ウィリアムの雑貨屋

木野原 佳代子

第1話 クロトンホテル2191

 20世紀初頭  1934年


 世界恐慌より5年が経ち、アメリカにおいて禁酒法が廃止されて1年後。若い女性の雇用が活発になって来た時代ではあるが、まだまだ男性社会であった時代。

 二度の大戦のちょうど合間のアールデコのモダン文化の時代である。



「ようこそ。クロトンホテルへ」

 ミザリーは赤煉瓦のホテルを見上げ、他の二人にと云うよりは、自分に向かって言った。ウェーブがかった茶髪が肩の上で揺れている。このバカンスのために美容院へ行ってロングヘアーを切って、イメージチェンジしたのだ。

「あなたはホテルの人じゃないでしょう」

 ミザリーの横を、ストレートの黒髪のボブスタイルのケイシーが慣れた足取りで、通り過ぎた。鰐革のハンドバッグに鮫革のパンプスが、彼女が裕福な事を物語っている。そのケイシーの後ろから、背中まである豪華な赤髪を揺らしながら、トリは歩いて来る。

「良いじゃない。ここのスイートに泊まるのはみんなの夢だわ」

 トリは「お先に」と、ホテルのフロントへ向かった。

 ミザリーが二人を追いかけ回転ドアをくぐると、向こうから女優帽をかぶりサングラスをかけ、口元に微笑をたたえた全身黒尽くめの女性が歩いて来るのが見えた。その女性が、ミザリーを見ると一瞬驚きの表情を見せたのが、サングラス越しに伝わったが、すぐにまた口元に微笑をのせ、回転ドアの向こうに消えた。

 ミザリーは二人に追いつくと、その背中に声をかけた。

「ねぇ、今の女優帽の女性を見た?」

「いいえ。私は見てないわ」

「私もよ。その人がどうかしたの?」

「いいえ。何でもないの・・・。雰囲気があったから有名人なのかと思ったのよ」

 ミザリーは何となくだが、驚かれた事は黙っておく事にした。

「不思議じゃないわよ。ここはクロトンホテルだもの」

 ケイシーに言われ、そうねとミザリーは自分に言い聞かせた。たまたま角度か何かでそう見えたのよね。サングラスもかけていたんだもの。きっと私の勘違いだわ。



 部屋はパンフレットに書かれてある通りの豪華な内装に加えて、バルコニーからの眺めも良い。ちょうど荷解きを終えたタイミングで、ボーイがサービスのドリンクを運んできた。昼間からお酒を飲んでいるという事実に、三人の気分はさらに高揚する。

 昼間はオープンプールのラウンジでリラックスタイムを過ごし、夜はバーで高級ホテルの雰囲気を楽しんだ。

 次の日、ミザリーが朝一番で、ホテルに備え付けのクリーニングから預けていた洋服を取って来ると、二人とも起きていて朝の準備をしていた。昨日ラウンジでケイシーにカクテルをこぼされて汚れてしまったのだ。

 と、ドアをノックされた。

 現れたのは支配人で、その斜め後ろに女優帽をかぶった全身黒尽くめの女性が立っていた。今度は、ミザリーが驚きの表情で彼女を見つめた。

「こちらの女性はお客様方の前にこの部屋に宿泊していたのですが、実は彼女が忘れ物をしたそうなのです。申し訳ありませんが、探させて頂けませんか?」

「ええ・・・。もちろん、構わないけれど」

 驚きながらも、部屋に二人を招き入れたミザリー。

 と、女優帽の女は微笑を乗せた口をおもむろに開いた。「どこにあるのかは分かっているわ」そう言うと、支配人に命じて、クローゼットのラックにかけられた、先程クリーニングから取って来たばかりのミザリーの洋服のポケットの内側を切り裂いた。

 そうして中から取り出された物は、少量の粉が入っている、白い半透明の小さな袋が数個。支配人はそれを女に渡した。

「それは何?何でそんな所にそんな物が入っているの?ううん。それより、何でそこに入っているって知っているのよ」

 女優帽の女は無言であった。


 と、女がおもむろにハンドバッグの蓋を開けながら支配人に言う。

「この事は秘密なの。わかる?」

「はい・・・」

 支配人の暗い声を聞いた途端、ミザリーは直感的に叫ぶ。

「バスルームに早く!急いで!」

 言うが早いか駆け出し、ケイシーを引き入れ、トリがドアの内側に滑り込んだ瞬間にドアを閉め、鍵をかけた。心臓がバクバクと、身体から飛び出しそうなくらい脈打っている。その事実を頭の片隅に置き、またその事実を認識できている事に少し驚きつつ。女優帽の女がハンドバッグから取り出そうとした物は拳銃だろうか。果たして、ドアの向こうからパンパンという破裂音が聞こえて来た。

「何で、どうしてっ」

 パニックになり、ケイシーが叫ぶと、

「落ち着いてっ」

 ミザリーは平手打ちを放つ。そんなミザリーの腕に怯えたトリはしがみついた。

「どうしよう」

「取り敢えず逃げるわよ」

 ミザリーはシャワーヘッドを使い、バスルームのガラスを割ろうと考えた。向こう側はベランダになっていて非常階段に続いていた。振り下ろして何度目かでガラスが割れると三人は急いで外に出た。

「痛っ」

 ガラス片で切ったらしい声が聞こえる。

 ミザリー達が外に出た事に気がついた女優帽の女と支配人が追いかけて来た。が、周囲を慮ってか拳銃は使わなかった。

 通りまで無我夢中で逃げた三人が後ろを振り返って見ると、女優帽の女も支配人もいつの間にか消えていた。道ゆく人々が何事かと彼女達を振り返る。三人は慌ててビルとビルの間の路地に入った。

「これからどうする?」

「逃げなきゃ」

「何処へ?」

「警察に決まってるじゃない」

「何て?いきなり撃たれたって?」

「そうよ」

「証拠がなくちゃ警察は動いてくれないわ」

「だからってホテルにも戻れないわよ」

「どうしよう」

 ミザリーは考えを巡らせた。この状況をどうすべきか。

「いいわ。ついて来て」

 そう言うと、通りに出てタクシーを捕まえ、行き先を告げる。

「ミドルウッドのウィリアムの雑貨屋まで」



 道中、ミザリーは何故こうなってしまってのか記憶を辿った。



〈クロトンホテルでバカンスは如何?〉

 ミザリーが新聞広告にペンフレンドの募集を出したのが半年前。職業婦人ならではの悩みを話し合う友人が欲しかったのだ。もちろん、生活は充実しているし職業を持つ楽しさはある。が、その分悩みもあるのだ。そして、その友人と休暇を利用してバカンスを楽しもうと思ったのだ。


 ミザリーはボーディングスクール(全寮制の学校)で教師をしている。5年生のクラスを持っていて、生徒達は可愛いが年頃の女の子達の女子教育は中々に大変なものがある。

 長期の夏季休暇はリフレッシュに都合が良かったし、手紙を通じて気が合った友人と会える楽しみもあった。

 と云うのも、ミザリーは一度、高級ホテルのスイートルームに泊まってみたかったのだ。歳をとってしまってからでは嫌だ。白髪の頃にパートナーと一緒にゆっくり泊まるのもそれはそれで楽しいかも知れないが、それとはまた別に、若いうちに贅沢というものを経験してみたいと思っていた。そこで歴史あるクロトンホテルに予約をしようと思ったのだが、教師の給料では一人で泊まるのには少し資金が足りない。そこで、新聞広告を通じて一緒にバカンスを楽しんでくれる友人を見つける事にしたのだ。

 返ってきた返事の中には、揶揄いが目的のものや会った事もないミザリーに対して誹謗中傷の手紙もあったが、それらは出来得る限り無視を決め込み、もちろん、時には腹立ち紛れに破り捨てる事もあったが、それでもその中から気が合いそうな人を見つけると、ミザリーは丁寧に返事を書いた。


 一人はケイシーという若手の舞台女優で、まだまだ無名ではあるが、いつの日か主演舞台を持ち、ポスターに自分の写真と名前が一番大きく載る事を夢見ている女性だった。もちろんお芝居は大好きだし、公演があると地方を飛び回り、沢山の俳優仲間と切磋琢磨する事はとっても楽しい事ではあるが、ふと、仕事とは関係なく、お芝居ではなく本来の自分としては日常を送ってみたいと思ったそうだ。

 自分よりは歳が若いであろう彼女に、ミザリーほ親しみを込めて返事を書いた。只々若い時はガムシャラに自身の夢を追う事は楽しいが、ある時、本当にこの道で良いのか葛藤する時がある。恐らく彼女もその年齢に差しかかっているのだ。ミザリーは彼女に年長者としてアドバイスをすべく手紙を送ったのである。

 それから、様々な事をお互いに手紙を通じて語り合った。好きな食べ物、好きな場所。好みの色や好みの男性についても。恋愛観は教師と女優という立場から意見が合う事は少なかったが、逆にそれが新鮮であった。自分では思いもつかない自由奔放な価値観を知る事が出来たので。

 ミザリーは彼女に会うのがとても楽しみになった。早速、今回のクロトンホテルでのバカンスについて計画を話した。

 ホテルの予約はケイシーがしてくれる事になり、ミザリーは実はもう一人宿泊者がいる旨を伝えた。ケイシーは実家が裕福なので宿泊費のほとんどを自分が持つからと、最初は人が増えるのを嫌がったが(女優という職業柄もあり)、ミザリーがもう一人の彼女も気の良い人だから絶対に楽しめるわと説得して、今回のバカンスは女三人で楽しむ事になったのだ。


 そのもう一人が、トリという広告代理店でタイピストとして働きながら、いつかは小説家として成功したいと思っている女性で、出来上がった作品を度々出版社に持ち込んでいるのだが、今のところ明るい返事がないらしい。休日のほとんどを小説を書く事に費やしているので、たまには休暇を取ってのんびりしたいと思っていた頃だというのだ。

 若手舞台女優と小説家志望、二人と手紙のやり取りをする中でミザリーは、二人を引き合わせるのはもはや自分の使命とさえ思い始めていた。お互いに良い刺激を与え合えるはずだわ。



 荷解きを終えた三人はケイシーの誘いで、中庭にあるオープンプールのラウンジへ行く事にした。

 昼間の野外ステージでは、ガムラン奏者による演奏が行われている。

「実は貴女の出ている舞台を見た事があるの。サウスウッドの劇場で。貴女、素晴らしかったわ」

「あら、ありがとう。でも、私、あの舞台はあまり出番が無かったわよ。今よりもうんと無名だったもの」

「ええ。でも、貴女の役柄はその後もお芝居の中で、重要な役割だったじゃない。それで覚えていたのね」

 ケイシーはそれまで、トリに対して興味がないような素振りをしていたのだが、このセリフには表情が動いた。

「実はそうなのよ。あのシーンは、その後の主人公の運命を暗示するセリフが入っているからとても重要なの。さすが作家志望の方ね。見方が違うわ」

 意気投合した二人の様子に、ミザリーは嬉しくなった。

「良かったわ。貴女達なら絶対に親しくなれると思ったのよ」

 ミザリーは二人に、パラソルの乗ったスカイブルーのカクテルが入ったグラスを手渡した。自分の分のカクテルを取りに戻ると、先程の女優帽の女性を見た気がした。「チェックアウトのお客じゃなかったのかしら」そう考えながら二人の所へ戻ったので反応が遅れたしまった。

「ねぇ、ミザリーはどう思う?」

「きゃっ」

 振り向き様話しかけてきたケイシーの手にはカクテルグラスが握られていて、ミザリーとぶつかった拍子に見事に洋服にこぼれてしまった。

「ごめんなさい。こんなに近くに来ていたなんて思わなかったの」

「ええ、良いのよ。私も考え事をしていたから距離を取れなかったわ」

 トリはボーイに拭く物を持ってくるように指示しながら、

「シミになる前にクリーニングに出した方が良いわね」

 促した。


 部屋に戻り着替えたミザリーは、ホテルに備え付けのクリーニング専門のフロントへ洋服を持って行った。

 フロント奥の少しだけ空いたカーテンの向こうでは、新人なのかソバカスが特徴の赤茶の短髪の青年が、その顔に刻まれたシワはこの職業に就いて長い事を意味しているのか、黒髪を綺麗に後ろに撫で付けたベテラン従業員の男性に注意を受けながら仕事をこなしていた。

 受付に置いてあるベルを鳴らすと、気付いた二人はミザリーの方を向く。助かったとばかりに、ソバカスの青年が人懐こい笑顔で近づいて来た。

「いらっしゃいませ」

「これなんだけど、シミが残らないように出来るかしら」

「わぁー、派手にかかっちゃってますね」

 屈託なく笑う青年の後ろから、表情は笑みを浮かべているが、その目には怒りを湛えたベテランの男性が近づいて来ると、一瞬だけ青年をたしなめるように睨み、それからミザリーに視線を移した。

「私どもの仕事はお客様からお預かりしたお洋服を、お買いになった時と同じ状態にして、お客様にお返しする事です。お任せください」

 洋服を受け取ると、深々と頭を下げた。その横で青年もちょこんと頭を下げてみせた。

 明日の朝までには仕上げておくという言葉をもらい、ミザリーはフロントを後にした。「あの青年はホテルで働くには素直すぎるわ。これから成長出来る事を願うばかりね」



 夜になりカクテルドレスに着替えた三人は食事を終え、バーフロアに向かった。

 シャンデリアの優しい光が、ホールの中央に置かれた白いピアノに反射して独特な世界を作る。

「素敵な空間ね」

 ミザリーはホゥと溜息をついた。

「そう?社交会も慣れて来ると退屈なものよ」

 ケイシーの言葉にトリは目を輝かせる。

「あら。詳しく聞きたいわ。小説を書く参考にしたいもの。どう退屈なの?」

「良家の男女が揃って食事をして、その後は殿方達だけで葉巻の煙の中で本当に必要かどうかはわからない政治や経済の話。ご婦人達もサロンでゴシップ話よ」

「それから?」

「詳しい事は分からないわ。だってその生活が嫌で家を飛び出したんだもの」

「いつ?デビュタント前?」

「いえ。それは終わってからよ。父が家の名誉に関わるからと」

「そう。初々しい貴女の白いドレス姿が見たかったわ。貴女の肌の色なら、パールホワイトが似合うかしら」

「そうね。仕立て屋にもそう言われたわ」

「羨ましいわねぇ」

「そういう貴女は?」

「私も家を飛び出したのは貴女と一緒ね。ただ、私の家は父が軍人なの。職業婦人を認めないのよ。父の中では、お針子仕事が得意で器量と気立が良く、料理の腕前が良い事が女性を認める条件なの。小説家なんて言ったら土に埋められちゃう」

「そうなの?」

 トリの大袈裟な表現に、驚いたケイシーとミザリーは顔を見合わせた。

「本当よ。タイピストがギリギリ許される外で働ける仕事なの。それも、結婚までと決められているのよ。冗談じゃないわ。その前に小説家として独り立ちしたいのよ」

「頑張ってね」

 ひとしきり話が落ち着いたところで、シックな薄いピンクのイブニングドレスを身に纏ったレディをロマンスグレーの紳士がエスコートして、階段を降りて来たのが目に入る。

「素敵ね。いつかはあんな風にエスコートしてもらうのも良いわよね」

 ミザリーは完全に雰囲気に酔っていた。

 紳士がレディをホールの中央に連れて行き、ピアノの女性に曲をリクエストすると、照明は落とされ甘いムードが漂う。

 一曲目が終わる頃、バーの中にいた男性達に誘われて三人は存分にチークタイムを楽しんだ。



 翌朝、少し早めに起きたミザリーは昨日預けた洋服を取りにフロントへ向かった。と、ソバカスの青年だけがそこにいた。

「おはよう。昨日預けた洋服なのだけど、出来ているかしら」

「はい。こちらに」

 青年は、昨日とは少し違って見えた。あら、少し落ち着きを覚えたのかしら。そう思いながら洋服を受け取ると、奥のカーテンが慌ただしく揺れた。現れたのは、黒髪のベテラン従業員で、少し慌てている様子だったが、ミザリーに気がつくと一瞬驚いた後、微笑を作り会釈をしてみせた。

「朝からお忙しいのかしら」

「失礼いたしました。お客様の手元へ手違いで別の洋服が渡っていないから確認をしておりました」

「これは、私が預けものよ。間違いないわ」

「その様でございます」

 二人がやり取りをしている間に、ソバカスの青年は消えていた。


 ミザリーは昨日から何だか自分の周りの人間が自分を見て驚いている事に多少の気忙しさを覚えながら、部屋へ戻る。慣れない所へ泊まったせいかしら。何だか、不思議だわ。そう思いながら洋服をクローゼットのハンガーラックへかけた。


 コンコン


 ノックの音がまだ朝の静けさの中にある部屋に響いた。




「と云うわけなのよ。ウィリアム」


 N市から北に数キロの所に広がるミドルウッドの町にウィリアムの雑貨屋はあった。

 18世紀後半から旅人達の宿場町として栄えてきたミドルウッドは、今でも通りの向こうの路地で、日曜日にはマルシェが開かれている長閑な町である。

 ミザリーはロゼッタが淹れてくれた紅茶を一気に飲み干した。ロゼッタは9歳の少女で、事情があり遠縁のウィリアムと一緒に暮らしている。ウィリアムに代わって家事を一人でこなしている中々しっかりした子である。

「無作法でごめんなさい。ロゼッタ、紅茶をありがとう。いつも美味しいわ」

「どういたしまして。順番に手当をしましょうね。さぁ、こっちへいらっしゃい」

 他の二人もミザリーに倣い、ようやく人心地着いた様だ。逃げる際にガラス片で切った傷の手当てを受けるミザリーとケイシー。

 手当が済むとウィリアムはロゼッタに用事を頼み、部屋を出て行かせた。


「なるほど。それで君達は、クロトンホテルから逃げて来たのだね。赤煉瓦が特徴の今でも残るブリックゴシック様式の、あのホテルから」

 ウィリアムはゆっくりと椅子から立ち上がった。頭の後ろで束ねられた黒髪が少し揺れた。


 立ち上がったウィリアムは窓辺に近づき、周囲を窺う。と、振り返り、その焦点をトリに当て、一言。

「お仲間は到着しているかな?」

 トリは眉一つ動かず、厳しい表情のまま言った。

「ええ」


 ミザリーの目にはそこからスローモーションの様に映った。

 トリが素早く窓に向かい合図を送ると同時に、ケイシーが、ズボンの裾を捲り、足首に付けられたホルダーから拳銃を取り出し、トリに向かって発砲した。それを、駆け寄ってきたウィリアムにの肩越しに、驚きの表情のまま見つめていた。庇われながら、カウンターの後ろへ誘導される。

 と、同時に店のドアが開いて、警官隊が突入して来る。他勢に無勢と観念したのかケイシーが抵抗をやめると、その手首に手錠がかけられた。



 長閑な町の突然の騒ぎに何事かと押し寄せていた人の波が、警察車のサイレンの音が遠ざかるのと同時に引けていった頃、ようやく状況を飲み込めたらしいミザリーが、今度こそ一息つけるわと、再びロゼッタの淹れてくれたお茶を一口飲んで、こう言った。

「つまりこう云う訳ね。

 あの女優帽の女は麻薬の密売をしていて、ケイシーと取引をする予定だった。あのホテルの支配人もグルね。ところが、何故かはわからないけど、私の洋服のポケットに麻薬を入れてしまった。それを私から取り返すために、私達の部屋へ侵入してきた。私達を殺すつもりでね。いえ、正確には私とトリをね。

 こんなところかしら、ウィリアム」

 女教師らしい口調で、自身の推理を話すミザリー。

「まぁ、大体はそうだろね」

「でも、間違って私の私の洋服に入ってしまったのなら、ケイシーが隙を見て私の洋服から抜くなり、洋服を盗むなりしたら良かったのじゃないかしら」

「間違ったんじゃないのさ。クロトンホテルの旅行者で、薄茶のウェーブがかった肩くらいまでの長さの20代の女性の預ける洋服。これが相手に、あのクリーニングの従業員に与えられた情報だったのさ」

「それって・・・」

「そう。今の君の姿にそっくりだ。そして、旅行に来る前のケイシーの姿なんだよ」

 そう言ってウィリアムが見せたポスターにはその通りの姿の女性が、端の方に小さく写っていた。そして、主要な俳優達の名前が並べられた後に、小さく書かれたケイシーの名前を見つける事が出来た。

「このお芝居の時はこの姿だったんだ。舞台女優という職業柄、公演で地方を飛び回るし、その時々のお芝居によって見た目を変えられる。麻薬の密売にピッタリだったのさ」

「だから、女優帽の女は私を見て驚いたのね」

「そう。本当なら麻薬を受け取るのはその姿のケイシーの筈だった。君が洋服を預けに行った時は、ケイシーだと思われていたんだ。ところが、後でケイシーとは別人だと分かった」

「だから、あの従業員は慌てていたのね。ところで、どうしてケイシーは姿を変えたのかしら」

「彼らはトリの存在に気が付いたのさ。そのまま取引を成立させれば麻薬捜査官のトリに逮捕されてしまう。そこで、一計を案じた」

「どんな?」

「ケイシーが麻薬の密売人で、ケイシーを逮捕しようとしたトリがケイシーに殺され、ケイシーもまたトリに殺され、ケイシーの仲間の君が麻薬を持って逃げた。もちろん君は殺されて、死体はどこかに隠されて、消息不明のまま捜査は終わる。こんな具合の筋書きだろうね」

「おぉ、怖い。でも、ケイシーは何故殺される必要があるの?彼女達の仲間じゃなかったの?」

「麻薬の運び屋的な役割だったんだ。警察に目をつけられたら、切り捨てる駒だったんだよ」

「ケイシーはその事に気がついた。いつ?」

「旅行の前だろうけど、確信したのは女優帽の女が君を見て驚いた時だろうね。あの時、彼女は本当は見ていたんだよ」

「だとしてもよ。もう一つ気になるのは、いつ私が美容院へ行ってこのヘアースタイルになると予想できたのかしら」

「それは偶然だろうね。ケイシーにしてみれば、間違われるのは誰でも良かったんだ。自分が逮捕されずに、女優帽の女の目論見を外したかったんだから。適当に自分の背格好に似た女性がいたら、君にしたみたいに服にカクテルか何かをこぼしてクリーニングへ行かせただろうね。彼女にとっての悲劇は偶然にも君がその姿になってしまった事だよ」

「そうだったのね。ところで、ウィリアム。何故、彼女が怪しいと分かったの?」

「彼女の持ち物はどれも高価で、無名の若手女優の持てる品物ではないよ」

「彼女の言った家柄については?」

「彼女はデビュタントの衣装を知らなかった。デビュタントで着るイブニングドレスは純白(ピュアホワイト)と決まっているんだ。パールホワイトはあり得ない。社交界の女性なら当たり前に知っているべき事実だよ。つまり、彼女の家柄は彼女が言うほど裕福ではないのさ」

 ウィリアムは言うと、ロゼッタの淹れてくれたお茶を一口飲んだ。



 騒ぎの噂になっていた日常にもその噂にも人々が飽き始めたある日の朝、ウィリアムは日課にしている開店前の店内の掃除をしていた。

 ガシャカラランカラン

 ドアを揺する反動でドアベルが変な音を立てた。開店前なのでドアには鍵がかけられている。つと、見上げた視線の先には、豪華な赤髪に黒のスーツを身につけたトリがいた。

「先日は世話になったわね。店内が散らかったでしょ。ごめんなさい」

 トリの手には、焼き立てのマフィンが入っていると思われる匂いのする紙袋が乗せられていた。


 ウィリアムが入れたコーヒーの匂いが店内に漂うと、トリは紙袋を開けてマフィンを二つ取り出し、一つをウィリアムに渡す。

「あなたが噂のウィリアムね。ロッドの言った通り、頭の切れる男ね。助かったわ」

 ロッドは市警察の殺人課に勤める警部で、彼が警部補の頃からの知り合いで、事件に行き詰まると、この店にやって来て世間話がてら事件の話をして行く。そして、ウィリアムから何かしらのヒントを貰い、事件解決の糸口を掴んでいくのだ。

「どういたしまして。ところで、君の相棒のあの彼は中に入ってこないのかい?」

 ウィリアムが指した先には、スーツ姿の赤茶の短髪にソバカスの青年が立っていた。鋭い視線は警察然としているが、ウィリアムに気付くと人懐こい笑顔を見せた。なるほど、あの笑顔で彼は人の心の警戒を解くのか。

「いいのよ。彼は外で待たせているの。それはそうと今日はあのおチビちゃんはいないのかしら」

「さっき、お使いに出したよ。分かってると思うが。そのために彼を外に立たせているんじゃないのかい」

「念のためよ。子供に聞かせたい話じゃないわ」

「あの子は聡い子だよ」

「だとしてもよ、ウィリアム。子供はもちろん馬鹿じゃない。賢いの、本当はね。でもね、子供なのよ。まだ形が定まっていなくて不安定な生き物なの。だから大人に庇護され保護されているのよ。それを忘れないで」

 何か思いを含めるように、トリはジッとウィリアムの目を見つめた。

「分かったよ。気に留めておこう」

 ウィリアムは頷いた。

「良かった。それで、いつ、私が警察官だと気付いたのかしら」

「逃げ込んで来た時におやっと思ったよ。君だけ怪我をしていなかった。確信したのは話を聞いたからさ。あの状況でガラス片に気を使えるのは、最初からそうなる展開を予想していたからだ。ミザリーは教師だからとっさに皆を守る行動に出た。だから彼女に任せたが、そうじゃなければ君が誘導していたろう。そして、もし君が彼らの仲間なら、疑われないようにケイシーの様にワザと怪我をして見せたよ。そうしないのは、後で正体が分かっても構わないからだ。つまり、警察官である」

 トリはイエスと言う代わりに、微笑みながら「流石ね」と目を伏せた。それからふと顔を上げてウィリアムを見つめると、彼が怒っているのが雰囲気でわかった。

「何か言いたい事がありそうね」

「ミザリーを巻き込む計画を立てたのはいつだい?」

「あら、あなたも頭のお堅い連中と一緒なのね。・・・新聞広告を見た時よ。どうにかしてケイシーに近づこうと思っていたから、彼女手紙を出したのを知って絶好の機会だと思ったのよ。犯罪者って警察官に対して鼻が効くから、長い時間を二人きりで行動していれば気付かれる可能性があると思ったの。だから、気に入られる様にミザリーの好きそうな手紙を書いた」

「その事を君の上司は許したのかい?」

「あの手の男達わね・・・まだ自分達だけが強いと思っているのよ。女はそんなに弱くないわ」

「君は警察官だがミザリーは普通に暮らす女性だ。危険を承知で職業を選んだ君とは違う」

「馬鹿にしないで。彼女を囮に使おうと思った時に、彼女の事は私が死んでも守ると決めたのよ。そんな覚悟も無しに巻き込んだりしないわ」

「君こそ、馬鹿にするんじゃないよ。彼女の命も君の命もどちらも大切で守るべき命だ。警察官の覚悟は市民の命も自分の命も守る事にあるんだよ。ロッドは君にその事は教えてくれなかったのかい?」

 瞬間、トリはハッとした表情を見せた。それからフッと自嘲気味に笑うと

「そうね。そうだったわ。自分の命も守れない人間は他人の命も守れない。己もまた守るべき一人の人間だったわね」

 自分に言い聞かせる様に呟く。

 女性に与えられた職業が教師やタイピスト、お針子仕事や施設の経営管理などの今の時代に、警察組織にタイピストとして採用され、機知に富んだ頭脳やその度胸の良さから現場に出る事を許された自分は、職業婦人の仕事の幅が広がればとガムシャラになり過ぎたのかも知れない。このままいけば周りが見えなくなって、仲間に頼る事の出来ない孤独な人間になってしまうところだった。

「ありがとう。ウィリアム」

 ウィリアムはどういたしましての意味を込めて、ゆっくりと頷いた。

「僕の方からも質問を良いかな。女優帽の女は見つかったかい?」

 トリは無言で首を振る。

「ケイシーから情報は?」

「何処の誰か分からずに取引をしていたみたい。持ちかけられたのは、2年前のクロトンホテルでのクリスマス公演の時らしいわ。それから、公演がある度に劇場や彼女の宿泊するホテルに連絡が入るらしいの。今回は、ミザリーの新聞広告に返信して親しくなる事。ホテルへ泊まる事の指示があったそうよ。それからの事は、ホテルに着いたからクリーニングに預けた洋服の中に麻薬と一緒に、指示書が入る予定だったらしいわ。そんな物は無かったけど」

「ホテルの支配人は?」

「失踪中よ。でも見つけるわ」

 トリの眼には力強さがあった。


 ドアノブに手をかけたトリの背中に向かいウィリアムは聞いた。

「小説家志望だったのかい?」

 一瞬、彼女の周りの時間が停止した様に思われた。ゆっくりと振り返りトリは口を開く。

「兄がね。身体が弱かったの」

「なれたのかい?」

「いいえ。病院で死んだわ。一人で。17歳だった。父は私と母に兄を見舞う事を禁止したのよ。軍人の息子が身体が弱くて、小説家になりたいのは情けないのですって」

 ドアをくぐるトリの背中には父親に対してだけでなく、自分の心に反してその言いつけを守った自分への苛立ちも背負っている様に見えた。



 こうしてウィリアムは、ミドルウッドの町は日常に戻ってゆく。

 通りの向こうの路地では、日曜になれば変わらずマルシェが開かれ賑やかになるだろう。ロゼッタはご近所の井戸端会議に参加して、また町のゴシップを持ってきて、大人相手にこまっしゃくれた意見を言うのだ。そしてそんなところも可愛らしいと思う自分が未来にある事を、ウィリアムは知っている。


 カランコロン

「いらっしゃいませ」

 今日もまた、店のベルが鳴る。





 カシャン

 店の鍵が閉まったのを確かめて、ウィリアムは自室に戻った。電気はつけずに、マホガニーの机の上に置かれた燭台の蝋燭に火を灯す。引き出しから古い新聞を取り出し火に近づけると、たちまち炎は紙を侵食していった。


『1924年

 クロトンホテル2191号室

 密造酒製造の容疑のマフィアのボスが何者か

 に殺される

 関与の疑いのホテルの支配人失踪

 現場で女優帽の女の目撃証言あり』






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