第3話 招かれた客人 続1


 びゅう、と強い風が吹いて俺の短い髪を巻きあげた。


「…ふぅ。」


 微かに香った夏の匂いに、もうすぐ春が終わってしまうのかと寂しい気持ちになる。


 今日も空が青いな。


 GGで朝のシフトを終え、そのまま大学に来た俺は辺りを見回す。


 昨日の今日でのバイトだったから、友人が悪ノリしてくるかもと身構えていたが結局誰も来なかった。


 所詮、話のネタ扱いだろう。真面目に取り合ってしまった自分がアホみたいだ。


 気疲れした俺は今、ちょっと休憩にとベンチを探している。けれど天気が良いせいか今日はどこも空いてない。食堂に行って座るほどでもないし、図書室に行くのも友人に連絡するのも、何だか気が乗らなかった。

 

 でも次の授業まで一時間くらいはある。どこかで暇を潰せないかと構内を歩き回る。


 根っからの不幸体質だなぁと半ば諦めていたが、人気の無いところへと歩いていると、見知った人を見掛けた。


 林堂だ。

 やっぱりいつも通り一人みたいだ。


 声を掛けようかとも思ったが、彼女は颯爽と一直線に歩いていってしまう。

 いや、昨日の松城さんとの会話で罪悪感を覚えているから、声を掛けられなかった。


 引き留めて、何かを話すような仲でもないしな…


「はぁ…」


 情けないため息だけが口から出て行く。

 幸せが逃げるよと母さんは笑うが、どうにも止められそうにない。


 それにしても、と俺は周りを見る。

 ここは本当に人気がない。

 林堂はこんなところで何をしていたのか、と好奇心が心の中で膨らんでいく。


 ここへ来るまでに俺の前を歩いていた雰囲気でもないし、こっちの棟は使われていない部屋も多い。

 わざわざこんな場所にいるのは理由があるのではないか?


 反対に俺の中の良心がしきりに言う。

 気にするな、人のことは放っておいた方が良い。藪から蛇でも出てきたらきっと俺は対処しきれないぞ、と。


 それでも好奇心に突き動かされた俺は注意深く林堂を見掛けたあたりを探る。


「確かここらへん…?」


 よく見れば、美術棟の横に獣道のような跡が見つかった。

 見つけてしまえばもう、踏み止まることなんてできなかった。


 ガサガサと草を踏み分けて入ると、案外綺麗にしているのか途中から歩きやすい丈の草に変わった。

 建物の裏へ回るように道をたどると、そこは庭のような空間が広がっているではないか。

 奥には白いガーデンテーブルとチェアがいくつか置かれている。


 誰かが使っているのか?もしかして林堂が?


 乱雑に配置されているように見えたが、建物側の椅子が手前と奥の二つと合わせてあるテーブルはよく使われているように整列している。

 手前のテーブルには灰皿に大量の吸い殻があり、奥の灰皿には一本しかない。


 こんな場所に喫煙所なんてあったのか?


 探偵気分でうろうろしていると、背後から声が掛かった。


「うを。」


「うおわっ!?」


 心臓がろっ骨を折って飛び出してきそうなほど驚いて振り返る。


 草を掻き分けてきたであろうその人は、ひょろりとして薄汚れた白衣を纏い、同じく驚いた顔をしてこちらを見ていた。


「…せ、先生…ですか?」


「…おーぅ。」


 俺はまだ痛いくらい収縮する胸を押さえながら話しかける。

 林堂がここにいて、先生がここへ来た。

 入口はあんなに分かりにくい。

 と、いうことは。


「すみません…俺、知り合いがここから出てきたような気がして、勝手に――」


 本当に藪蛇だ。

 ここは二人の逢引の場所なのかもしれない。


「いや待て待て。」


 先生は青白い顔で額をぺちりと叩く。

 程よく伸びた髪の毛は後ろで結ばれていて、不潔というよりもダンディな気怠さがある。良い意味で、渋い人だなぁと心の内で思う。


 加えて、林堂はこういう人が好きなのか、とミステリアスな彼女の知らなかった部分を知ってしまったような知りたくなかったような妙な気まずさと気恥ずかしさを感じて、その場を去ろうと足を動かす。


「だから待てって。りんごちゃんの知り合いだな?」


「あの、俺―――誰にも言いませんからっ!」


「だからそうじゃねぇってぇー。」


 引き留めるために伸ばされた腕は細身なのに案外強い。

 先生の顔が面倒くさそうに笑っていて俺も大人しく立ち止まった。


「俺は、りんごちゃんに箱庭を提供してるだけ。」


「箱庭?」


 俺はもう一度じっくり周りを見る。

 確かに椅子もテーブルもあって、喫煙所にしては整えられた場所だ。


「そ。りんごちゃんの他にも礼ちゃん…あー。あんまり言わない方が良いわな。こういうのは。」


 先生は俺の腕を話すと、手前の机の前に立って煙草に火をつけた。

 口から出てくる煙がこちらに来ないよう、わざわざ後ろを向いてくれる。


「俺は美術のせんせー、音無直人。…まぁ、ここの管理人みたいなもんだ。」


 ふっと残りの煙を吐き出す妙な色気のある音無先生を見て、俺はまた頬を赤らめる。


 大人だ…


 俺も成人は迎えているが、自分が一度は憧れたことのある格好良い大人の男の像を完璧に映したような人だ。


「で。りんごちゃんが気になってキミはここに来ちゃったんだろ?どう、ここ。気に入った?」


 奥二重のくっきりした薄い目を更に細めて俺に問う。

 俺は反射的に頷いた。


「は、はい!良いところですね。」


「そうそう。ハーブなんかも植えて夏は虫もそんなに湧かないし、良いだろ。」


「へぇ…あ、本当だ。」


 俺には知識が全くないから分からないが、確かに良く見れば雑草とは違う葉が見える。建物の反対側が林になっているから土草の匂いに紛れてハーブ特有の香りはあまり感じられない。音無先生の吸う煙草のせいでもあるのだろうが。


「ちゃんと手入れしてるんですね…」


 ハーブは育てやすいと聞くが、違和感なくこの景観を保つのは大変だろう。


「分かってくれるか!!」


 音無先生は煙草を左手に持って嬉しそうに笑った。


「いやぁー、あいつら折角ここに招待してやってんのに興味の欠片も持ってなくてな。こうやってあいつらがいない時に来て俺が様子見たりしてんのよー。」


 がっくり項垂れながらも楽しそうに話す音無先生に俺は相槌を打つ。


 結構フランクな先生なんだな…


「まぁここに植えてんのもミントにローズマリーばっかで、俺が甲斐甲斐しく世話しなくても勝手に成長しちまうんだけどな。」


「へぇー、育てやすいんですね。」


「おう。嫁がこれならできるだろって教えてくれたからな。」


「奥さんいるんですね…」


「じゃなきゃせんせーなんてできねぇよ。売れない画家はしんどいんだ。」


 そう言って煙草を吸う音無先生の横顔には哀愁を感じられた。

 何だか雰囲気の良いバーに来た気分だ。


「そういや、名前は何て言うんだ?」


「あっ俺、一ノ瀬悟です。」


「いっちーか。」


 また新しいあだ名が追加されたな、と俺は苦笑する。

 音無先生は目ざとく俺の心情を図ったようで怪訝な顔をして首を傾げた。


「嫌か?」


「あー…いや、俺…あんまりあだ名に良い印象なくて…」


「ほーん…悪かったな、一ノ瀬。」


「いえ、別に俺が気にしなきゃ良いだけなんで…!」


「―――んなこと言ってると、いつまでも損だぞ?」


 咄嗟に出た俺の言葉と共に、煙草の火をかき消す。


「…嫌なもんは嫌って言っとけ。大事だぞ。」


「ぁ……――――はい…。」


 俺はぼんやりとその言葉を頭の中で咀嚼する。

 こんなに面と向かって言われることは今まで無かった。

 そう思うと同時に、林堂の言葉が蘇る。


 ―――ストレス抱えて死んじゃいそう。


 もしかして、嫌味でも何でもなかったのかもしれない。


 音無先生は面食らった俺の顔を見てふっと笑うと、そのまま目の前を通り過ぎようとした。


「あの、俺っ…またここに来ても良いですか…?」


「好きに来れば良い。招待するぞ、一ノ瀬くん。」


 また口角を上げてからかうようにそう言った音無先生の背中を見つめる。


 人のことを気遣えて、それを恩着せがましくさせない爽やかさ。

 堂々としているかと思えば親しみやすい態度。

 ちょっと皮肉っぽい笑い方も、俳優のように格好いい。


 ―――俺、あんな大人になりたい。


 強い憧れを抱いたのはいつ以来だろうか。

 まるで少年漫画を初めて読んだ時のような衝撃だった。


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