい。苦みと甘みのマッチはすごくおいしい。でもやっぱり、生の方が私は好きだ。気づけば彼はスイカをつまんでいた。

「食いしん坊だね。病気の関係で食事制限とかないの?」

「今のところはないかな。あったとしても怜奈のだったら普通に食べちゃう」

「食べるものによっては私が中路殺したことになるよ。人は殺したくないな。特に中路と妹は」

「俺を特に殺したくない人間って怜奈に判断されてるの嬉しい!」

 彼はとびきりの笑顔を私に向ける。その様子に私は頬がちょっと熱くなったのを感じた。他人に関することに疎い私ですらもこれは照れるという感情なのはすぐに分かった。思わず彼から目を背け、グレープフルーツを口に入れる。さっきより甘酸っぱくて、少し苦かった。

 いつの間にか秋風もさらに冷たくなってくる時間になっていた。空は青から少しづつ赤を受け入れ始めている。カイロでも対応できないくらいになってきて、彼の震えはどんどん増していく。流石にまずいと思った私は、彼に戻ろうと提案する。なぜか彼は渋々承諾した。

 私は何個かのお菓子とフルーツのゴミを回収してビニール袋に突っ込むと私は立ち上がる。彼も同じように立ち上がろうとしたとき、また、ふらついた。ただ、今回に関してはふらつきどころではなく、一瞬の気絶に近い。思いっきり彼は崩れ落ちた。

 反射だった。その後のことは全く考えず、ベンチで頭を打つとか、土とかに触れてよくない細菌が弱った体に入るとかを考えてしまった。肝心の彼の反応をすっかり忘れていた。

 すぐに私は、左腕で彼の右手首を掴み、右腕で彼の背中を支えた。

 彼はすぐに意識を取り戻した。そして、思わず支えた私の顔を、少し朦朧としたような力のない、血の気のない顔で見つめた。だんだん鮮明になってきたのだろうか、どんどん彼の顔から血の色が戻ってきたと同時に、頬だけどんどん血の気が入りすぎる位に赤く染まっていく。その様子から私は自身のしたことを理解していく。

「れ、い…な?」

 彼は頬を真っ赤にして目を丸くして、私を見る。私は何も言えない。頬が熱くなっていくし、この後の行動もどうすればいいかわからなくなった。多分、周りの目から見れば社交ダンスの一場面みたいな状態。

「あの、れ…れい…あの、あの…」

 彼は少し慌てながらちゃんと自分の力で立つ。恥ずかしそうに私から目を背けた。私はどうしまえばいいかわからない右手と、彼の右手首を掴んだままの左手が、固まったまま動かない。しばらく経てば、両手の硬直はとれ、彼の右手を解放した。私の右手は体の横に、左手は離して落としてしまったビニール袋を拾い上げた。

 彼は何も喋らない。私はなんとか冷静さを取り戻したものの、どうやら彼はそうはいかないらしい。じっと赤面したまま私を見ない。見舞い初日からとんでもないことを私はしてしまったのではないかと思った。彼の寿命は延びるのではなく縮まりそうだと思った。

 しばらくそのままが続いていたため、さらに冷たくなった秋風が私と彼を容赦なく襲う。寿命と体が縮みあがるくらいだった。

「病室戻ろう」

 そう提案すると、彼は赤面と無言のまま頷いて歩き出す。さっきよりも数倍遅い彼の歩みに私は体調的に問題があるのではないかと不安になった。

「大丈夫?」

 そう訊ねると、彼はやっと声を出す。

「……大丈夫じゃないよ…。助けてくれたのはいいけど、恥ずかしいよ…。寿命縮むよ…」

「そう。ごめん」

「いや、悪いのはこっちだよ。意識失ってごめんよ…」

「それは仕方ない」

 彼は苦笑いを浮かべるが、まだ赤面は治らない。私はもうとっくに頬に熱はない。

「いつまで恥ずかしがってんの?」

「いや、だって。好きな人のファーストタッチがあれだから。流石に理性が飛びかけるって!」

「中路ってそんなに変態だっけ?」

「怜奈だって赤面してたくせに!」

 赤面しただけだから、変態ではないと思った。そんな感じの会話を続けていれば、自然と病室を通り過ぎるものだ。よくあることとは言い切れないが、一つに意識を向けていれば無意識の方はずっと続けてしまう。

 通り過ぎてしまった病室までちょっと笑いながら戻る。扉を開くと白い広い病室に真っ白なベットが置かれその近くに小さな机と引き出しがあるだけだった。

「中路って、荷物少ない人間?だとしてもこんな少なくていいの?」

「だって、死ぬ前に何するかって、ゲームじゃなくない?もっと何かしたいことを何もない所で考えたいじゃん」

「一理はあるけど理解はできない」

「賛成でも反対でもないってとらえればいいかな?」

 彼はベットに座る。ベットと患者着の組み合わせが彼を病人という印象を植え付ける。少し心が痛かった。彼もその周りの人間も、彼がこんなすずろなるめに遭うなんて思ってなかったんだろう。もちろん私も含めてだ。ただ、改めてこの状態を見ると、彼に起こった事の重大さを理解する。

 どうして彼がそのような目に遭うのかと、彼の家族はそう思ったのだろうか。ただ私は、神様が本当にいるとしても、恐らくただの気まぐれだと思う。つまり偶然である。だとしても、病気は誰にしも罹る。何も悪いことをしていない彼が異様に重い病気に罹ってしまうことには、どこか納得できない自分がいて、結構鬱陶しく、ちょっと辛かった。

「ねえ、怜奈。いつ帰るの?」

 そんな考え事をしていたら、彼は私に訊ねた。スマホを出して時計を見ると、すでに17時を過ぎていた。

「もう帰るね」

 私は彼に背を向けると、後ろから声が聞こえる。

「また、話そ?怜奈」

 一度聞いたことのある問いだった。あの時は振り返らずに立ち去ったけど、今回私は彼にちゃんと向き直す。

「うん。いつ来ればいい?」

「そうだね…連絡先交換しようか」

「それがいい」

 私は彼にスマホを見せる、彼は慣れた手つきで連絡先を交換した。

「うん、じゃあ連絡するね」

「私も来れるときは来るようにする」

 彼は笑顔を私に向けた。私も小さく口端を上げた。


笑える相手



「お姉ちゃん、私上着頼んでないよ?」

「これは私用」

「違うね、サイズが全然違う!」

 流石に騙せないと思った。妹は鋭い。ちなみに、彼のサイズは出鱈目でなく、ちゃんと彼の寸法を測ったものである。そのために彼の体に少し触れるたび彼は赤面したりちょっと困ったりしていた。ちなみに寸法図った日に『城砦』を貸した。

「もしかして、前言ってた人?」

「うん、そうだけど」

 すると妹は近所迷惑にならない程度に甲高い黄色い悲鳴を上げた。

「ラブコメ!お姉ちゃんがついにラブコメ!」

 私は呆れた。何でもかんでもラブロマンスに結び付ける人が一番嫌いなのである。

「って言うのは冗談だけど、その人何かしら事情を抱えてるのかな?」

「………里奈は超能力者か何か?」

「ばりばり人間だよ!お姉ちゃん読みやすいだけだよ」

「それで、そこまで話を掘り下げようとして何がしたいの?」

「その人に会ってみたいな!」

 妹は笑顔で言った。ちょっと心に焦りと言うか黒い何かが現れたのには驚いた。もちろんそのことも妹に読まれる。

「……お姉ちゃん、嫉妬しないでよ。私はその人に会ってみたいだけなの。二人の仲を引き裂くつもりはないよ」

「そうか、これを嫉妬っていうんだね」

「そうだよ。お姉ちゃんその人のこと特別に思ってる?」

「まあ、思ってるよ」

 妹は八重歯を見せて小悪魔的な笑顔を見せる。

「会ってみたいな、お姉ちゃんをここまで他人に興味を持たせてくれるようにした人」

 そんな興味を向ける妹の方にも興味が向くのだけれども。と、奇跡的の偶然か、メールが来た。スマホがデフォルトの音で一回鳴る。編み物棒と毛糸と編み途中の上着を机に置いて、スマホを開く。

「ああ、その人だ」

「マジ!?やった、話してみてよ!」

「電話でいい?」

「オッケー」

 私は彼に電話をかけてみると、すぐに出た。ちなみに今日は快晴。

『やっほー、怜奈。今日はびっくりするほど雨が降ってるね』

「やまびこじゃないからね」

『どうしたの?急に電話なんて』

「ちょっと、妹が」

 と、妹はすぐに私から電話を取り上げてスピーカーに変える。そしてすぐに呼びかけた。

「こんにちは!怜奈お姉ちゃんの妹でーーす!」

 もちろん、突然聞こえた知らない声に彼は混乱していた。

『れ、れ、怜奈の妹さん!?え?』

「ごめん、中路。スピーカーにされた」

「お姉ちゃんがお世話になってまーーす!」

『あ…どうも』

 いつもより萎縮している彼に私は笑いが溢れそうになる。

「用事を単刀直入に言いますね!ちょっと会ってみたいんですよ、中路さんに!」

 ただでさえ、突然の第三者の登場に混乱していた彼にさらに攻撃を仕掛ける妹が私に小悪魔的笑顔を向ける。相当楽しそうだ。

『へえ?俺に会っても何の意味もないよ?』

 まだまだ冷静になりそうにもない彼は、スピーカーでも聞こえるくらいに焦り声が聞こえる。その中で頑張って言葉をひねり出しているようだった。さらに笑いが込み上げる。私は編み物をして笑いを誤魔化そうとして、編み物棒を掴んだ。すると、限界に達してしまった。原因はスマホから聞こえた彼の間抜けな声だった。

『ほんとに会う意味もなにぃ、もないって!』

「に」のタイミングで声が見事に裏返った。私と妹は笑うしかできなかった。

「ごめん、中路。ほんっとに、ごめん。諦める気、ないみたい。妹が」

 笑いすぎて途切れ途切れになった私の言葉を彼はちゃんと聞いてくれた。

『あ、ああ。分かったから、ちょっと。い、今は無理、だから、別の日でも、いい?』

「大丈夫だけど」

「また、フ、よろしくお願いしまーーすっ!ッフフ!」

 妹は笑いながら元気に言い放って、電話をぶちぎった。電話が切れたことを確認してから妹はお腹を抱えて笑い出した。

「やっばぁ!めっちゃ面白い人じゃん!そりゃお姉ちゃん興味持つよ、ほんとに!」

「私はそこまでできる里奈の方が気になる」

「私はお姉ちゃんとその人の関係の変化が気になるなー」

「ふうん」

 また、生返事をした後、私はスマホを開いて電話前に来たメールをちゃんと確認する。彼からの顔文字の混じったメールからは返答の期待が溢れ出ていた。一応簡単に返答しておいた。



 彼としてはどう思うのだろうか。突然好きな人の妹が会いに行くと言われ、さらにそれが実現してしまったということ。彼は私と会いたいが為に、本音を語り連絡先を交換し、上着をもらう約束もしたというのに、それが仇となり好きな人の妹という知らない人間と会うことになってしまうとは、彼自身全く予想していなかったのだろう。

 だから、彼は電話で焦った。電話であそこまで焦っておいたら、実際に会った時ならそんなに慌てることはないと思っていたのだけれども、私の予想に反して、彼は私と妹をセットで見ると、驚いた。

「あれ、あの。はっきり言ってもいい?似てないね」

「でしょ。お互いに似てないよ。容姿も性格も」

 そんな挨拶無の会話をして、ふと何も喋らない妹を見ると、彼を見て絶句していた。

「里奈、どうしたの?」

 私は妹の顔を覗き込むと、思い出したように目線を動かし、口を開いた。

「えええええ…。イケメンじゃぁん…」

「イケメン?」

「イケメン?」

 妹の発言に、彼と私は同時に同じ言葉を放つ。妹はどんどん頬を赤く染めた後、妹は私の肩を掴んで、頭が揺れるくらいに揺らし始めた。

「お姉ちゃんっ、お姉ちゃんっ、何?どうしてこんな人に!?」

 あまりにも揺らすので、視界が揺らぎ始めて、足取りもふらつく。

「ちょっちょ、里奈さん?やめてあげて」

 彼がベットの上から妹を制止する声を上げた。その声でやっと妹が揺らすのを辞めると、私は思わずよろけて壁に体を預けた。彼は不安気に私を見ていた。妹はずっと彼に見惚れていた。ただ、彼は妹からの熱視線から避けるように私を見続ける。その視線の張り巡らされた病室に、看護師さんがノックをするまで、誰も動きをあげなかった。

「中路さん、今日見舞いの方いらっしゃいますよね?」

 ドア越しから看護師さんの柔らかい声が聞こえてきた。

「はーい、いますよー」

 彼の少し間抜けな声が病室内に響くと、柔らかい声がまたドア越しから聞こえてきた。

「ちょっとお話したいのでよろしいですかー?」

 その言葉に、彼は私を見た。私は別に構わないのだが、見惚れている妹がどうなってしまうのかと心配を向ける。どうやら、『イケメン』と二人きりと言う状況を想像しているようなので、大丈夫そうだ。彼にアイコンタクトを送る。

「大丈夫そうでーす」

 そして、私は扉を開いて目の前にいた看護師さんに促され、小さなロビーのようなところのソファに座る。

「急に呼び出してごめんなさいね」

「大丈夫です」

 看護師さんは優しい笑顔のまま、訊ねた。

「あなたが中路さんの好きな人なのね?」

 彼自身の口以外から出た、好きな人扱いはとんでもない爆弾なのだと気付いた。ちょっと顔に出たのかもしれない。看護師さんが笑った。

「そうみたいね、顔に出やすいってよく言ってたから。それと顔立ちが神様ってね」

 顔立ちが神様という意味がわからない。ただ、顔に出やすいというのは間違いがないので頷くことも否定することもしなかった。

「実はね、あなたが来るようになってから、彼、食欲増したのよ」

「そうなんですか?」

「そう、いつも残してたんだけど、残すどころかおかわり要求するようになったのよ」

 看護師さんは嬉しそうに笑う。

「それに、立つことも歩くこともおぼつかなかったのに、今は支えなしで普通に歩くのよ。好きな人のパワーってすごいのね」

 彼は典型的なタイプだからだと思う。それは口には言わなかった。

「ありがとうね、これからも来てほしいわ」

「それは、もちろんですけど」

 と、少しの間。

「そういえば、彼の病気に関して聞きたいんですけど、大丈夫ですか?」

「…ええ。大丈夫よ」

 看護師は少し辛そうだった。

「彼からどこまで聞いてるの?」

「今年中に死ぬ、体中に腫瘍がある。その程度です」

「そのまんまよ、本当に」

「助からないんですか?」

「若いから進行が早いのよ。治療が追いつかなかったの。残念だけど…」

「……そうなんですね」

「今私達にできることは、余生を穏やかに暮らしてもらうことだけなのよ。だから、あなたと楽しそうに笑っている姿が、嬉しいの」

 私は、看護師の柔らかい声で伝えられた重すぎる言葉に、何も言えなくなった。きっと、私はどこかで目を背けていたのだろう。その残酷すぎる事実に。彼はずっと嘘と笑顔で柔らかく包んでくれていたんだとも気付かされた。彼の優しさと私の鈍感さがうまく混ざったからこそ生まれていた病室内の雰囲気が、第三者から見れば辛くも穏やかな空間を作り出していた。

 今、彼がいないこの空間で、私はどんなことを言いたいのか、看護師さんに伝えたいのか。必死に探そうとしていた。彼よりも、妹よりも成績はいいはずなのに、自分の感情を、伝えたいことを正しく伝えられる言葉を私は知らない。語彙力とかじゃない、人に伝える方法を私は一切学ばなかった。後悔していた。今更だった。

「本当に、これからよろしくね。中路さんのこと、大切にね」

 そう言って、看護師さんは挨拶をして業務に戻っていった。私は迷わず病室に早足で行った。ただ、扉の前に立った時、彼にどういう顔をしていいのか分からなくなった。必ず顔に出てしまう自分が、今とんでもなく憎く感じた。

 ちゃんと心を作れないまま、私は扉を開けてしまった。が、その中の光景は、私の感情と反する状態だった。まさかと思っていたが、妹の位置が一切変わってない。しかもただ見つめ合ってたらしい彼は、私に気付いて助けを小さく求めていた。多分妹は一切気まずいとか思わず、彼のことを見続けていたのだろう、私のことに気付くと驚いて壁際に走って行った。そんな様子は、燻っていた感情が吹っ飛んで、笑ってしまえるものだった。

「怜奈ぁあ~」

「お姉ちゃん、おかえり…」

 彼は心底嬉しそうに、妹は至極残念そうに言った。

「何かあった?」

 分かってはいたけど一応聞いた。

「本当に、この人芸能人じゃないの?」

「違うけど」

「違うよ!」

 彼はむきになって否定した。妹はいまだに彼のことに見惚れていた。そんなにイケメンなのかと彼を見るけど、そうとは思えない。

「うー、お姉ちゃんと同じ高校にすればよかった、本当に」

 妹は本気で悔しそうに言った。と、妹はスマホを見て慌てた。

「あ、やばい、今日友達と約束してるの!」

「なんで今日にしたの?」

「私忙しいんだもん、今日しか空いてそうなところなかったの。まあ、満足満足」

 妹は満足気に扉に向かうと、彼の方へ振り返る。彼は少し肩を震わせた。

「中路さん!不束者ですが、お姉ちゃんをよろしくお願いします!」

 それだけ言って、妹は走って病室を出て行った。騒がしかった病室が一瞬で静かになる。

「よろしくお願いします……かぁ」

 彼はちょっと悲しそうに言った。

「何?」

「俺、よろしくお願いしますって言われるような人間かなぁ」

「どうして?」

 彼は、物悲し気に笑った。

「だって、今この状態じゃ、守れないだろ?」

 胸が痛くなった。

「……守れなくないんじゃない?」

「病気だし、弱ってるし。体力もなくなったから。守るって、そういうもんだろ?」

 いつになく、ネガティブで暗い事しか言わない彼に、私はずっと、胸が痛くなって思わず少しだけ感情に乗せて喋った。

「守るって、そういうことじゃないと思うけど」

「え?」

「力があるとかじゃないと思う、覚えておいてよ。心を救うことも守るって言うんじゃないの?まだ中路には喋るし、伝える力もある、私よりは説得力だって持ってる。……守るってそういうことじゃないの?」

 ここまで言ってただ熱弁していたことに気付いて恥ずかしくなる。すぐに彼の様子を確認すると、彼は笑顔を浮かべていた。その笑顔は、警戒心の消えた母親の笑顔とよく似ていた。

「……………ありがとう」

 彼の本気の感謝に、私ははにかんだ笑顔を彼に向けてしまった。

「怜奈がそこまで言ってくれるなんて、俺、嬉しい」

「………どうも」

「守る……かぁ。そっかぁ」

 彼はベットの背もたれに体を預けながら天井を見上げた。

「でも、俺怜奈をお嫁さんにはできないなぁ」

「……それ、本気?」

 彼の何気ない呟きに私は過剰に反応してしまったような気がした。ただ、彼は私の方を向くと笑った。

「本気だったよ、高校の入学式でたまたますれ違ったときに、人目惚れしてからね。でも、一年の二学期あたりで病気発覚してからは無理だなって思った」

「人目惚れだったんだ」

「うん。で、二年になってまさか同じクラスになると思ってなかった。せっかくならねー、とことん告白してから勝手に入院して死んでやろうって思ってたんだよね~」

「とことん告白されたし、勝手に死ねなかったね」

「だって、探しに来ると思ってなかったんだもん。そういえば、怜奈は時間大丈夫?」

「私に友達はいないから、予定も何もない。あるとしたら、上着作りくらい」

「そっか、そうだった。楽しみに待つよ。じゃあ早く帰った方がいいんじゃない?」

 彼は首を傾げながら訪ねる。私は答えた。

「持ってきてるよ、今ここでできるけど?」

 冗談っぽい本気の言葉と、悪戯めいた笑顔を彼に向けると、彼は複雑な顔をした。嬉しそうで、驚いた顔。そのまま彼ははにかんだ笑顔を私に向けた。

「目の前で、プレゼント作られるのは、嫌かなぁ」

「そうなんだ」

 私は合理的なことばかり考えて、相手の心理を一切考えないまま行動をしていたことに気付いて、相変わらず人との関わりを全く作ろうとしていなかったブランクのようなものを小さく憎んだ。

 私は彼のためにも編むことを諦めて、彼との会話を楽しもうと思った。編むことを最優先する考えとかもあったけど、彼と過ごすことの方が心の中の多数決で圧倒的だった。理由なんて考える気はなかった。

「ねえ、怜奈。学校にいるときって、俺がいたときと同じなの?」

「同じ?」

「他人が関わりを得ようとして話しかけて、睨む怜奈」

「そうだね、睨んでるよ」

「俺には睨まないの?」

 彼はちょっと期待を求めるような顔で訊ねた。もちろんの答えを私は出す。

「もう睨むような人として見てないから、睨む気はない」

 期待してたくせに、彼は子供みたいに表情が明るくなっていく。口を嬉しそうに開いて、口端を限界まで上げた。相当嬉しかったらしい。ただ、彼はすぐに表情が暗くなる。それに関しては、予想外だったので私は驚いた。

「何?どうしてそんな顔するの?」

 そう訊ねてみると、彼はちょっと笑って答えてくれた。

「だって、怜奈、ひとりってことでしょ?」

「どうして?元々から一匹狼だったから、一人には慣れてるけど」

「そうじゃなくて!」

 突然彼が大きな声を出すので私はさらに驚いた。彼は少し申し訳なさそうな顔をするけど、ちゃんと私に向き直った。その顔は、少し悲しそうに怒っていた。

「孤独、そっちの独りってことでしょ?」

 彼は私に怒り、そして心配していた。

一人と、独り。

私はその違いを知らない。ただ、彼は知っていた。

「怜奈は、いいの?俺が死んだら、ずっと独りじゃないの?」

「……独り、か」

 私は少し間を空ける。

「中路みたいに、冗談を吐きながら少しずつ距離を詰めようとする他人は、一人もいないと思う。結局、って言うか、どんな結果になろうとも私は独りになるんだよ。中路みたいな人は、もう出会わないと思う」

 私はそう彼に伝えた。さっき、人との関係を持とうとしなかったことに後悔をした。だからとは言っても、関係を今更得ようとは思わなかった。彼は、少し辛そうだった。

「怜奈……、俺は……」

 彼は、それ以上何も言おうとしなかった。私も、この話を続ける気はしなかった。いや、なぜか怖かった、この話を続けることを。

 しばらく静謐な時間が流れた後に、デフォルトから変えられた通知の音が鳴る。どうやら彼の携帯らしい。

「ああ……、元クラスメイトからだ…」

 彼は、携帯を見て嬉しくなさそうに、嫌々メールを読んで返信をした。

「嫌な相手なの?」

「嫌な相手じゃないよ。でも、偽って作った友達だから、ほんとは全く気が合わない他人なんだよね…」

「ふうん、中路も苦労してるんだね」

 彼は頷きながら、メールを眺めた。

「でも、俺怜奈みたいにばっさりできないんだよな」

 彼はそう呟いて、スマホを机の上に置いた。その後ちょっと笑った。

「俺、どうていなんだ」

「『道程』?何、高村光太郎?へえ、中路って詩も読むんだね」

「そっちのどうていじゃないんだよなぁ」

「同じに定めるって書いた同定のこと?」

「そっちでもないんだよなぁ、怜奈そういうの知らないんだね」

「じゃあ、どういう意味?」

 すると彼は恥ずかしそうに顔を赤らめる。

「ど、どういう意味?あー、えっとねぇ…」

「何?」

「ほら、あの、そのぉ」

「名詞だったら、詩の方と下のことしか知らないよ」

「知ってるじゃん!恥ずかしい思いさせんなよ!」

 彼は手を小さく振りながら叫んだ。本気で恥ずかしそうだった。私は笑った。そして、ちょっと外れた話を元に戻す。

「で、童貞がどうしたって?」

「何もせずに死ぬのは嫌だなぁって」

 そう言って、彼は笑った。何を考えているか分からない笑顔。私は不安になる。

「………襲うつもり?」

 そう聞いてみると、彼は冗談か本気か分からない笑顔を見せた。

「ははは、どうだろうね」

 そう彼は誤魔化した。私は今日いつもより彼の手元を警戒するように決めた。と、思っていたのだけれども、時計を確認するとかなり時間が過ぎていたことに気付いた。

「あ、中路。今日はもう帰る」

「そう?しばらくは来れるときが無さそうなんだよね。上着、楽しみにしてるよ」

 彼はそう笑った。いつも通りの笑顔。さっきの少し危険な笑顔とは違う。私は彼に笑顔を向けた。

「上着、早めに完成させる。待ってて」

「それと、本返せるようにしとくね」

 そんな約束を交わして、私は病室を後にした。廊下内で看護師さんとすれ違うと、笑顔を向けられた。私はちょっとぎこちない気がする笑顔を渡した。

 病院の自動ドアを境に木枯らしに変わりかけの秋風が襲ってきた。ずっと着ていた上着の襟を立てて、寒さを凌ぐ。凌ぎきれなかった分の風は身を縮ませ、震えて温めた。それでも寒いものは寒かった。

 

 編み物を続けていると、中間テストの期間中だったことを思い出す。ただ、私的には彼の上着の方が優先だと感じた。テストの結果は散々な気がして恐怖を覚えたけれども、編み物をひたすら続けた。

 ただ、今日の彼の少し危険な様子はなんなんだろうと、思った。


少し危険な相手



「おはよ、今日は日が出ているし風が全然なくてすごい暑い日だよね」

 旧暦ではすでに霜月。さらに、今日は日が出ておらず、木枯らしも強い。そんな日が、寒くないわけがない。ただ、今回は彼の冗談に冗談を重ねてみようと思った。

「暑いなら、上着要らないね。よし私用にしよう」

「ちょちょちょちょ、ごっめん、ちょいちょい!じょっ、冗談なんだって!」

 彼がいつになく慌てるものなので笑ってしまう。

「なんだ、そうなんだ」

「うん、今回は怜奈の方が一枚上手だった」

「でしょ」

 私は持っていた袋から上着を取り出した。彼は、それを見るなり笑顔が溢れる。私的にも自信作、多分一番上手く出来たと思う。

「やった、早速着よ…」

 そこまで、子供みたいにはしゃいでから、すぐに彼は我に帰った。そういえば、久しぶりに来た今日、彼の左手に点滴が刺さっていることに気付いた。このままでは、普通の上着は着ることができない。ただ、そんなこともあろうかと、私の作った上着には少し細工がしてある。彼はそれに気付いてない。

「……怜奈、俺今着れないよー…」

「着れるよ」

 細かく説明しておくと、普通に前側にボタンで留めるのもあるが、袖口からその前側にかけてボタンが連なっている。つまり、袖に通さなくとも着ることができるようにした。もちろん変に目立たないようにはしておいた。

 彼はそのことに気付いていないので、着せてあげることにした。袖口からのボタンをはずして、羽織らせてみる。彼は少し驚いたようにしていると、私は普通にボタンを留める。すると彼と私の距離はかなり近くなった。彼は顔を赤らめながら背けた。私はなるべく顔に出ないように心掛けた。

 着せ終わって、彼から離れると上着に歓喜する彼を見た。

「温かあああああ!なにこれ、温けえええええええええええ!」

「そこまで?」

 私は彼のその喜びをいまいち理解できなかったけど、そのはしゃぐ様子は子供よりは玩具をもらった少年のようで、少し可愛いと思ってしまう。彼は、とろける寸前の笑顔を上着に向けながらベットの上で跳ねていた。点滴のチューブが切れそうで怖い。

「えへへ、怜奈の温もりを感じるなぁ」

「誤解を招きそうな言い方しないでよ」

「そのくらい嬉しいんだよ」

 彼があまりにも無邪気な笑顔を向けるので、私は思わず顔を背けてしまった。恥ずかしいこともあるけども、正直なところ彼に対していまいちよくわからない感情か何かのせいである。本当になんなのか。

「俺さ、手作りのものそんなに持って無いんだー。手作りのものって温かいんだなー」

 彼はぱたぱた両腕を振る。一つ一つの仕草がなぜかいつもと全く違って見えた。

「ねえ、今日私の目がおかしいんだけど」

「へ?怜奈視力いくつ?」

「どっちもA判定。視力の話じゃなくてさ」

「俺たびたびBになるなぁ」

「だから違うって。中路がいつもと違って見える」

「え?俺なんかミュータントに見えてんの?」

「そうじゃない。いいや、中路に相談しても意味ない」

「そうかー」

 彼はちょっとつまらなそうに言った。彼はその顔のまま続けた。

「俺はずっと前から怜奈のこと見てたんだけどさ。うーん、俺も目がおかしいかもしれないや」

「へえ、そうなんだ」

「……前の童貞の話のせいかな?」

 私は思わずはっとして彼を見た。彼はまた少し危険な笑顔を浮かべていた。私はまた警戒をする。座ってた椅子をさりげなく彼から離すと、彼はすぐに笑顔から慌てた顔に変わる。

「ごめんって、冗談だからさ、許して許して!」

 だからと言っても私は警戒を怠らない。じっと彼を見据えていると、彼はちょっと困ったように笑って、すぐに悲しそうに眉尻を下げた。

「うん…、襲わないから……。敵対心持たないで…?」

「………もう一度はないと思って」

 彼は何も言わずに頷いた。私は音をたてながら椅子を彼のベットの方に近付けた。

「……あーあ、あと二か月かぁ」

 私は息が詰まった。言葉が出なくなった。彼のその言葉の真意は、彼自身がすぐに語ってくれた。

「もうちょっと、生きたかったなぁ」

「………なんて言えばいいの」

「いいよ、怜奈は何も言えなくていい」

 彼はいつも通りの優しい笑顔を向けたけれども、私はそれが残酷に見えた。彼の生への執着心とは対に、どんどん刻まれていく死への時間への、嘆きだと受け取った。ただ、私はその嘆きへの返答を知らないから、彼に気を使わせてしまったのである。

「でも、仕方ないんだよな。悲しいなあ」

 彼はそう呟きながらベットに寝転んだ。

「やっぱ温かいなぁ。この上着、あ、そうだ」

 と、寝転んでからすぐに彼は起き上がると、笑顔で私にお願いしてきた。

「ねえ、ニット帽作ってよ」

「……どうして?」

 私はただ理由もわからず返した。けれども、すぐにその理由が分かると、その返答をひどく憎んだ。私は彼の顔色を窺うと、彼の顔色は少し曇っていた。

「………ごめん、聞かない方がよかった?」

 私はそう訊ねてみると、彼は無理した笑顔を見せた。それを見るだけで私は何も言えなくなる。多分、彼のニット帽の要望は、髪の毛の変化を隠したいからなのだろう。病気の進行と含めて増える薬や点滴の副作用によって、髪の毛が抜ける場合があるようだ。彼の場合、薬も強いものを使われる可能性が高いと思った。

 彼にとっては、手作りのものを身に着けることが嬉しいために要望をしたのだろうけれども、私にとっては人の死が身近に感じさせるようなお願いだった。ただ、辛いものだった。

 でも、前の私ならきっとそんなことを感じることはなかっただろうし、感じても無視をしていたはずだろう。他人と関わることで起きた変化を実感できる機会でもあった。

「いいよ、ニット帽作る」

 彼はとろけるようで、申し訳なさそうに笑顔を向けた。

「ありがとう、怜奈。待ってるよ」

 私は、彼にはにかみ笑いを向けた。

「じゃあ、早く帰ってもいいかな。早めに完成させた方がいいでしょ?」

「確かにそうだ。うん、また連絡するよ。上着、愛用するよ」

 そんな挨拶をした後、病室を出ると、駆け足で病院を出る。急いで作らなきゃいけないって思った。なぜなら、いつ死んでしまうか分からない彼に頼まれたことだから。死んでしまう前に、願いを叶えてあげなくてはならなくて、そんな沢山の理由は湧いて出てくる。だけども、彼の為に行動をしていたのに、彼の少し危険な行動には乗れなかった。それは、警戒心がまだ残っているのかもしれない。未だに彼のことをストーカーだと思っていたころと変わらない部分があると思った。

 それでも、テストとの優先度は圧倒的に彼だと思う。



 十六夜。今は霜月の中旬。かなり木枯らしが強くなり、気温もどんどん下がっていく。私は上着の厚さを変えた。それでも寒くて震えが止まらない。

 病院の自動ドアを抜けると暖房による温かさとのギャップに体が驚いてから、受付に行った。すると、今日は少し検査のようなものがあるらしく、少し待つことになった。

 とりあえずソファに座って、持ってた彼用のもう一つの編み物をやって待つ。ちょっと暇を潰していると、例の看護師さんが隣に座った。

「編み物ね。中路さんの上着はあなたのね?」

「まあ、はい」

「彼いつも嬉しそうよ。それに、あなたの工夫のおかげで私達も助かっているのよ。ありがとう」

 看護師さんが私に笑顔を向けた後、ちょっと悲壮感を抱えて笑った。

「あなたは、彼が死んだらどうなるの?」

「え?」

 思っても見なかった看護師さんの言葉に私は編み物の手を止め、驚いた顔のまま看護師さんを見た。看護師さんは、口端だけ上げていた。

「なんでもないわ、そんなこと言っても不謹慎なだけだからね。行けるようになったら、呼びに来るわ」

 そう言って看護師さんは私のもとから離れた。何も、言えなかった。


 しばらく経って、看護師さんが呼びに来ると、編み物を鞄にしまい込んで病室に向かった。扉を開くと彼はちょっとぎこちない笑顔と共にベットの上にいた。

「怜奈、できた?ニット帽」

 彼は期待交じりに言い放つ。よく見ると、彼の髪はちょっと少なくなったように見受けられるし、頬の肉は少し落ちたように見えた。

「出来たよ、はいこれ」

「わー、いいなー」

 特に工夫もなく普通のニット帽を作った。彼はそのまま被るとまたとろけるくらいの笑顔を向けた。

「温かい、心地いい。フィット感すっごい」

「それはどうも」

 私は少し口端を上げてあげた。

「えへ、えへへ。温かい」

「首元は寒くないの?」

「んえ?」

 彼は状況判断ができなくなったらしい、しばらく口を半開きにしたまま茫然とした後、起動したのか、すぐに彼は嬉しそうに笑う。

「マフラー作ってくれるの!?」

「うん、今は途中だけど」

 彼は嬉しそうにはねた。また点滴が取れそうだった。

「途中なんだ。ねえ、ちょっとやらせてよ!」

「いいけど」

 私は編み物を取り出し、彼に教えていく。彼はぎこちない手付きで、でも全力で編み物をしていた。その様子を眺めていると、彼は生きていた。細かな指の動きと表情の変化が健常者そのものだった。それでも、体力が少なくなってしまっていた彼は、時々編み物棒を置いたり、手が止まったりしていたが、なんとか編み切れた。

 少しぎこちない形になったが、初めてにしてはいい出来だと思う。続きは私だ。

「難しいなぁ、でもやってみたかったんだぁ」

 彼は嬉しそうに笑う。私は素で笑った。第三者視点で私が私を眺めてみると、本当に表情豊かになったと思う。ほとんど彼のおかげである。

 私の笑顔を彼は恍惚とした表情で眺めていた。すると、彼は小さく呟いた。

「怜奈って、どう思ってんだろ…?」

「何?」

 よく聞こえなかった私は思わず訊ねた。彼は私に向き直して、はっきり言った。

「怜奈、俺のことどう思ってるの?」

 笑っているわけでも、怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。ただ、純粋に私に答えを求めていた。その純粋な問いに私はすぐに答えられなかった。私は、問いを問いで返した。

「…逆に中路はどう思ってんの」

「………俺が怜奈を?」

 彼はその失礼な問いに、不満を一切見せずに考えた。そして、彼は笑顔で答えた。

「好きだよ。会ったときからも、話すようになってからも、こうやって見舞いに来てくれるようになってからも。ずっとずっと、ずーーーーーーーーっと」

 彼がはっきりいうものだから、私は恥ずかしくなって、顔を背ける。彼はまだ続けた。

「ここまでちゃんと人を好きになったのは初めてって言うか。かなり遅い初恋かな。それで最後の恋。うん、怜奈に逢えてよかった」

 途中で、胸が痛くなった。最後の恋の相手が私で本当によかったのか。何度も頭の中で巡っては答えを得れない。彼自身に聞くしかないのだろうけど、そこまでの勇気は今湧かなかった。

「ねえ、怜奈。怜奈は、いつまで独りでいるつもり?」

「え?」

「怜奈は、他人と関わることが怖いの?それとも、何か盲信してるの?」

「盲信?」

 私は、他人との関わりに条件を付けていた?それともずっと怖かった?今この時、彼のことどころか自身のことすら分からなくなった。それでも、他者との関わりで壁になり続けていたことを思い出す。

「他人を好かぬものは他人から好かれるはずがない……」

 思わず呟いたその言葉に、彼は少し驚いた顔に変わり、怒ったような顔をし、悲しいような顔をし、困ったような顔をし、そして怒ったように言った。

「怜奈は、そんなこと信じてるの?」

 彼は、私をじっと見据えて、怒って、諭して、言葉を紡いで、そして、私を叱った。

「そんなの、信じたって、それは、ただの言い訳だよ」

 私は彼の意見に反対も賛成もしない。ただ、聞き入った。

「言い訳を、ずっと信じたって、何にも、成長しないよ」

 彼は、時々息を切らしながら、それでも言葉を紡いでいく。

「それに、それにっ。他人との関わりをっ、好かれるか好かれないかで、判断しちゃ駄目だよっ…」

 彼は掛け布団の裾を強く掴んで、私を見て、ちゃんと叱る。

「ねえ!他人に好かれるのに、関わりを持つのにっ…、条件なんて要らない!じゃなかったら、どうして俺が怜奈を好きになったの!?」

 言葉に、彼の他人との関わりで得た言葉に、私は驚き、悟り、後悔し、改めて自覚をした。そうだ、私は。

「…………」

「……………ごめん、怜奈に何か言える身分じゃないや」

 彼は、我に帰ったように申し訳なさそうに私の様子を窺う。私は、見ただけならただ茫然としていたと思う。今、体を動かそうなんて思わない。それどころじゃない、必死に頭を回転させた。

 私は、彼に。

 独りでいることの意味。関わりを持つ条件。自身の本来考えていること。

 全て、今理解したような気がして、でも少し理解できない部分もあった。

「怜奈。やっぱり、俺は怜奈が独りでいてほしくない」

 彼の、本気のお願いだった。私は、今返事はできない。もっと、時間が必要だった。自身との葛藤が、短時間で終わると思えなかった。彼が、生きているうちに間に合うかどうかも知らない。ただ、私は俯いた。

「………怜奈。俺のこと、どう思ってる?」

 私は、それを、答えられなかった。ずっと、視線の先には病院特有の白い床が見えていた。

私は、話を反らしたかった。多分、逃げたかった。

「……散歩行こう」

「うん、いいよ」

 彼は、特に不満も嫌味もなく普通に逃げを受け入れてくれた。彼は、ベットから立ち上がると、すぐにふらついた。

「もうそろそろ、車椅子かなぁ」

「そう」

 私は上手く返せなくなった。

 ふらつく足取りで、点滴の柱を掴むとそっと歩き出した。私は彼がいつ倒れてもいいように少し彼の足取りに警戒をした。それでも、彼は自身の足で歩いていく。その一つ一つの動作が生きていることを実感させた。

 なら、私は生きていたのか?誰にも見られなかった私は、生きていたのか?足を止めた。

「どうしたの?怜奈」

 彼は突然止まった私を心配そうに見ていた。彼の目には、私が生きているように見えているのか。死を実感してから、生を感じるようになった。生と死は紙一重、間違いなかった。

「……なんでもない」

 私は足を動かした。と、私はもう一度立ち止まる。

「ねえ、外行って大丈夫?」

「あ、そうか。寒いなあ」

 ということで、散歩の行く先は中庭ではなく、待合室ということになった。その途中で売店に寄り道。もちろんお金を持っているのが私一人のため、彼は申し訳なさそうに欲しいものを選ぶ。私は特に嫌悪感も不満もなくお金を払う。彼はコンソメチップスを求めていた。好きなのだろうか。

 ソファに座ると、彼はすぐにチップスの袋を開けようとしている。どうやら、開かないらしい。私は彼からその袋を取ると、開ける。そんなに力を入れずとも開けられた。彼は嬉しそうに笑って受け取ったが、私は彼の力が弱っていることに気付かされ、少し胸が痛くなる。

「怜奈ってさ、すごいよね」

 彼はチップスを口元に運びながら言った。

「なんで?」

「ほら、俺より頭が良いとことか、編み物できるとことか、美人なところとか!」

「中路の方がすごいと思う」

「な……なん、で?」

 彼は酷く驚いた様子だった。逆に私がなんで?だ。

「運動できるとこ、他人との関わりを得ることができるとこ。あとは…顔が整っているところくらいかな」

「顔が、整ってるっ!?イケメンってことぉ?」

「イケメン……?なの、かなぁ?」

 そう答えると、彼は嬉しそうに笑う。

「イケメンか、好きな人に言われると嬉しいねえ」

「その好きな人の妹に言われたでしょ?」

「覚えてないや、まっっっったく」

「物忘れ激しいね。頭どうなってるの」

「病には侵されてないから!頭だけは!」

 彼はそう言い切った。私は半分面白く、半分冗談じゃない気持ちになった。

 頭だけ。

 彼はそう言った。つまりその他はすでに病に侵されているとでも言うのか。私は顔では笑いながら、心は穏やかではなかった。

「チップス旨いなあ」

 嘘。

 彼は私の心とは対に穏やかで間抜けな顔で、チップスをつまむ。時々指先に付いた粉を払いながら、手を止めない。彼は嘘偽りない姿を私に見せている。病人姿の彼も、時折冗談を言い放つ彼も、チップスを美味しそうに食べる彼も、私に好意を寄せる彼も、いつ死ぬか分からない彼も、全て嘘を含んでいなかった。

 私は、どうだろう。

 さっきから動き続けている頭の中も、彼の死を感じるたび痛くなる胸も、思ったことがすぐ出てしまう顔と口も、彼のことに何かを感じる心も、全てを彼に見せたり伝えたりしているわけではない。それは、嘘を吐いていることになんら変わらない。本当の嘘吐きは私なのではないか。

 笑顔と、嘘。

 彼の見方が大きく変わるきっかけの病気を知る前。嘘と冗談を見分けていなかったあのころ。彼の笑顔で嘘か真実か判断していた。その頃の私は、真実と嘘しか知らなかった。今、それ以外を知った私は、笑顔だけで判断できなくなった。

 笑顔と、彼と、嘘。

 彼は嘘を吐くとき笑顔じゃなかった。友達もどきにメールを送るとき、笑顔とは程遠い顔をしていた。ただ、人気者であるとき笑顔を絶やさなかった。彼は嘘を吐くとき笑顔だった。

 笑顔。

 私は、一番怖い表情なんだと、気付いた。考えが分からない顔、考えが分かる顔。他人を嘲る顔、他人から好かれる顔。嘘を吐く顔。嘘を吐いていない顔。

 彼から出された、最も難しい課題。『独り』『関わり』まだ、分からない。提出期限は彼の死まで。いつ提出期限が終わるかも分からない。でも、早すぎれば未熟なまま。私は彼よりも頭が良くても、彼より馬鹿だと思う。

 ふと見ると彼は、私に一枚も食べさなかったことを悔やんでいた。

「ごめん…怜奈。俺、一人で食っちゃった…」

「……いいよ」

「お金払ったの怜奈なのに…」

 彼は、俯いて本気で凹んでいた。私は、一旦リセットした。フル回転した頭を少し休めさせたかった。彼はソファの上で背伸びをした。

「んーーーーーー」

 背伸びが終わった彼は私より早く立とうとした。だけど、彼なりに倒れないようにゆっくり立ち上がるため、私が気付いて立つより遅くなった。彼は、それを嫌にも思わず笑顔で私に言う。

「帰ろ、怜奈」

「…うん。病室戻ったら、帰ってもいい?」

「え!そっちの帰るも含むんだ?」

 彼は少しおどけながら、私が帰ることを残念がった。それでも、彼は私を止めなかった。彼は優しかった。

「マフラー、楽しみにしてるね。共同作品!」

 彼は廊下を歩いている途中で笑って言った。彼は無邪気だった。

「怜奈、また来てね。連絡するよ」

 病室で彼がベットに収まってから言った。彼は純粋だった。穢れている私に合わないほどに。

 

 帰り道に、私はどうすれば正解だったのだろうか。思ったことを口に出してしまえばよかったのかもしれない。嘘でも彼の喜ぶことを言えばよかったのかもしれない。それとも、逃げに走ったことが正解だったのかもしれない。

 これが他人と関わるということなのだろうか。他人のことを考え、どう答えるべきかいちいち考える必要がある。それが関わるということなのか。

 私が思ったことをはっきり顔にも口にも出せたのは、関わる意味を知らなかったからだ。彼と出会って、私は多くのことを知った。

 そして、その全てを復習しまとめる。それが、彼の出した課題なのだろう。

『中路をどう思っているのか』

 その問いを、提出期限までに。難しい話だった。だから、時間がかかってしまった。


 

 師走。すでに中旬。寒さが猛威を振るう中、クリスマスムードで街中は温かい色で彩られていた。私は、緊張していた。

 答えを、わずかながら可能性のある答えを見つけた。本当に簡単な事だった。

 久しぶりに来た彼の病室前。最後に別れて一か月。彼は、どのくらい変わってしまったのか。心配でもあり、ちょっと心苦しくもあった。少し震える手で扉を開く。

 彼は、呆けた顔で天井を眺めていた。でも、私を見るなり本気で嬉しそうに笑う。

「あああああああああ!怜奈あああぁぁあ!久しぶりぃいいいい!」

 彼は痩せていた。分かりやすく、そして、酷く。ニット帽から覗いたはずの髪は何も見えなくなった。さらにその叫びだけで異様に息を吸い込む。その様子を見て、進行を目の当たりにして、少し臆してしまう。それでも、ちゃんと逃げないように。足を前に進めて椅子に座った。

「ごめん、ほんとに。来れなくて」

「いいよ、怜奈。仕方ないもん。テストあるもんね」

 彼は、わざと言っているのだろうか。それとも知らずに言っているのか。でも、そんなことはどうでもよかった。

「中路。まだ私のこと好き?」

 表情を変えないまま彼に聞いてみると、彼は分かりやすく頬を染めた。

「へえ?あ、うん。ずっと、好きだよ」

「うん。それならそれでいいよ」

「うん…。どうしたの?怜奈」

 彼は不思議そうに訊ねた。私は、ちゃんと彼を見つめる。それでも、言葉が自然と出なかった。すると、彼から話を始めてくれた。

「怜奈いなくてずっと寂しかったよ。生きてるのか分かんなかった。時々死んでるんじゃないかって思ったよ」

「それは…ごめん」

「誰かに見てもらってないと、生きてるか分かんないんだね。看護師さんが来て俺に話しかけるたび、生きてるんだなあって思った」

「……………」

「それでも生きた心地しなかった。怜奈の有難み感じたなぁ」

 彼は天井を見上げたりしながらちゃんと話してくれた。私は、邪魔をせずちゃんと聞いた。

「ほんとに、怜奈が好きなんだなって。いない間もずっと怜奈のこと考えてた。…怜奈は?」

「中路のこと考えてた」

「それは、考える相手が俺しかいなかったからって訳じゃないよね?」

「違うよ、ちゃんと、中路を考えてた」

「……それは、前の話?」

 彼は真面目な顔に変わる。

「改めて、聞いてもいいの?」

「大丈夫だよ。答えずっと考えてた」

「…………うん」

 彼はちゃんと向き直って私を見つめた。

「俺のこと、どう思ってるの?」

 一か月間、ただ、私はマフラーじゃない、もう一つの編み物をしていた。彼との共同作業のものよりも、自身の答えを出すためなら私自身の意思で行動したものの方がいいと思った。私は、彼にそれを差し出した。

「…………でかい、ブランケット?」

 彼はそれを手に取った。すぐに嬉しそうに笑う。

「温かい……」

「マフラーはもうちょっと待ってて」

 私はそう伝えた。

 彼と関わって、生きることも、死ぬことも、他人との関わりの仕方も、全て教わった。

 でもそうじゃない。私は物事を複雑に考えてしまっていたんだろう。彼はただ私に純粋な問いをしていただけだった。

「私は、中路のことをどう思ってるか…」

「…うん、どう思ってる?」

 彼は私の答えを待つ。

 私が出した答え。

 一か月間の間、というより彼との関わりを大きく変えたきっかけから、彼のことを考えることが必然的に多くなった。それに嘘は入ってない。考えるたびに、何か変な感情が湧いていた。

 そして、彼の前でだけなら笑えた。前でも笑顔を見せる機会はあったものの、素で肉親以外に笑うなんて彼だけだった。さらに、彼の笑顔を見るのも楽しみになっていた。そして彼の冗談を待ちわびていた。来るたびに今日はどんな冗談を吐くんだろうと何度も思った。それにも嘘は含まれてない。

 彼に、今出来る全力の笑顔を向ける。

彼に想うこと。少ない語彙力で言い表す。

「好きだよ。中路」

 私はそれを、恋と呼んだ。

 そう伝えると、恥ずかしくなって顔を背けてしまった。顔がすごく熱かった。それでも彼の方を少し覗くと、彼は嬉しそうに、とろけるような顔をしていた。

「……れ、怜奈ああぁぁあぁぁっぁ~~~~」

 そして、彼は上着の袖を少し揺らし、そこから延びる点滴の管を引っ張りながら両腕を大きく広げた。私はその行動にいまいち理解できず少し首を傾げた。彼はその様子に気付いて、笑顔を向けた。

「……おいで?」

 私は素直に従って、椅子に座ってた腰低い姿勢のまま彼に近付く。こういうときだけ警戒心が薄れる私は情けない。


 中路淳



 彼はすぐに私の背中に両手を回し引き寄せる。そして、彼は私の肩に顎を乗せた。私の耳元に彼の声が聞こえた。

「……怜奈。ごめんね。ちょっと、人の体温を感じたくて」

 私は何も返さなかった。返せないんじゃなかった。否定する理由がなかった。私も、彼が生きていることを実感したかった。

 私はゆっくり目を閉じて、彼のことを意識する。

 私よりも少し大きい手でも力のない手で、でも力強く抱きしめていた。そこから感じる彼の温かい体温。厚着越しでも伝わる彼の鼓動。耳元で感じる彼の吐息。そして、彼が喋りだすと、耳元がくすぐったい。

「怜奈…。ほぼ襲ってるようなものだよ?いいの?」

「…………中路と同じだよ」

「…何が?」

「好きな人にされて嬉しいことは、嬉しいんだよ」

 私は行く先に困っていた両手を彼の背中に回す。彼の笑いを含んだ息が耳元で感じる。彼を抱いてみると、異様に細い胴体を触って確認できた。彼に確実に死がが迫っていることに気付かされ、また彼が生きていることに気付いた。

「流石に限度って言うのもあるけどね」

「………うん、知ってる。もう俺じゃできない。そこまでの体力残ってないし」

 そう彼は言った。彼は物悲しそうだった。それでも決意したように私をさらに強く抱きしめた。

「お願い。独り身で死なないで。せめて友達を作って。行けるものなら相手も作っちゃって。俺はそれをできないから。友達に戻れないし、相手にもなれない。すぐに、いなくなっちゃうから。だから、だから…」

 彼は私の肩に顔をうずめて今出せる力全て使って抱きしめた。彼は泣いているのかもしれない。悔しいのだろう、私にしてあげたい事全て彼ではできないことだから。彼は少し頭を揺らしながら私をさらに強く抱きしめる。

「………………うん」

 私は彼の願い事を素直に受け入れることしかできなかった。返事と一緒の意味で彼を潰さないように強めに抱いた。お互いにかなり強く抱きしめるものだから、お互いの距離がかなり近くなる。

 私は初めて他人と心を通わせた気がした。

 他人との関わりを得ることに一切興味もやる気も起きなかった私が、初めて関わりを得ることに喜びと幸せを感じ、前向きな気持ちになれた。

 それでもどこか、怖さは感じていた。

 他人と関わることの難しさへの恐怖もある、その関わりが一瞬で切れてしまうことへの不安もある。まさに、彼と関わった事自体が怖い事ばかりであった。

 でも、それ以上の楽しさを知った。

 他人と関わる。それが生きている。生きていることの楽しさを、私は彼に教わった。

 恋をする。他人と関わらなければできないこと。彼に教わり、また彼も私に教わった。

 他人の体温を知り、生と死を感じた。

 


 ねえ、君は。

 どうして私に恋をしたの?

 それでも、君が私に少しずつ近付き、冗談と本音を交えた話をしてくれたおかげで、私は君を好きになって、いっぱい知ることもあった。

 改めて思えるよ。

 始めて誰かのために嘘を吐いたときから、ずっと好きに思えてたんだ。

 表情がコロコロ変わる君も、少し動きがオーバーな君も、とろけるような笑顔の君も、冗談を吐くときの嘘くさい笑顔の君も、私を諭してくれた君も。

 私は、幸せだと思う。

 君と交わることができた事、本当に幸せだよ。

 君は、私と交われて、幸せなの?



「怜奈~。怜奈~?」

 彼の優しい声で私は意識を取り戻した。思わず勢いよく起き上がろうとしたら、彼を軽く突き飛ばしてしまった。ベットの布団に落ちる瞬間彼は小さく「うげっ」と言った。すぐに病室の窓を見ると、暗くなっていた。

「あ……?」

 私は驚きの顔を浮かべていたと思う。彼を見ると、少し目元が赤く腫れていたけど、少し困ったように笑っていた。

「あの…ご、ごめん」

 私は俯いて彼に謝る。多分ずっと彼に抱きついたまま何時間もいたのだろう。それに申し訳なさ過ぎたのもあるけれども、彼がずっとそのままで待っていてくれたことに何も言えなくなったから。

「いや、大丈夫だよ。よく眠れた?」

 彼は少し茶化して笑った。私はその冗談を半分笑って半分焦る。病院まで行くのに簡単な道のりではない。時間をすぐに確かめると、さらに焦る。荷物をすぐに肩に担いで、病室から出ようとした。

 すると、彼の声が後ろから聞こえて足を止めた。振り返ると彼は引き出しから人形を取り出していた。人形の大きさは手のひらに収まるくらい、フェルトで作られていた。人型の人形で、少し長い黒髪の女の子。

「これ、怜奈」

 彼は笑って見せた。さらに続ける。

「いつももらってばかりじゃ悪いし、時間もあったから。お母さんに教えてもらいながら作った。俺も、怜奈のことばかり考えてたから」

 私は差し出された人形をゆっくり受け取る。少し拙くて、でもしっかり作られていた。優しく握ってみると、彼の手と同じ温かさを感じた。私と似たような見た目なのに。

「…わたし…」

 私は彼からもらった人形をちゃんともらう。彼に笑顔を向ける。

「ありがとう。大切にする」

 彼も嬉しそうに笑った。今日はそれで彼と別れた。

 


 師走は過ぎ、クリスマスと三が日で浮いてた他人が落ち着くころ、久しぶりの雪が降る日に私は彼のもとへ行った。

 年明けてから彼と話をしていなかったから、彼との挨拶は必ずあるわけだけども、それよりも先に私は彼に伝えたいことがあるので、それを一番最初に言うことにした。

 病室の扉を開けて、彼に言おうとしたとき、彼の異変に気付いた。

 彼は本を開いたまま居眠りをしていた。あの上着を着て、ニット帽もかぶり、ブランケットも掛けたまま。私の貸した『城砦』を持ったまま。

 起こさないように椅子に座って、彼の寝顔を眺めてみる。少し頬の肉が足りないけれども、顔の綺麗さはあまり変わらない。その綺麗さを保ったまま口を少しだけ開いて俯き気味に寝ている。

 起こすか起こさないか迷ったけど、彼は私が起きるまで待っててくれたことがあるので、待っててあげる。その間編み物をしていようと思ったけど、家に忘れてしまったことに気付いて落胆した。深いため息をすると彼が少し動いたのに気付いた。

「……うーん」

 彼は小さなうめき声を上げながら目を少し開け、周りの様子を確認する。どうやらまだ寝ぼけているようで、私のことを見ても特にリアクションしない。なので、私は彼の頬をつついてみた。硬い骨ばかりだったけど、柔らかい部分はまだあった。

「ほへ?」

 間抜けな声を出して、彼はようやく私の存在に気付いた。

「あ!怜奈。おはよう、いつから?」

 私は彼の問いに答えなかった。その代わり、彼を返答に困らせる言葉をぶつけた。

「嘘吐き」

 彼は「あけましておめでとう」を待っていたのだろうけども、挨拶はこの言葉をぶつけてからにするつもりだったので、仕方ない。彼は見事に目を丸くした。そして、改めて私は彼に挨拶をした。

「あけましておめでとう」

「あ…あ?けま、して?お、めでとう…?」

 どうやら言葉の真意を理解できなかったらしい。このままだと彼の頭がパンクしそうなので解説をする。

「中路、去年『今年中に死ぬ』って言ってたでしょ」

 それでも彼は理解するまで時間を要した。そして納得したように頷くと、彼は呟いた。

「ああーー、そうだあ。そうだったあ」

 そう言って彼は笑う。

「確かに、嘘吐きだ」

「好きな人がいると寿命が延びるって本当なんだ」

「怜奈のおかげだね!」

 そう言い切る彼の笑顔が可愛いいし、格好いいので見てられなくなって目を背けた。彼の笑い声が聞こえた。

「なんか、怜奈。最近よく照れるね。可愛い」

「……うるさい」

「両想いって、いいね。ほんとに」

 彼は嬉しそうに笑う。そんな様子の彼に私は少し笑った。口端を少し上げるくらい。周りから見れば引きつり笑いなのだろうけど、私は笑顔を向けているつもり。彼はそれを知ってくれているから、彼はさらに笑ってくれる。

「………何?」

「怜奈って、やっぱ可愛いなあ。すごい可愛い。モテるよ、絶対!」

「モテるって……、睨みつける人間が?」

「睨みつけるんじゃなくて、笑顔を向ければいいんじゃないの?」

「え?」

 彼がすぐに真面目な顔を向けた。表情の変化についていけず、間抜けな声を出す私。彼はちゃんと私のことばかり考えていた。私も彼のことを考えてはいたけれども、彼ほどではなかった。

「………そうだった。そういえば言ってたね。関わってほしいって」

「うん。それをいいよって言ったでしょ?」

「そうだね」

「怜奈のさっき言った論理から言うと、怜奈が嘘吐きになるけど?」

「ああ、確かにね」

「嘘吐きにはならないで欲しいな~」

 彼は少しねだるように言った。

「うん。ならないようにする」

 素直にうなずいてみせると、彼は嬉しそうに笑った。

「えへへ。……喉渇いてきたなあ」

「…………何が飲みたい?」

「うーん」

 生理的な欲求を否定するつもりはなかったので、素直に従おうと訊ねてみると、彼はしばらく考え込んだ。特に迷う要素はなかったので少し疑問に思ったが、彼はすぐに私に向き直る。

「お水!味付きじゃないやつね」

 彼は無邪気に笑いかけた。

「分かった。買ってくる」

 私は迷わず病室から出て行った。と、財布を忘れたことに気付いて慌てて戻ると、彼が笑った。

「だよねー、忘れてたよねー」

「……知ってたなら言ってよ」

 私は少し恥ずかしくなる。彼は笑っていた。

 改めて財布を持って自動販売機に向かうと、水を探す。要望のものを見つけてその通りのお金を入れていると、ふと彼の考える時間がどうして存在してしまったのか分かった気がして手を止めた。周りの目を気にして、止まる寸前の手を震えながら無理やり動かす。入れたその手でそのままボタンを押す。音をたててペットボトルが落ちた。

 彼は、制限をされているのだろうか。

 ペットボトルを手に持って彼の病室に向かう途中で、看護師さんに声を掛けられた。

「こんにちは、温かそうな手作りありがとう」

「あ、どうも」

 看護師さんは私の手元を覗き込む。

「……それ普通の水ね。ならいいわ」

「…………制限あるんですか?」

「医者の予想を大きく上回るほど生きてるし、状態もいいの。ただ、確実に。ね」

 看護師さんはそう言った。予想を当ててしまった。

「……もう歩けないの。立っちゃうと意識が無くなっちゃうし…」

「………」

「副作用でも、腫瘍でも、色々弱ってるの。もう、制限してないと長くはないのよね」

「……じゃああまりあげない方がいいですか?」

「まあね。持ってきたかったら、一回私を通してくれるといいけど」

「………いえ、大丈夫です」

 これから持ってくることを辞めることを固く決意した。看護師さんはお辞儀をして立ち去る。少しでも気が緩めば持ったままのペットボトルが音をたてて病院の床を跳ねるだろう。そのくらいに、私は怖かった。

 好きだと想いを伝えて、やっと心を通い合えたのに。いつ死んでもおかしくない状況にいる彼が、いつもと同じようにいるから余計に怖かった。死が実感できにくくなってしまう。それでも、彼は私を気遣ってくれていた。私が怖がらないように。

 


 そこまでして、怖がりの私を守ってくれる君が、消えてしまうこと。

 私は考えられない。

 君は、消してしまった。元クラスメイトの連絡先を。

 繋がっているのは、家族と私だけ。

 消してよかったの?君が消えてしまう前に、君が生きていると信じれる人を消してしまって、君は寂しくないの?

 私だけで十分なの?



 病室に戻ると、彼は本を読んでいた。彼は視線を本から私に移すと、笑顔で迎えてくれる。

「ちょっと遅かったね?迷った?」

「いや、看護師さんと会話した」

「へえ、俺のこと?人気者なんだよ、俺」

 彼はおどけてみせた。時より見せる無邪気な笑顔と男にしては少し高めの声が変にマッチしていてずるかった。思わず顔を背けたままペットボトルを彼に渡す。彼は普通に受け取ってくれた。が、彼は落としてしまう。結局音をたてて床を跳ねた。私は屈んでペットボトルを拾って、ちゃんと彼を見て渡した。今回は落とさずに受け取れた。

「ごめんね。ちょっと重かった」

「…………そんなに重い?」

「……重く感じるだけだよ。体力減っちゃった」

 彼は苦笑いを浮かべながらペットボトルの蓋を開けようとする。力を込めてひねろうとしているけれど、支えている手をくるくる回るだけで、蓋を持つ手は一切動かない。

「………開けようか?」

「…うん、任せる」

 彼は私にペットボトルを差し出す。片手で渡そうとして落とそうになり、慌ててもう一つの手で支えた。私はそれを受け取って、軽く蓋を回すとすぐに開く。彼に差し出すとき、少し眉尻を下げていたのかもしれない。彼は少し口端を上げた。

「…………そんな悲しそうな顔しないで。好きな人にそんな顔されるの、悲しいよ」

「……好きな人が弱っていくのも悲しいから」

 そう言って見せると、彼は少し眉尻を下げながら笑う。

「そっか……。俺が悪いのかな」

「……中路は悪くないよ」

 正直に呟くと彼は目を細めた。

「うん。……うん。ごめん、悪いのは病気だね」

「ほんとだよ」

 私はそれに即答してみせると、彼は失笑する。

「はは、そんなにはっきり言うの?」

「悪いでしょ、病気が」

「病気が悪い。二つの意味だよね」

「………まあね」

 そんな会話しながら彼は時々水を飲む。重たすぎる会話に私はどうしても耐えられそうにない。私は鞄の中の飲み物を出して飲んだ。彼はその様子をじっと眺めていた。

「……何?」

「あ、いや。何飲んでるかなあって」

「お茶だよ」

「お茶かあ、いいなあ」

「嫉妬されても困るんだけど」

「うん、そうだね。仕方ないか。病気が悪いんだよね」

「それはそれで便利だね」

「言い訳に便利だよ」

 彼は笑いながらそう言った。ほとんどがブラックジョークの含んだ会話が、悲しくも、普通に楽しかった。彼は、冗談を言わなくなった。それは少し寂しかったけれども、それ以上に彼との会話が好きだった。嘘のない、多くの種類の笑顔にまみれた彼が好きだった。

「他人と関わるって、こういうこと?」

 私は思わず呟くと、彼は丁寧に解説してくれた。

「うん、そうだよ。楽しいんだよ。最初は嘘から始まっちゃうけど、少しづつ時間を重ねれば、本音で語れるよ。それが、関わるってことだよ」

 確かにそうだ。彼との関わりは嘘とは言えずとも冗談から始まった。そして、私は少し自分を偽りながら彼と関わった。今では、彼と本音で会話できるようになった。

 塵も積もれば山となる。

 小さな会話を続けていれば、絶対的な関わりを得る。私は、絶対を求めて過ぎていたから、関わりを作れなかった。

「ねえ、中路は、私と関われてよかったの?」

 無意識に出た彼への問い。彼ははにかんだ笑顔を私に向けて、すぐに答えてくれた。

「当たり前じゃん」

 たったそれだけで、私の心は満たされていくのが分かった。自然と上がってた口端と相まって細めた目に、彼は映っていた。

「怜奈は?俺と関われてよかった?初めての関わりが、俺でよかった?」

 まるで、最期みたいな問いが、少し私を不安にさせた。それでも、彼の問いは、素直に答える。だって彼もすぐに答えたし、何より少し時間を要すると恥ずかしくて言えなくなりそうだったから。

「当たり前じゃ、ん」

 あまり使わない語尾にちょっと変なアクセントになってしまったけれど、彼はとろけるような笑顔を向けた。

「そっか、よかったあ」

 彼は、自然に両手を広げた。あくまで自然に、下心はなさそう。上着の裾僅かから見える彼の手首は異様に細い上に、痛々しく点滴が刺さっている。体力の落ちたためか、伸ばす手は少し震えていたけれど、彼は私を待った。私も、自然に彼に近付いた。

「………寝ないでよ?」

「寝ないよ」

 彼はその答えを聞いた後、私の背中に手を回した。私も彼の背中に手を回した。やっぱり異様に細くて少しでも力を入れれば潰れてしまいそうだった。

「怜奈って、温かいよね。上着からでも分かる」

「………中路の方が温かいよ」

 そう呟き、しばらくお互いこのままでいた。一切喋らずに、動かずに。お互いが生きていることを、お互いに実感しながらじっとそのままでいた。

 


 君の答えが聞けて良かった。

 私でいいのなら、最期まで君のそばにいる。

 でも、私は余計に怖くなってしまったのも事実。

 君が消えてしまう。死んでしまう。

 触れられない、話せない、笑顔が見れない、君がいない。

 それだけで私は死んでしまいそう。

 今の私は、君がいなくなれば私はまた死んだと同じ状態になる。まだ、君以外の関わりを持っていないから。

 君の願い。つまるところ『私が生きていてほしい』ってことでしょ?

 自分が生きられないなら、せめて好きな人に生きていてほしいってことでしょ?

 だったら、好きな人の願いを、叶えないわけにはいかなくて。

 挑戦の連続になるかもしれないけど、君はただ見守るだけでいいから。

 


 彼の寝息が聞こえたとき、私は我に帰った。

 耳元で聞こえる彼の吐息と少し膨らんでは元に戻る体で、自分で言ったくせに彼は寝てしまったようだった。後ろに回していた手もずり落ちていた。どうしようか困ったものだ。前回私が寝てしまったとき彼はずっと待っててくれていた。待つべきなのかもしれないけれども、私は帰らなくてはいけない。なるべく体を動かさずに時計を見ると、予定していた電車にぎりぎり間に合うくらいの時間帯だった。

「……どうしよっかな」

 思わずそう呟いたとき、彼の吐息のリズムが少し変わったことに気付いた。

「……………ん」

 彼はしばらく動かしていなかった上半身を少しゆっくり大きく動かすと、ちゃんと起きる。すると、彼は驚いたように私から離れた。椅子に背もたれは付いていないので

「あえ!?怜奈、ごめん!でん、電車大丈夫!?」

 彼は慌てた様子でいる。私は時計をもう一度確認して冷静に答えた。

「間に合わないから次までここにいる」

「あ、そう。よかった……、じゃないじゃん!」

 一度平静に戻ってからすぐにまた慌てる彼に、面白くて少し笑ってしまった。私は素直に心の内を話してみせた。

「いいよ。もうちょっと中路と話したかったから」

 彼は分かりやすく顔を赤く染めてみせた。そして、少し私から目を背けた後、向き直ってとろけるように笑って見せた。

「えへへ、嬉しい。嬉しいよ」

 そう無邪気に笑う姿に、私も頬が緩んでしまう。彼の前だと私の表情筋が仕事しなくなってしまうから、素直な感情が表れる。彼にとっては嬉しいことなのだろうけど、私にとっては少しコンプレックスでもある。何とか直さないと。

「うん、俺嬉しい」

「……中路が嬉しいならそれでいいけど」

 そう言って見せれば、彼はさらに口端を上げ、目を細める。その様子に私は小さく笑ってしまった。彼はさらに幸せそうに笑った。

「俺、今人生で一番幸せだよ」

「今まではそうでなかったの?」

「そうじゃなくて、でもそうなのかな。……好きな人がいると幸せに感じるんだね」

「私は初めて関わった人が好きな人になったけどね」

「お互いに初恋だっけ?」

「うん」

「初恋はレモンの味って言うよね」

「言うね」

「俺らはレモンの味したかな?」

「………嘘の味」

「…間違いないね」

 彼は笑った。私も一緒に笑う。と言っても、第三者から見れば彼よりも笑っているようには見えないはず。それでも、彼に初めて話しかけられたあの日から感情豊かになったと、冷静に自分を見つめた。

「よかった。死ぬ前に恋できて」

「……どう返せばいいのか分からないから」

「あ、でも恋したのは病気発覚より前か。じゃあ告白出来てよかった!」

「もっと返しにくいから」

「…………死んだらどうなるのかなあ」

 彼は病室の天井を仰ぎながら呟いた。いつも以上に返せない言葉に、私は病室の床を眺めてしまう。久しぶりに病室内に流れた静謐に、耐えられなかった。私は彼の方を見ると、彼はまだ仰いでいた。物悲しそうな顔で天井を眺めていた。

 どうしようもなく、私の心に暗いものが溢れて、目の前が仄暗くなる。永遠に続いてほしかった幸せな時間を、残酷な怪物が貪りだす。

 彼が死ぬ。

 そうだった。彼と私は、その残酷の中で恋をしていたんだ。

 それでも、信じたくなかった。彼が死ぬことも、いなくなってしまうことも。

 自分の中で耐え切れずに、彼に質問をぶつけた。

「ねえ、中路は本当に死ぬの?」

 多分、私の顔は焦っていたのだろう。眉を寄せたし、声も震えた。思わず前のめりになっていた。彼は、ずっと天井を仰いでいた視線をベットの布団に落とした。彼は、無表情のままじっと考え込んでいた。私はひたすら回答を待っていた。

 彼は何も言わないまま、私を見つめた。私は、前のめりのままだった。

 そして、音の忘れた病室が、音を思い出した。

「……………死にたくないけど、死ぬんだよね………」

 彼はほんとに悔しそうに、物悲しそうに笑って答えた。

「……うん。そうだよね」

 そう答えるしかなかった。すると、彼は少し口端を上げてみせた。

「もしかして、怜奈は俺が死んでほしくないの?」

「……………当たり前じゃん」

 今まで以上に私は小声で言った。聞き取れた彼は目を細めた。

「死んでほしくないんだ」

「……」

「もうそろそろ、死んじゃうかもしれないのに?」

 彼は、少しづつ顔が俯き、眉尻を下げた。

「俺、すごく生きたい。怜奈の近くにずっと居たかった」

「……」

「でも、それって叶わない。残酷だよね」

 私は無意識に唇を噛んでいた。

「初恋が、切なすぎるよ」

「……」

「嘘の味だけじゃないよね」

「……」

「ほんとに、レモンの味かもね」

「……」

「切ないくらい、酸っぱい」

 噛む力が強くなっていく。彼は膝を曲げて、足を抱いた。

「辛い」

「……」

「残酷だよね」

「……」

「初めてで最後の恋が、こんなものなんて」

 彼はさらに足を強く抱きしめた。私は膝の上に置いていた拳が自然と強く握っていた。

「生きたかった」

「……」

「生きたかったよ。ずっと、もっと」

 彼の声のトーンは少しずつ、下がっていく。

「俺、こんな短くて、よかったのかなぁ?」

「……」

「親に、申し訳ないよ。ひとりっ子なのに。そんなに裕福でもないのに」

「……」

「俺は、生きててよかったのかなぁ」

 唇を噛む痛みも、拳を握りすぎた疲労も感じられないほど、私は全身に力を込めていた。

「怜奈。俺と関わってよかったの?前は、当たり前って返してくれたけど」

「……」

「俺、怖いよ」

「……」

「怜奈って、もっと長く生きるはずだよ」

「……」

「その長い中で、俺をずっと引きずりそうで」

「……」

「怖いよ、何度も思ったけど、怖いんだよ」

 彼は膝に顔をうずめた。私はさらに全身に力を込めた。

「死ぬことよりも、何倍も」

「……」

 彼は、しばらく間を空けた。

「怜奈。俺を忘れられる?」

 その問いに、考える必要もなく、込めた力に比例するように、病室内を大きく揺らすほどの声が出た。

「無理に決まってるっ!!!」

 その声を出すだけで私は少し息を切らした。全身の異様な疲労感と、唇の痛みをやっと感じながら、彼を見ると、彼は驚いたように私を見ていた。頬には蛍光灯に反射して光る筋が見えて、私は余計に眉尻を下げた。

「無理。中路は絶対に忘れられない」

 そう答えると、彼は何も言わないまま下を向いた。その先を見ると床に小さな丸い模様がついていた。彼は両手を顔に押し付けた。

「……中路には死んでほしくない。……知らないの?人は覚えてくれる人さえいれば生きれるんだよ?完全に忘れ去られたらその人は二回死ぬんだよ?」

「……二回…死ぬ…」

「嫌だから。中路を二回も失うなんてしたくない」

 そう言ったのがスイッチだったのか知らない。ただ、彼は喋れなくなるほど泣きじゃくる。時々嗚咽しながら手で涙を拭いては、床に模様をつけていく。私はただそれを眺めていることしかできなかった。電車の時間はとっくに過ぎていたけど、私は彼が落ち着くまで待った。いつも明るい彼が、いつになくネガティブになってしまった私の質問が悪かったのだと思っていた上に、彼の容態も怖かったから。

 ずっと心配して待ち続ければ彼はやっと嗚咽を止めた。細い指先で目元を拭って私を見た彼の目は真っ赤だった。

「ウサギの目」

 私はそう呟いたら、彼は少し頬を膨らませる。

「うるさいもん。だって、だって、好きな人に生きていてほしいって言われたんだもん」

 子供みたいな口調になっている彼が可愛かった。口端が上がる。

「電車、確実に遅れたよね。またごめんね」

「そろそろ帰らないと、電車がまずいかな。さらに時間の間隔が広くなるころだから」

「そうか、よし。急いで帰ろう」

「うん。もちろん」

「……にしても、男の泣き顔見せちゃったな」

「かわいかったからいいよ」

「褒めてないでしょ!」

 彼はちょっと怒り気味に言った。もちろんちょっと冗談を含めて。

「じゃあ、またね」

「うん。また」

 彼は手を振って見送ってくれた。ウサギみたいな赤い目で。

 私は、冬休み明け、挑戦をする。

心の底から大切な人



 冬休みが明けても、まだ寒さは容赦のない一月の中旬。始業式が過ぎて通常授業の始まるようになるころ。私は誰よりも早く教室にいた。

 前なら私と彼、時々担任がいたものだけども、彼がいなくなり、担任の気が緩むようになってしまったが故、一番最初に来るようになった。いつも通り、前の席で読書をしていた。彼の読んでいた『山月記』。外国とは違う感じがちょっと新鮮で面白かった。

 と、ずっと待っていた人がやっと現れた。と言っても、誰か特定する気もなく、そもそも誰がどのタイミングで来るかも知らない私は、教室に入る人を待っていただけ。

 彼を心配させないためと、彼の願いを叶えるために。

 それでも慣れてしまっているのか本の方に目が行ってしまう。

 音をたてて開いた戸の先、何人かの女子が集まって楽しそうに会話していたが、私がいることを確認すると、ちょっと静かになる。私が行動する前に女子の一人が私に言った。

「お、おはよ。神無さん。は、早いね」

 私に挨拶することを怖がっていた。それに続いて、他の女子も挨拶をする。

 いつもなら、私はこの挨拶を無視していた。本にだけ集中を向けていたけれども、今そうじゃない。集中を向ける相手は本だけでない。ということを、彼に教わった。いつも本に向けていた視線を彼女らに移す。彼女らは肩を震わせて驚いた。なぜなら、こう視線を移すといつも私は睨むからだ。

『睨みつけるんじゃなくて、笑顔を向ければいいんじゃないの?』

 彼のアドバイス。まだ彼に向けるほどの笑顔はすぐには作れない。もしかしたら最初は無表情かもしれない。それでも、挨拶はちゃんと返さなくてはいけない。

「おはよう」

 多分笑えてないし、トーンも関わりを持ちたい物ではなかったと思う。ただ、いつもは返さない挨拶を返したこと自体に驚いていたからそこまで考えられなかったはず。

「え?え?おはよう」

 自分から挨拶したことも忘れてしまうほどの衝撃だったのか。もう一度挨拶をしてから彼女たちは定位置についた。よく見返してみれば彼女たちは見事に目を丸くしていた。私は特に変わった様子もないように、本に視線を戻した。

 彼女たちは定位置に着いた後も小さな声で私のことを話してるようだった。クラス一の成績を持ちながら、絶対に誰かと会話どころか関係も持とうとしない人間が急に挨拶をするようになったら、当たり前である。

 もちろん、私は挨拶を交わしたのみ。自分から話しかけに行くつもりもないし、変な行動も起こすつもりはもっとない。まだ私は独りだ。それでも、それが怖いとも思わないし、逆にそのままいたいとも思わない。彼の願いを叶えたいのもあるけれど、他人との関わりを得るのが楽しいことを知ったから。

 今はまだ独りでいい。でも、少しずつ独りから卒業する。その宣言も含んだ挨拶だ。とはいっても、どうしても自分から言うことはまだ難しいので、相手の挨拶が宙を舞わないようにちゃんとそれは返すようにする。

 すると割と私に挨拶をしていた人が多かったことを知った。つまり、私と関わりを得ようと挨拶をしては玉砕していた人が多い。そう考えるとちょっと申し訳なかったかもしれない。

 ただ、まだ朝以外に会話と挨拶をする気はない。朝の勢いで話しかけに来た人には睨みこそないものの、無視のプレゼントだ。正直このやり方は間違っている気がしていた。ただ、表情の準備が全くできていない故の方法なので仕方ないような気がする。それでも挨拶しただけまだましな気がする。気がするばかりで本当に分からないことばかりだ。

 放課後、一人残った教室内で机にうつぶせになって呟く。

「ああ、難しいな」

 初手からがっつきすぎるのもよくない。けれども冷たすぎるのもよくない。こういう時彼がいればすごく助かるわけだけれども。自然と彼がもともといた場所を向いた。そこにはもう席はなく、不自然に空いた場所があるだけだった。

 

 

「えへ、お姉ちゃん。最近全然してないって思ってたからちょっと気になってはいたけど、急にやる気増したね」

 編み物棒をひたすら動かす私を横目に妹は笑って言った。

「何か悪い?」

「悪い、私の作ってくれなかったもん」

「あ」

 思わず声が出てしまった。彼のを作るのに夢中ですっかり忘れていた。妹の分は今から作っても今更である。

「………ごめん」

「うふ、いーよいーよ」

 素直に謝って妹の方を見ると、妹はニヤニヤしていた。

「あの人にでしょ?急いで作ってあげなよ。うふふ」

「……どうしてわかるの」

 そう訊ねると妹は少し眉尻を上げた。

「わかんないと思ったの?伊達にお姉ちゃんの妹してないよ」

 編み物棒を動かしていたら、妹の発言に思わず落としてしまったのは数秒後の話。

「好きなんでしょ?中路さんのこと」

 音をたてて落ちた棒を忘れた私は妹の方を勢いよく向いた。妹は小悪魔的笑顔を浮かべて私を見ていた。

「お姉ちゃんはもっと人と関わっていたら顔に出にくくなってたと思うのに」

「悪かったね」

 妹は笑いながら編み物棒を拾い上げて渡してくれた。特に礼も言わず編み物を続ける。妹はその様子を何も言わず眺めていた。



 睦月が過ぎ、如月。始めの週末、突然彼からメールが来た。

『今日来れる?』

 いつもは顔文字も付く上に、突然その日に呼ぶことなど今までなかった。何かしらあった気がして鞄を掴んで走り出していた。妹に訊ねられたけれども、それに答えることすら時間が惜しかった。ただ彼のことばかり考えた。だから、せっかく完成したマフラーを鞄に入れ忘れたことを気付いたのは、病院の自動ドア前だった。取りに戻る気もなく自動ドアに突っ込んだ。

 入った瞬間、多くの医者と看護師さんの視線を集めたことに気付いた。それでも止まれない私の足は、疲れた体に容赦ない早歩きをした。ただその足が抑制されたのは看護師さんの聞き慣れた声だった。

「待って、神無さん」

 止まった足と同時に肩で息を吸い込んだ。家から駅まで、駅から病院までひたすら走っていた上に病院内で早歩き。体力に自信のない私では簡単に息が切れてしまう。看護師さんの方をちゃんと見たときでもまだ息は上がっていた。

「……あのね。変だって思ったら必ず呼んで」

 その言葉で心の隅に深い影が落ちた。

 看護師さんはすぐには去らずに私のことを見ていた。私はただ看護師さんから目をそらし、まだ息が上がっているくせに病院の廊下を早歩きで彼の病室のもとへ急いだ。やっと着いた時には、言葉を喋ることも、飲み物を飲むことすらできないほど体力が消えていた。小さく嗚咽をしながら必死に息を整える。

 やっと整ったところですぐに扉を開いた。

 彼はちゃんとそこにいた。けれど、衰弱していたのは目に見えてわかった。

 いつも起き上がっていたのに、ベットに寝ているだけだった。近づいてみればさらに分かる。息が少し頼りなく、彼の目は半分しか開いてなかった。

「……ああ、怜奈。来てくれたんだ。びっくり、した?」

 弱弱しかった。病気を感じさせないほど元気でいた彼の面影はなく、残酷に死へ近付いている。唇を強く噛んだ。

「来るよ、あんなメール、今まで送ってこなかったから」

 私は椅子に座ることを忘れていた。座ってしまったら彼の目を見て話せないから。

「そっか。そうだよね」

 少し口端を上げながら彼は呟いた。

「………妹さんが、一回来たよ」

「え?それは連れてきたから」

「違う…。妹さん、一人で来た」

 声が出なかった。出ないほど驚いた。妹はいつも一人で行動することなんてほとんどなかった。

「いつ?…………どう、して?」

「………いつか。怜奈が寝ちゃった日から、一番近い週末」

「確かに、出かけてたけど、友達と遊ぶって…」

「じゃあ、妹さんも、嘘つきだね」

 彼はおどけて言って見せたけど、弱々しすぎて笑えなかった。

「あのね。…『大切な、お姉ちゃんだから。絶対に、傷つけないで』……だったかな」

 目元が熱くなって、ぐっとこらえた。

「でも、俺死んじゃったら……怜奈、傷つくかな」

「………当たり前、じゃん。死んでほしくないって、言ったばっかじゃんっ!」

 突然出た大声に彼は驚くことはしなかった。そっと、優しく受け止めた。

「………うん。そう、だよね」

「……」

「…怜奈、俺を忘れないで。でも、引きずらないで」

「……どうやって?どうすればいいの……?」

 目元はもっと熱くなる。

「人形……。まだ、持ってる?」

 私は大きく頷いた。

「怜奈にとって、大切な人が、出来たなら。その人形、捨ててよ」

 私は首を取れそうになるほど、視界がぐらつくほど強く振った。

「捨てて。その人形だけ、俺が怜奈に、あげたのは。俺が死んだら、それだけ残る。それが、俺を引きずっちゃう、かもしれない」

「……」

 彼はあまり開いていない目をさらに薄く細めて、口端を上げた。

「怜奈を大切に、思う人、嫉妬しちゃうよ。俺のこと、ずっと引きずってたら」

 今、声を出したなら、きっと全て溢れてしまう。溢れる感情を、今の彼が受け止められるはずがなくて。ぐっとこらえていた。

「……お願い。俺、死んでから、嫉妬向けられたく、ないなあ」

 私はしばらく間を空けて、小さく頷いた。彼は、笑ってくれた。

「うん。よかった」

 そのまま静かな時間が流れた、どのくらいかもわからなかった。病室の扉をノックされた音で私は我に帰る。

「神無さん、すいません」

 看護師さんの声だった。きっと、長くいることすら許されないはずだ。ただでさえ、危険な状況なのに。それでも、彼は鞄を持って扉に向かう私に声を掛けた。

「また、話そ?怜奈。明日に」

 その懐かしい問いに、足を止めた。話せるかどうかは分からない。けれども。

「…………うん」

 絶対に来るから。

 その思いは彼に届いたのだろうか。



 その日のうちに忘れてしまったマフラーをちゃんと鞄に詰めた。いつ渡せるかもわからない。けれど、彼と私の共同作品。彼は彼が死んで残るのは、このマフラーも一緒なんだ。明日、必ず渡そう。

「お姉ちゃん」

 妹が後ろにいた。

「明日、早く行って。家事も全部ちゃんと私がやるから」

 妹はいつになく真剣な顔だった。

「絶対、行って。行かなかったら、ぶん殴るから」

「分かった、分かってる」

 ちゃんと、妹に向かって言った。妹はそっと笑った。そんな笑顔もできるんだと感心した。


???



 朝一番の電車に乗り込んだ。駅から病院までは走った。とにかく彼のもとへ急ぎたかった。ただ、早すぎたが故に、まだ彼のもとへは行けなかった。コンビニで温かい飲み物を買って外のベンチで待っていた。と、携帯が鳴った気がして確認するとメールが届いていた。見た瞬間に、凍り付いた。

『ごめん』

 立ち上がってすぐに病院の自動ドアを抜けた。救急などもありここは開いている。それを利用して駆け抜けようとした。けれども、知らない看護師さんに止められた。

「駄目です。まだ開いてません、行っちゃだめです!」

 それでも、行きたかった。彼のもとへ。すると、よく見る看護師さんが現れた。

「神無さん。ごめんなさい」

 そう頭を下げるだけだった。思わず眉をひそめてしまう。

「……会いたがってるの。彼も。でも、さすがに。家族でもないのに通せないの」

 私は思わず首を振った。看護師さんも眉を下げる。

「家族を待って。家族側から許可が下りたら何とか通せるかもしれない。それまで待ってくれるかしら?」

 また私は首を振る。子供みたいに駄々をこねてる気がした。退化してしまうほど、彼に会いたかった。彼にもう会えなくなる前に。

 看護師さんは唇を噛んで何かをこらえた後、すぐに近くの知らない看護師さんに何やら話しかけた。すぐに私を置いて二人は行ってしまった。私はすぐに彼の病室のもとへ走る。彼の病室までの廊下が異様に長く感じられた。

 やっと辿り着いた彼の病室の前でも、その中は慌ただしいことが分かった。大量の足音が聞こえながらも、中の人の指示声もはっきり聞こえた。明確に、残酷に。

「…脈拍が危険です」

「そこのを取ってくれ」

「先生、限界です」

 病室の扉の反対の壁に背を持たれた。絶望だった。何も言わずただ天井を眺めた。何も考えられず、何も感じられなかった。茫然としていた。看護師さんに話しかけられるまで。

「神無さん。急いで、彼のもとへ行ってあげて」

「え?」

 予想外の言葉に間抜けな声を出した。看護師さんをすぐに見ると、必死さの中に優しさのある、彼では見たことのない長く生きた感じのする笑顔を向けていた。

 すぐに立ち上がって扉を開くと、医者と看護師さん数人が一斉に私の方を見た。その視線を全て無視して、彼のいる方を見ると、見たこともない機械と心拍数を示したらしい波形がわずかに動いていた。医者は少し訝しげだった。

「おい、なんで入れている?」

「お願いを聞いてあげるしかもうできないでしょう?」

 その言葉が嫌に心に刺さった気がした。でもそこまで気にするつもりもなく急いで彼のもとへ駆け寄った。昨日よりもさらに弱っている様子の彼は、目をうっすら開けていた。思わず彼の手を掴んだ。抱いてくれた時より全然冷たくて、力も全く入っていなかった。

 彼が消える。

 握ったら潰れてしまいそうな手を、自分の持ってる力全てで握りしめた。彼を離すことがないように。

 それでも、波形は覆ることはなかった。彼はその小さく開いていた目を私に向けると、口端をほんのわずかに持ち上げた。それが、彼の最期だった。



 彼の家族が駆け付けた時点でもう遅かった。母親とは顔見知りでも、父親とは初めてだった。父親は異物を見るような目つきで私を睨んだ。その目はまるで私が他人に向けていたものと何ら変わりのないものだった。因果応報とはまさにこのこと。母親は父親に説明をしているようだったが、途中で彼の死が追いついて来たのか喋れなくなってしまった。

 私はそっと彼の方へ視線を向けると、いつもなら笑いかけてくれていたのに、もう起き上がることも声を掛けることもなくなった。

 彼は死んだ。

 一度目の死。まだ一回目の死。

 彼はもう一度死ぬのか。それは私次第ではあるけども、絶対に忘れることはしないように心に決め込んだ。

 そして、彼にあげたもの。上着とニット帽とブランケット。死ぬ時も彼の近くにあったもの。もう彼の遺品となんら変わりのない、もの。その行く先は、私は決められない。そう思ってはいたものの、母親から少し説明してもらったうえで理解した父親が私のもとへ近づいて来た。

「……君が、怜奈さんだね。息子をありがとう」

 父親は彼とはあまり似ていなかった。でも笑顔の雰囲気は彼そのものだった。父親は彼のものを見る。

「どうする?あの君の作ったもの、君がもらう?」

「………いえ。あれは、彼のものなので」

 そう言って見せると、父親は小さく笑った。

「………なら、燃やしていいかい?」

「………………はい」

 少し迷ったけれども、あれは彼のもの。彼が持っていなくては意味がない。つまり、彼に返さなくては意味がなかった。

 ただ、一つ。彼に渡せなかったものがあった。彼との共同作業で出来たもの。あのマフラーは、まだ彼のものではない。彼に渡すのは、私でないといけない気がした。つまり、彼と一緒に燃やす気は最初からなかった。でも、どう渡すかも知らない。



 彼の葬式は、平日に行われてしまった。故に私は行けなかった。もちろんの話、先生ですら知らない事実を元クラスメイトは知るはずもなく、のうのうと会話をしていた。補足しておくとお通夜には行かなかった。



 君と最後に会話をしたあのときに、すごく泣きそうになった。

 でも、君がいなくなってもそれ以上に泣きそうになってないの。

 私を薄情だと笑って。

 君に渡すつもりだったマフラーは、伸ばすに伸ばして結局渡せなかった。

 ごめん。一緒に作ったものが、渡せなくて。

 でも、せめて君のもとへは届けたい。

 


「お姉ちゃん、何してるの」

 普通の家よりは若干広い庭の真ん中に七輪が置いてある光景を、妹は疑問をあらわにした。

「……燃やすの」

 私は手にあるマッチと彼に届けるものを妹に見せて言った。

「え?勿体ない。ちょうだいよ」

「いや。これは………絶対に駄目」

 そう懇願すると、妹はすぐに悟ったらしい。小悪魔的に笑う。

「ふふ、分かったよ。あの人のでしょ?」

「分かったなら下がって」

 妹に冷たく当たってみせると、妹はそんなことを知らないように眉尻を下げた。

「……亡くなったんだね。いい人だったのに」

 そう呟いて家の中に戻ってくれた。視線を家から七輪に向ける。

「………」 

 マッチを擦って火を付ける。そのまま七輪に投げ込むと、音をたてて燃え始める。

「……………君に、あげるね」

 その火の中にマフラーを投げ込んだ。マフラーを巻き込んだ火はさらに音をたてる。冬の屋外にしては、少し温かくなってくるほどだった。そして、その温かさは彼とは違うようで似ていた。

 その赤い炎を眺めていれば、もちろん飽きてくる上に、温かさで眠くなるのが人間の条理。膝を抱えた私はそのまま意識が遠のいた。



『怜奈、これ温かい!』

 君は無邪気にはしゃいでいた。上着を羽織り、ニット帽をかぶって、ブランケットをマント代わりにしていた君は、さらに首にマフラーを巻いていた。

 君の編んでいたところだけ、少し拙いマフラーを揺らしながら跳ねる君は、いつもと変わりない笑顔で見せた。

『俺があげたの一つしかないのに。ごめんね、いつももらってばかりで』

 別にいいのに。

 せっかくあげたのに、謝られたら困る。眉尻を下げてたのかもしれない。君はちょっと焦った。

『ええ、なんでそんな顔するの?ごめんって、許してよ』

 さらに君は謝った。またさらに眉尻を下げてしまう私。困っていたのではなく、ちゃんと渡せたことに嬉しかったからこそ眉尻を下げていたのかもしれない。君にはうまく伝わらないほど複雑な気持ちだった。

『…………そうだ、謝る前に肝心なこと言い忘れてたね』

 何?私は首を傾げると、君は私に全力の笑顔を向けて言った。

『マフラーくれて、ありがとう!』



「お姉ちゃん!火事起きるよ!」

 妹に揺り起こされて私は顔を上げる。視線の先にはわずかに火が残っていた七輪があった。その中に私のプレゼントの面影はなかった。妹は頬を若干膨らませていた。

「もうっ、火の扱いの時に寝ちゃ駄目だって」

「………うん。ごめん」

 そう謝ったら、突然妹は驚いたように私の顔を覗き込んだ。

「………中路さん、だっけ。イケメンだし優しいし頼りがいがあるよね。失っちゃって…ね」

「……?」

「あのね、その人に言ったんだよね。お姉ちゃんを傷つけないでって」

「……知ってる」

「…………仕方ないよね。好きな人失っちゃったら悲しいよね。………傷つくよね」

「………さっきから何?」

「………気づいてないの?」

「……………何が?」

「目元」

 妹はただそれだけ言った。私は妹の言葉の意味を知りたくて、目元を指先で触ってみる。生温かいような、冷たいような液体が指に触れて、指を目元から離すと、指は濡れていた。

「………里奈、一人にして」

「……………うん。分かった」

 妹は、もう一度家に戻った。私は七輪の前で膝を抱え込む。膝の間に顔を埋めると、私は小さく嗚咽を始めた。

 


 私は君が好きでした。

 君は私が好きみたいでした。

 それでもその想いは神様に届かなかった。

 でも、彼へのプレゼントは届けてくれた。

 届いたことが嬉しいと同時に、本当に彼が死んでしまったんだと気付かされた悲しみがやっと追いついて来た。遅かったのかな。

 今、人生で久しぶりに泣いた。

 君が泣いたとき、近くに私がいたけれど、私が泣いても君は近くにいないんだよね。

 独りって、こういうことなの?今までいた私の立場はこんな場所なの?

 泣いても、誰も受け止めてくれない。これが、独りなんだね。

 今更だ。君がいなくなってやっと気付いた。遅かったんだ。

 ごめんね。こんなバカな私でごめんね。

 そんな私を、生かしてくれてありがとう。

 そんな私に、関わる意図を教えてくれてありがとう。

 私はずっと君のことが好き。今までも、これからも。


 必ず君を忘れない。

 

 でも、君と同じくらい好きになる人ができたとき、君の願いを聞き入れるよ。


好きな人



 あの日と同じ状況。少し広い庭の真ん中に七輪が置いてある。

 ただ、あのときよりかなり環境が変わった。

 なぜこんなことをしているのか。

 理由は簡単だ。願いを叶えるためである。一つの願いは既に叶えた。最期の願いはまだ叶えていないから、この場所を離れる前に。

 手元には、マッチともらった人形。

 捨てるなんて選択はなかった。でも持っているわけにもいかなかった。ならば、燃やすしかないという、正直意味の分からない行動かもしれない。ただ、こうすればいいと私の本能がそう言っていた。

 マッチを箱で擦って火をつけて、七輪に投げ込んだ。すると、そのことに気付いた彼は屋内から出てきて私の横に立つ。私は横に立った彼を見上げた。

「いいの?燃やしちゃって。大切な人からもらったんでしょ?」

「そう言ってたから、そう願われたから」

 私は自然に笑顔を彼に向けた。彼はそっと笑い返してくれた。

「これ、怜奈さん?ちゃんと見たことなかったから分からなかった。結構似てるね」

「純太の絵よりは似てないと思うけど」

「それ、褒めてる?」

「純太のことは褒めてる」

 そう言うと、彼はいつぞやで見たとろけるような笑顔とは違う、でも意味はほとんど同じの笑顔を見せた。

 私は視線を七輪に戻す。七輪の中は赤い火で満たされていた。その赤い火の中に、フェルトの人形を投げ込んだ。マフラーよりも小さく燃えやすかったのか、激しく燃え始めた。彼は私の隣に座って火を一緒に眺め始めた。



 君の願い。二つの最期の君の願い。

 一つ、独りでいないで。

 二つ、大切な人ができたなら人形を捨てて。

 その願いは、今全て叶えられたよ。

 君はまだ好き。

 でも、君のことは二番目にしちゃうことは許して。

 もしかしたら、三、四番目になっちゃいそうだけど。



「…その人って怜奈さんの初恋の人なんだよね」

「うん」

「初恋がレモンの味って、本当なんだね」

 彼がそう言うと私は小さく笑った。まるで同じようなこと言っていたからだ。

「何?どうして笑ってるの?」

「おんなじようなこと、言ってたから」

「ええ?」

 彼は間抜けな声を出して驚くものだから、さらに笑った。

「そうなの?」

 まだ間抜けな声が抜けない彼が、愛おしかった。



 君が消えて、私は独りにならなかったよ。

 独りにならないように、少しづつ重ねてきた。

 今なら、メールでも電話でもやりとりする人はたくさんいるよ。

 時々嘘を吐いた。好みじゃないものを好みだと偽ったときもあった。

 でも、そこから好きになるものもあるってことを知った。

 ああ、でも。

 今私の隣にいる人は、そんなことから好きになったわけじゃない。

 少しづつ重ねた関わりの中で、君と似たような感情を持ったから。



 燃え終わった人形は、もう面影が残っていなかった。

 今回は泣かないし、寝ることもしなかった。忘れないように燃える火を目に焼き付けていたから。

 隣にいる彼は、焼き付け終わるまでずっと待っていてくれた。

「…………怜奈さん、その人の分まで生きよう」

 驚くほど真顔で言うものだから、一周回って冗談だと思ってしまった。

「へ?」

「何その声」

 私の方が間抜けな声を出す番だった。彼はさっきの私のように笑った。

「だから、一緒に生きようって言ってるの」

「二回目のプロポーズ?何回私と結婚するつもり?」

「何回でもできるよ、怜奈さんとなら」

 そんな恥ずかしすぎる言葉を真顔で言うものだから、冗談ではなく本気なのだと知った。そう気づいたとき、頬が異様に熱くなった。

「れ……怜奈さん!?顔、すごく赤いよ?」

 彼は焦った。私は急いで頬の温度を下げようとしたけれども、なかなか下げられない。彼にプロポーズをされた時みたいだった。と、いうことで、何も考えられない状態になった私は、勢いのまま言った。

「もうっ!そんな恥ずかしい事言えるなら、いつまでさん付けなの!」

「へえ!?」

 お互いに顔を真っ赤にした。もう何が何だか分からなくなった。ちなみにまあまあ叫んではいるものの、家には誰もいない。両親は仕事で、妹は先越されて。そのため、誰も私たちを止める人はいない。

「よ、呼び捨てするの?」

「………私はとっくに呼び捨てだけど?」

「確かに……そうだけど」

 彼はしばらく迷ったり恥ずかしがったりしたのち、やっと彼は口を開いた。

「れ……怜奈」

 どこかで聞いたことのある呼び方に私は嬉しくなった。多分、私が浮かべている笑顔は、告白したときと同じ笑顔だったのかもしれない。嘘偽りない、純粋な笑顔。

 一方彼は爆発しそうなくらいに顔を真っ赤にさせていた。その顔が変に可愛かった。

「ふふ、そんな恥ずかしがること?純太は可愛いよね」

「……頼りがいがあるって言ってほしいなあ」

 彼は顔を俯けた。このままだと凹んでしまいそうなので、少しお世辞、結構本気で褒めてあげる。

「頼りがいのある男って感じることの方が多いけどね」

「…………そう?」

 彼は顔を上げて無邪気に笑う。私はそれを見て口端を上げた。



 君にはもうできないこと。君が本当にしたかったこと。

 君にはできないことを、今私の隣にいる人ができる。

 お願い。嫉妬はしないでね。君が私の相手に嫉妬されたくないって思った通り、私の相手を君が嫉妬することは、私は全く望んでないから。

 無理だったら、私を殴ってね?彼は全く関係ないからね。

 

 私はまだ君が好きだから。ただ、その好きが彼を上回らないようにはしないとね。

 でも、彼が怒るかもしれないけど。

 笑顔は、君の方が好きだな。

 彼も笑顔は素敵だけど、君以上の人はいないと思う。

 でも彼の素敵なところはまだあるからね。君と同じように。

 なんか、聞こえてくるね。

 『怜奈って欲張りだね』って。

 うん。欲張りだよ。

 私は嘘偽りなく認めるよ。さらに笑顔を重ねるかな。

 笑顔の君も、嘘を吐かない君も、全て好きってことも、偽りなく認めるよ。

 好き、大好き。心の底から大好き。

 語彙力が足りないのはまだ変わらない。でも、どう他人に伝わるかはまあまあ学んだから、いいんじゃないのかな。

 


「うん。生きようか」

「………よかった。どう反応されるかと思った」

「だって、私だってそう思ってたから」

「……………そうなの?やった」

 彼は小さくガッツポーズを作った。

「じゃあ、七輪片付けたら、家を出ようか」

「分かった、七輪は俺が持ってくよ」

 彼は迷いなく七輪を持ち上げてくれた。私は屋内への扉を開けて彼を先に行かせた。私は手を後ろに組むと、空を見上げた。

 

 まだ、笑顔はへたくそかもしれないね。

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笑顔と君と嘘 よこはらなづき @nadukiyokohara2

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